直木賞のすべて

将棋・オダサク・直木賞
~吉井栄治
メモリアル

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Last Update[H19]2007/7/10

吉井栄治 候補作家の群像

不完全ながら、半生をつなぎ合わせてみる。
 まだまだ輪郭だけだが、われらが吉井栄治の半生が少しわかってきたので、ちょっとまとめてみたい。
  • 大正2年/1913年(0歳)、大阪府大阪市西区薩摩堀にて商家の三男として生まれる。小学校に上がる前、3年ほど天王寺区餌差町にある祖母の家で過ごす。
  • 大正9年/1922年(7歳)?、広教尋常高等小学校に入学。
  • 大正12年/1923年(10歳)、祖母死す。
  • 大正15年/1926年(13歳)、大阪府立高津中学(現・高津高校)に進学。3年生のとき同級だった織田作之助と知り合う。
  • 昭和4年/1929年(16歳)、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)へ転居。
  • 昭和6年/1931年(18歳)、姫路高校(現・神戸大学の一部)に進学。そこで酒の味を覚える。
  • 昭和11年/1936年(23歳)、東京大学文学部美術史学科に入学。
  • 昭和14年/1939年(26歳)、大学卒業。家業を手伝うため芦屋へ帰る。翌昭和15年/1940年(27歳)、東京大学付属図書館勤務のため、再び上京する。
  • 昭和14年/1939年(26歳)、織田作之助に誘われて同人誌『海風』に第6号 - 第5年1号[9月]より参加。ここに発表した作品は以下のとおり。

    7号 - 第6年1号(昭和15年/1940年4月号)小説「悲しかればこそ」
    8号 - 第6年2号(昭和15年/1940年10月号)小説「銀杏」
    10号 - 第7年1号(昭和16年/1941年春季号[4月])小説「愛情発見」
    11号 - 第7年2号(昭和16年/1941年夏季号[7月])小説「抒情家」

    『海風』第7号から終刊第11号までの編集者を務める。ちょうど第7号編集のとき、改造社主催で文芸推薦作品の募集があった。これは各同人誌に載った一作を、同人誌単位で応募してもらい、当選作を決めるというもの。織田作之助がそれを目指して小説を書くと言うので、第7号に載せるつもりで待っていたが一向に原稿が届かない。文芸推薦への応募作は、同人たちの投票の結果で決める算段だったが、ようやく原稿が揃ったときには、応募締め切りまで時間がなかった。吉井は独断で織田の作品を応募作と決め、刷り上ったばかりの『海風』第7号を手に、白崎礼三とともに印刷屋からタクシーで改造社に急行し、ぎりぎり期限に間に合ったという。その作品こそ「夫婦善哉」だった。宇野浩二、青野季吉、川端康成、武田麟太郎による選考の結果、見事第1回文芸推薦作品に選ばれ、織田作之助の名は一躍世に知られることとなった。
  • 昭和16年/1941年(28歳)、小説「抒情」が『新進小説選集 昭和16年度後期版』(昭和16年/1941年12月・赤塚書房刊)に収録される(『海風』11号の「抒情家」を改題したものか?)。
  • 昭和16年/1941年(28歳)、『海風』をはじめとする同人誌7誌が統合し『大阪文学』創刊。ここに発表した作品は以下のとおり。

    3号 - 2巻2号(昭和17年/1942年2月号)小説「娘」
    6号 - 2巻5号(昭和17年/1942年5月号)小説「狐」
    12号 - 2巻11号(昭和17年/1942年11月号)小説「悪趣味」、評論「「漂流」について」

  • この頃、織田作之助を通じて藤沢桓夫に出会う。以後、師事する。
  • 昭和18年/1943年(30歳)、朝日新聞に入社。
  • 昭和19年/1944年(31歳)、応召。
  • 昭和22年/1947年(34歳)、藤沢桓夫責任編集の同人誌『文学雑誌』に参加。吉田定一、駒井五十二、鬼内仙次といった同人たちと交遊を持つ。
  • 昭和23年/1948年(35歳)、名人位挑戦者決定戦(升田幸三八段×大山康晴七段)にはじめて将棋記者として同行。このときは大阪日日新聞に出向中だった。
  • 昭和23年/1948年(35歳)、父親死す。
  • 昭和25年/1950年(37歳)、「微笑」「北風」で第23回直木賞候補となる。
  • 昭和25年/1950年(37歳)、朝日新聞大阪本社学芸部のデスクを務めていた頃、東大美術史学科の同窓生で『海風』での友人、青山光二を文芸時評の執筆者として起用する。
  • 昭和32年/1957年(44歳)頃、瀬川健一郎、鬼内仙次、阪田寛夫らとともに『文芸大阪』の編集委員を務める。
  • 昭和42年/1967年(54歳)、母親死す。
  • 昭和43年/1968年(55歳)、朝日新聞を定年退職。
  • 日本将棋連盟より長年の功績により表彰される。
  • 昭和47年/1972年(59歳)~昭和48年/1973年(60歳)頃、藤沢桓夫のすすめで、朝日新聞に発表した自身の観戦記をまとめ、『名人戦名局集』『名棋士名局集 付・盤側棋談』を上梓。
いまなお健在の『文学雑誌』編集部に、便りを出す。
 「微笑」「北風」の行方もさることながら、われらが吉井栄治の行方も、実は不明だったりする。生年月日もわからないし、今もなおご健在かどうかすら定かではない。

 誰に聞いたらいいかわからなかったので、吉井栄治のホームグラウンド『文学雑誌』に問い合わせてみることにした。

 そうなのだ、何が偉いといって『文学雑誌』、昭和22年/1947年の創刊以来、今もきちんと継続して刊行されているこの息の長さ。敬服に値するとしか言いようがない。
 兵庫県芦屋市に、今も編集部がある。手紙で問い合わせたところ、早速ご返信いただいた。吉井栄治氏のご遺族や昔の仲間に問い合わせるため、しばらくお時間がかかります、ご了承ください、といったような内容だった。差出人を見ると「杉山平一」となっていたので驚いた。あの『海風』グループから生まれた高名な詩人、杉山さんだ。うわあ。嬉しかった。

 というわけで、こちらのほうは継続して問い合わせの最中である。直木賞病に見舞われた一凡々人の興味のために、妙なことをお願いしてしまって、『文学雑誌』関係筋の方々、ほんとうに申し訳ございません。
ここにきて、初めて聞く雑誌名。
 古本を探したり買ったりするとき、ワタクシはサイト「日本の古本屋」をよく利用する。病に罹って以来、たまに時間があれば、著者名「吉井栄治」で検索をかけて、その結果をチェックしていた。だいたい出てくるのは2冊の将棋観戦記、それと“良質な古書、でもちょっとお高め”で有名らしいあきつ書店の在庫で『新進小説選集 昭和16年度後期版』などなど、いつも代わり映えのしない在庫が並んでいた。
 ところがある日。吉井栄治で検索してみると……
文学季刊日輪 秋季号
中野繁雄・正木利雄・吉井栄治、1、昭和24年、日輪編輯部
表紙シミイタミあり
 む。むむむ。むむむむむ。
 ピンときた。『文学季刊日輪』なる、これまで一度も耳にしたことのない誌名。刊行年が昭和24年/1949年というタイミング。当時『文学雑誌』以外のどこに小説を書いていたかわからなかった吉井栄治の活動に、スーッと光明の筋が差した瞬間だ。

 もちろん勢い込んで注文したが、雑誌が届くまでの間、いても立ってもいられず、日本近代文学館神奈川近代文学館の蔵書検索で『日輪』を調べてみた。日本近代文学館には、秋季号・第2号・第3号・第4号の4冊が、神奈川近代文学館には、第2号・第4号の2冊がある、と出ている。第4号までの刊行の時期は昭和24年/1949年10月から昭和25年/1950年8月まで、まさしく直木賞の第23回期(昭和25年/1950年・上半期)と一致するではないか。うおう。一日も早く実物を見てみたい衝動が抑えきれんぞ。
 仕事の休みの日になるやいなや、横浜の神奈川近代文学館まで音を鳴らして猛進した。

 閉架書庫から出してもらった『日輪』第2号と第4号。まずは第2号を手にとり、表紙をめくる。目次。……ん、この状況、いつか夢にまでみた。「微笑 吉井栄治」。……昇天しそうになった。
『日輪』。その同人3人の関係は如何に。
 『文学季刊 日輪』(以下『日輪』と書く)は、昭和24年/1949年秋季号[10月]が、おそらく創刊号だ。このときの同人、中野繁雄、正木利雄、そして吉井栄治。

 正木利雄さんについてはほとんど情報がないので何にも言えないが、創刊号から第4号まですべての号に詩を寄せている。第2号にある同人住所によれば、当時のお住まいは兵庫県美嚢郡三木町。

 中野繁雄さんは、この方も深く調べていないけれど、芥川賞が石原慎太郎の登場で沸きに沸いた第34回(昭和30年/1955年・下半期)、そのときの候補に、中野繁雄の「暗い驟雨」(『文學者』昭和30年/1955年12月号)が挙がっている。はたして同一人物なのだろうか。『日輪』第2号当時は神戸市生田区山本通にお住まいがあり、編集兼発行人になっている。高橋輝次さんのサイト「古書往来」に出ていた情報などによれば、この方には神戸の古本屋ロマン書房から出した『都会の原野』(昭和21年/1946年11月)をはじめ、『戦線民謡集 今日もまだ生きている』(昭和16年/1941年7月・積善館刊[大阪])、『み民われ』(昭和17年/1942年6月・積善館刊[大阪])、『象形文字』(昭和30年/1955年1月・白羊社刊[東京])などの詩集が存在するらしく、最後の2つの装丁者は棟方志功だそうだ。どうやら中野とお付き合いがあったのだろうか、棟方志功は『日輪』にも第2号でカットを、第3号で表紙とカットを提供している。

 『日輪』はその後、翌昭和25年/1950年に入って、春季号(第2号・2月)、夏季号(第3号・5月)、秋季号(第4号・8月)と出たところまでは確認できた。その後ぷっつりと消息がない。第4号にもとくに、休刊の辞めいたものは載っていない。

 第4号で特筆すべきは、われらが吉井栄治が、突然作品を載せなくなったことだろう。そしてこのころ、吉井の本拠地『文学雑誌』がめでたく復刊している。やはりわれらが吉井栄治、『文学雑誌』の休刊で寂しくなったか新しく同人誌『日輪』を出してはみたものの、『文学雑誌』が復活すると聞いて、懐かしの“心のふるさと”に帰る衝動おさえきれず、『日輪』から離れていってしまったのだろうか。吉井が去ると同時に『日輪』も事実上、終焉を迎えたということなのだろうか。
昭和25年の不思議。

『文学季刊 日輪』
昭和24年/1949年秋季号[10月]・
日輪編輯部刊
 数日後、古本屋から届いた『日輪』昭和24年/1949年秋季号、これがまた経年どおりのシミ・イタミのあるシロモノで、おお、よくぞこんなになるまで50ン年もの間、ゴミ箱に投げ込まれずに生き残ってきたなあと褒めてあげたくなる姿をしていた。
 表紙を開くと目次があって、燦然とかがやく活字の並び「北風 吉井栄治」。ああ、二度目の昇天だ。

 『日輪』は各号を見比べると、体裁(創刊号のみB5判、第2号以降A5判)も、表紙の題字・イラストも、中面のカット担当者もことごとく違っていてまるで統一感がない。意図的だったのか、やむをえずそうなったのか、わからないが不思議な雑誌である。

 ともかくワタクシの旅はついに目的地「微笑」「北風」までたどりついた。無名の同人3人が芦屋市で出した、今やほとんどの人にその名を知られぬ小さな同人誌が、いったいどんな経路を伝って、はるか遠く東京にある日本文学振興会の手まで渡ったのだろうか。そして芥川賞ではなく直木賞の事務当局がそれに目をつけたのも何だか唐突だし、よくぞ候補作に選んで選考会までまわしたものよ。60年近くたった今ならまだしも、当時だって『日輪』のことを知っている人間が東京にどれだけいたというのだ。まったく予想もつかないようなことをやってくれたぜ。

 どうにもこうにも愕然とするのが、それ以後、ただひとり師の藤沢桓夫を除いて、われらが吉井栄治のことを直木賞候補作家だったと誰も書いていないことだ。いや、違う。まだまだワタクシの探し方が甘いだけかもしれない。どなたか詳しい方、吉井栄治が直木賞候補だったことを、藤沢桓夫の回想に拠らないで指摘した文献をご存知の方がおられましたら、ぜひ教えていただけませんか。よろしくお願いいたします。mail to P.L.B.

 幕引きは、ひそやかに表彰式を。
 今回の探索の旅において殊勲賞を差し上げるにふさわしいのは、ダークホース、「日本の古本屋」サイトに『日輪』の在庫情報を載せただけでなく、同人名まで誤植なく入力しておいてくれた、愛知県長久手町の福岡古書店さんでしょう。パチパチパチパチ。ありがとうございます。
 また、いつも拙サイトをご覧いただき、有用な情報を教えてくださる春日井ひとしさんには、相談に乗っていただいたり、吉井栄治周辺のことを調べていただきました。ありがとうございます。
 主演男優賞は、文句なく、われらが吉井栄治さん。まさか、あなたのお名前を本や雑誌のなかに見つけるたびにドキッと心を揺らす赤の他人が、この世の中に存在するとは、想像もしていなかったでしょうなあ。
(平成19年/2007年7月8日記)
付録資料…『文学季刊 日輪』総目次。
(創刊号) 昭和24年/1949年秋季号
昭和24年10月20日印刷
昭和24年10月25日発行
[小説]苦力沈の死  中野繁雄
[詩]風景・超ウラニウムの花  正木利雄
[小説]北風  吉井栄治
表紙 田村孝之介
カット 野崎南海雄
編輯兼発行人 中野繁雄
印刷人 田治一三
発行所 芦屋市打出親王塚町九八 吉井栄治方 日輪編輯部
印刷所 尼崎市北大物町二五 尼崎印刷株式会社
編輯汗話
◆ぼくたちは自分の作品価値を棚上げして、この欄で虚勢を張りたくない。もうそんな年齢でもなくなった たゞ、終戦後の出版インフレの波が去ったあと、却ってぼくたちはぼくたちの姿を直視することが出来、文学えの道の純粋と情熱に、益々捨てがたいものを知る様になった。
◆それでこの純粋と情熱の灯を永遠に消さないためにぼくたちはクォータリイとしてこの雑誌をもつことになった。肉付けのない主張などは一切いゝたくない。作品だけがぼくたち成長の母体で、之れ以外のことは寒々しくて言えない。
◆同人が概ね月一作づゝ書き、その中で一作づゝ選ぶ その方が作品的にも経済的にも批判と余猶を与え、いまのぼくたちには相応しいと思ったから、当分そういう方法をとる。
(以下略)
※通巻号の表示がないため、括弧つきで創刊号とした。なお巻末に掲載の「編輯汗話」は第2号以降「編輯汗語」となる。

第2輯 昭和25年/1950年春季号
昭和25年1月15日印刷
昭和25年2月1日発行
[小説]思慕恋草  中野繁雄
[詩]抛物線・運命  正木利雄
[小説]微笑  吉井栄治
表紙 小磯良平
カット 棟方志功
編輯兼発行人 中野繁雄
印刷人 若葉孝一
発行所 芦屋市打出楠町七四 日輪編輯部
印刷所 神戸市兵庫区西出町七七 丸和印刷出版株式会社
編輯汗語
★昨年あたりで概ね文学の混迷期も終ったように思われる。今年はいよいよ、作家や作品の真価が、金は金、鉛は鉛として価値づけられる年ではないだろうか。
★従って文学本然の姿がはっきりし、僕たちにとっても幸いな年とも思えるので、どのようなことがあっても、この雑誌を続けようと決心している。
★次号では百枚程度の作品を計画して、既に準備にかゝっているが長いからといって決して力作などとはいえないので、質量相伴うものを書きたいと念じている。

第3号 昭和25年/1950年夏季号
昭和25年4月15日印刷
昭和25年5月1日発行
[小説]時間  吉井栄治
[詩]海辺にて外三篇  正木利雄
[詩]風葬礼  今山 敏
[小説]虚実の像  中野繁雄
表紙・カット 棟方志功
編集兼発行人 中野繁雄
印刷人 若葉孝一
発行所 芦屋市打出楠町七四 日輪編輯部
印刷所 神戸市兵庫区西出町七七 丸和印刷出版株式会社
編輯汗語
▽季節の風のように夏季号が出された。いつもの如く、各人各様に、自分の裸像を露わにした。それでいいと思っている。お互いが人間を信じ合うこと、それ以外に何があるだろうか。思考、個性、これらの相違はあっても、それを認め助長する善意が必要なのだ。
▽一本の精神の紐帯に結ばれた核が路傍の石を積む如く、横に拡がり上に伸びてゆく。燦めく瓦礫、鈍く光る石片への道程に、なくてはならぬもの、誠実、情誼、耐忍、それがこの雑誌の母体である。
▽だが、然し、いざ雑誌が出るとなると、自然と、額に汗が滲んでくるのを、どうすることも出来ない。この時代の世相を反映した苦しさよりも、活字になった自己の全裸をみつめる羞恥を思うからである。
(以下略)

第4号 昭和25年/1950年秋季号
昭和25年7月15日印刷
昭和25年8月1日発行
[Denken]斜角  W・オストヴルト
[散文詩]敗北の郷愁者  花戸 渉
[詩]空間・地球・ナラタージュ  正木利雄
[詩]紅海・ナイフ  今山 敏
[小説]セントヘレナの伯爵  中野繁雄
表紙・扉・カット 春海青賢
発行所 芦屋市打出楠町七四 日輪社
編集兼発行人 同上日輪社気付 中野繁雄
印刷者 神戸市兵庫区西出町七七 若葉孝一
※編輯汗語なし。
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