直木賞受賞作
第11回(昭和15年上半期)受賞

軍事郵便

河内仙介

『大衆文藝』昭和15年3月号




“芝村巡査の日記より”

――明治四十二年十月○日――曇。
 今日から増井橋交番の駐在を命ぜらる。同交番は本署の管轄区域内中、最も警戒を要し、署内古参の一人として、選任せらる、名誉にして責任重大を痛感せり。
 区域内には、大阪名代なだいの貧民街にて俗称カンテキ長屋、いたち横丁、六道の辻あり。
 一通り、担当区域を巡回して驚けるは子供の多いことなり。頼もしいことなり。
 儂も薄給にて、ひどい家に住みおれど、下には下あり、中でもひどいのはカンテキ長屋なり。
 こういう区域を担当するとなると、うんふんどしを緊めてかゝらざる可からず。

――同年十月○○日――快晴。
 今日始めて戸籍調べを行う。
 住民の職業中、多きは大道易者はっけみ女土工よいとまけ、立ん坊、朦朧車夫よなし、仲仕、木挽き、屑買い、掃除人夫ごみや等なり。
 この区域内に、要視察人はたった一人、朦朧車夫の東稔とね貞吉のみ、但しそれも破廉恥罪でなし、日露戦争の終り頃から大阪に始めて河川航行の巡航船通ず。当時、市内人力車夫の一部、その航行を妨害したることあり。
 東稔貞吉はその当時の暴行犯人の一人なり。見たところ温順な男にて、女房にも死なれ十歳の男児を擁し鰥夫やもめなり。

――同年十一月○○日――晴。
 事件なく安穏。
 ところが今午前二時頃カンテキ長屋の附近を巡回中、「人殺しッ!」という女の悲鳴あり。
 朦朧車夫東稔貞吉隣家となりの大道易者が、路傍で、女房をひッ※(「テヘン+國」)つ蹴るなぐるの最中なり。
 亭主の大道易者は、照れ臭そうに畏まりたれど、女房の方は急に威丈高になり、
「殺せるもんなら殺して見い。人を稼ぎに出しといて、嫉妬へんねし起す亭主なら、こっちから、おン出てやるわい」
「安眠妨害ということを知らんか。まだ喧嘩がしたいなら、一緒に警察へ来い」
 これにて納まる。女房は、ひと堪りもなく縮み上って、
「えらい済んまへん。堪忍しとくれやす、なんせ男の癖に嫉妬起して、わてをたゝいたり撲ったりして……」
 この大道易者の女房は、小皺の寄った顔にごてごてお白粉を塗り、夕方になると、交番の前を通って、千日前方面に出かけて行く奴なり、虫が好かん。

――同年十二月○日――晴。寒気頓に加わる。
 夜、十二時頃、五丁目停留所附近に、徘徊する子供あり、
 両手で腹を押え、前かゞみにとぼとぼと歩けり。訊問す。
 例の朦朧車夫よなし東稔とね貞吉の一人息子の貞造なり。
 この寒空に、垢じみた継ぎはぎだらけの素袷すあわせ一枚にて、寒さに歯の根も合わず。
こわがらんでもえのじゃ。怒っとりゃせん。交番にいる儂を知っとるじゃろう。どしたんじゃ、いま時分」
「お父ッちゃんが、一昨日の晩から帰って来まへんねん。腹が減って仕方がないさかいに、お父ッちゃんを捜しに来ましたのや」
 なだすかして、訊きたゞして見る、父親は一昨日夕方、いつもの通り仕事に出て行ったきり、何の音沙汰なく、向いの女土工よいとまけの小母はんが、握り飯を呉れたけれど、喰う気せず、それからずッと、待ちあぐね、目標あてもなく街に出たと判明す。
「心配せんでもえ。儂があんじょうしてやるから安心せい」
 夜鳴きうどんを二つ、喰べさす。
おゝきに、ご馳走さん」
 と、いえり。可愛いところあり。
 次の巡回の時間が迫れり。
「独りで帰って寝て居れ。朝になると、儂が行ってやるからな」
こわい」と、
 泣き出しそうな顔をす。
「そうか、そうか。怕いか、それではこゝで泊めてやるからな、待っとれよ」
 この少年の容貌によき処ある気がする。

――同年十二月○日――雨、非番
 午前九時交替、貞造を附近の飯屋で朝飯を喰わす。
 旺盛に食えり。もう馴れたのか、時々箸を休め、にこにこ顔をみる。無邪気な奴なり。
 飯屋から雨中貞造を外套の中に擁えて行く。ふっとこんな男の子が一人慾しくなる。今年六つになる娘の美代一人ッきりなればなり。
 東稔とねの家は、もぬけからなり。
 隣家となり大道易者はっけみの女房を呼びて訊く。
東稔貞吉くるまやはんだっか? 今朝方帰って来ましてな、何処か遠方へ稼ぎに行くとかいうて、道具類を屑屋に売り払うて、出て行きましたがな」
「道具いうたかて、腐った蒲団と、瀬戸火鉢だけだっせ。そんでもえらいもんだっせ、皆んなで、五十銭にも売れましたさかいになア」
 売り飛ばせしはこの大道易者はっけみの女房に違いなし、金額僅かに五十銭なれどその心根憎し。
 そうしているうち、雨も厭わず、物見だかい長屋の連中が押しかけ忽ち人だかりなり。
 その時迄、くるくるした烏睛くろめを瞠り、慍った顔で、大道易者の女房の顔を睨みつけていたる貞造が、火のついたよう泣き出せり。
 咄嗟に決心せり、この少年を養育せんと。
「泣くな、泣くな。儂があんじょうしてやるからのう」
 夢中で貞造の白癬しらくもだらけの頭を撫でたり。


 ……この日記に出て来る貞造少年が、即ちこの私で、つまり、私の人生双六すごろくの振出しでした。
 それからの私は第二の父母である、芝村巡査夫婦に、養育されて来ました。
 その頃の巡査の俸給は、八円から十二三円位だったそうで、いかに諸式が安かったとは云え、親子三人に、私と云う厄介者を背負い込んでは、並大抵ではなかったと思います。
 それでも、何一つ別けへだてすることなく父も母も、却って実子の美代よりは、何かと私の方に眼をかけて呉れたものです。私も亦そうした両親の愛情に、こんな境遇の子供には有り勝ちの僻んだ気持等は、露程も知らず、すくすくと生長しました。
 遅ればせながら、小学校にも上りまして、やがて、卒業間際のことでした。
 三月でした、奈良のお水取りの前で、大阪には珍しい粉雪がちらちらしていたような寒さの日でした。
 日曜日のことで、お昼過ぎ玄関で本を読んで居りますと、そこへ父が帰って参りました。非番の日は、いつも午前中に帰って来るのでしたが、その日に限って遅かったのは、卒業後の私の方針に就いて、学校の先生と相談して来たらしいのです。
 父の後から追ッ駈けるように、電燈会社の集金人が来ました。それを見ると、父は出迎えた母と顔を見合せ、玄関に佇んでいました。母は、
「いつもお手数をかけて済みませんが、今度の廻りにして戴けんでしょうか」
 慇懃いんぎんに、集金人に頼んだのです。
「今度の廻りて、いつの事です。何べんも足を運ばされて堪るもんか。どうしても具合が悪いのなら、気の毒やが、電気を消させて貰いまっさ」
 すると、その時迄、ぼんやりと突ッっていた父が、
「已むを得んことじゃ。消し給え。消して帰ることが、君の職務に忠実な所以ゆえんじゃ。儂なら、そうする」
 母も私も呆気に取られて、父の顔をみつめるばかりです。それが冗談で云ったのでないことは、父の顔に漲っている、侵し難い真摯な色を見れば判ります。然も、父の顔には私の容喙ようかいを許さない、儼乎としたものすら感じられるのです。
「あんたはんが、こゝのご主人でっか。いや、なにも今消すと云うた訳やおまへん。まア、それじゃ今度だけ待ちまひょうかい」
 集金人は急に態度を変えて、るそうに、にやにや笑いました。
不可いかん。断じて不可ん、職務を遂行する上に、私情を差し挾むことは禁物じゃ。こゝの主人としてゞはなく、巡査としての立場から、君に忠告する。消し給え。それが正当だ」
 父は主張をげようとしません。
 然し、こゝ迄来ると、まだやっと小学校六年生のその時の私には、父の気持を諒解することは出来ませんでした。が、今日になって見ると、父の気持が、ぴッたりと判ります。恐らくその時の父の顔には、公私二つの感情がせめぎ合って、苦渋な色が漂うていたに違いないと思います。
 それが父の本質なのです。思っても見て下さい。私を引取って養育して呉れた、その動機は、大道易者はっけみの女房の微罪を黙過した、その※(「サンズイ+賣」)職の償いではなかったでしょうか。
 結局その時は、母の執り成しで、その夕刻迄に、電燈料を最寄もよりの出張所に届けることにして、やっとけりがついたのです。
 集金人が帰ってしまうと、母は、そッと※(「竹/單」)笥の抽斗ひきだしから、美代が大きくなった時のために残してあった、自分の娘時代のたった一枚の羽織を、風呂敷包みにして、家を出て行くのでした。
 暫くして、表で遊んでいた美代が、
「お母さん、なんぞ――」
 帰って来るなり、おやつの催促です。
 この時ばかり、私は、いかに頑是がんぜないとは云え、美代の暢気さに、むらむらと腹がって来ました。
 その時父は、非番の日の習慣で、奥の間で炬燵に這入って寝ていました。
 私は、ぐッと美代を睨みつけました。
「判らんのか、この阿呆ッ」
 奥の間の父に聞えないように、声は潜めていましたが、鋭く、美代をたしなめました。
 然し、それや無理です。美代は、きょとんと私の顔を瞶めていましたが、軈てその顔がべそをかいて来たのです。
 泣かれては大変だ、そう思うと、私は物も云わず、美代をかゝえて、ぐんぐん表に連れ出しました。
「美代は賢い。泣いたらあかん。今日は、なんぞの貰えん日や。なア、判ったか」
 云い聞かせると、常日頃のことで、頑是ない美代にも、事情が呑み込めたのか、うンうンと素直に頷きながら、寂しそうに微笑むのでした。
 私は、その素直な美代が、急に可憐いじらしくなって、胸が一杯になりながら、
「美代は賢い、我慢せいよ」
 こう云って頭を撫でてやりました。
 私はこの時始めて、美代に対して、真実の兄らしい愛情を、沁々と感じました。

 何しろ、こう云う世帯の有様でしたから、小学校を卒業すると、私は父母や学校の先生の慫慂すゝめを斥けて、鉄工所の見習工になりました。
 上の学校に行くとなれば、父や母がどれだけ無理な苦労をするかも判らないと思うと、安閑と、上の学校に進む気持にはなれなかったのです。
 一体、私と云う人間は、幼い時から機械類をいじることが好きで毀れた置時計の機械を五六年もの間の、たった一つの玩具おもちゃにして、飽きなかった位です。
 だから工場に通うことも、そんなに苦にならなかったのです。昼は工場で働き、そこで得た賃金で、夜は機械工学の智識を得るために、工業学校の夜学に通い続けました。
 その又、鉄工所の主人と云う人は、高工の機械科を出、一風変った性格の持主でした。
 始めのうちは、走り使いや工具の持運びをやっていましたが、だんだん慣れて来るにつれて、機械を使う方に廻して呉れました。
 その初めの日、主人は私達見習工を集めて、ターレットと云う機械の使い方を説明して呉れました。説明が、一通り終ると、
「これは機械じゃない。お前達の体の延長だ。触って見い。温い血が通っているぞ」
 こう云って、さも愛撫するように、機械の鉄の肌を、ぴたぴたとたゝいていました。
 私は朋輩を押しけて機械に近寄り、主人の真似をして、機械に触れて見ました。油の臭いが、つンと鼻に来るだけで鉄の肌は、冷く、私の掌に感じられたゞけでした。
「冷い。まだ他人だ」
 何故そんなことを云ったのか、自分でも判りません。然し、その素直な言葉が、後々迄も、主人が私に眼をかけて呉れる、きッかけになりました。
「うむ。面白いことを云う奴だ。他人なら他人でも良い。その他人を征服して、自分の手足のように使えるようになれ」
 主人は、こう云って私を励まして呉れました。
 そんな主人ですから、たゞもう良い仕事をすると云うことで、一心不乱です。機械を使っている時の主人は、何かき物のした人間のようです。天職に没頭し切った人間の、法悦に近い陶酔しきった悦び――そう云った感じさえするのです。
 良心的な仕事をするためには、より精度の高い機械がる。
 鉄工所の親方と云えば、金が儲ると妾を置くか、酒と女の贅沢三昧に耽ける者が多いのに、この人ばかりは儲かれば儲かるだけ、みんな機械に入れ揚げてしまうのです。
 何と云っても、工作機械では、米国と独逸とが、断然優秀でした。今日でこそ、日本でも製作していますが、あの錘形歯車ベベル・ギヤー切削機シェーバーは、米国のグリーソン会社のものが、一番精巧で、この機械を、日本で始めて据付けたのも、主人うちの工場でした。
 こう云えば業界方面の人達なら、あゝ、あの人かと、すぐにも思い当る位、主人は顔の売れた人でした。
 然し、精巧なことには申分はないが、値段も亦一台五万円近くもしたのです。思い起つと、矢も楯も堪らず、随分無理な算段をして迄買い込んだのです。
 そんな有様でしたから、あれだけの大工場の主人が、家庭での生活は、一介の職工と何の選ぶところもなく、何処へ行くのにも菜ッ葉服一つでした。
「見栄や酔狂で買うのじゃない。日本のためなのだ。日本の重工業を発達させるために、自分がその捨石になるのだ」
 主人の口癖でした。
 話が前後して申訳ありませんが、まア、ざっとこんな主人に仕込まれたのですから、自分で云うのも変な話ですが、私の技術も、お蔭でぐんぐん上達致しました。それにつれて、機械に対する興味も、日増しに加って参りました。
 そうなると、主人も特別に私に眼をつけて呉れ、少し無理でしたが、旋盤を使わせて呉れるようになりました。
 ご存知かも知れませんが、旋盤とは、鉄の材料を回転させながら、これに刃物をあてゝ、いろいろな形に削り取る、最も一般的な工作機械です。それだけに、旋盤仕事は最も複雑で、興味も深く、又技術を要する訳なのです。
 旋盤の刃物をバイトと云います。多くは高速度鋼ハイスピード・スチールで、粘り気のある鉄を、ぐんぐん削って行きます。
 始めてハンドルを握った時の気持は、忘れることは出来ません。
 刃物の熱と油の中から、美しい鉄の波紋がもりもりと現れて来るのです。バイトが鉄の肉に喰い込むと、鉄の切粉が、螺旋を描いて流れ出して来ます。そして、機械の音響が、音律的リズミカルな快い伴奏を続けて呉れます。
 鉄がれる。思いのまゝに鉄が截れる。そう思うと、胸の裡がひとりでに湧き起って来ます。もう機械も人間も一体です。機械と一緒に働く者の醍醐味は、こゝに在るのだと謂えましょう。私は毎日工場に通うのが、愉快で堪りませんでした。

 然し、だんだん機械に慣れて来ると、張り切っていた気持にも、ゆとりが出来て参ります。
 このゆとりが、技術の方の余裕綽々となると好いのですが、ただ気持の上だけになると隙間が生じて来ます。つまり油断です。
 恰度ちょうど、私がその後の方だったのです。
 私の場合、弁解を許して戴けるなら、昼は工場で働き、夜は学校に通うのですから、どうしても睡眠が不足勝ちで、ぽかぽかした春の日の午後など、機械の音律的な響が子守唄のように快く、ついうっとりと睡気を催して来たのでした。
 忘れもしません。あの日も、恰度そうした晩春の日の午後で、硝子窓を通した陽射がまともに背中にあたって、じッとりと汗ばんで来る陽気でした。
 バイトの刃尖はさきを瞶めていた私の眼は、いつとはなく茫乎と霞がかって来て、不覚にも、鉋台にりかゝって、とろとろと微睡まどろんだと思われます。
 不意に私は、右の指尖に、焼けつくような鋭い痛みを感じて、はッと、自分を取り戻しました。
 もうその時は、無残にも、私の右手の人差指と中指はバイトの刃尖に截断されていたのです。
「ぎゃッ!」
 と、絞られるような私の呻き聞きつけて主人が駈け寄って来た時、私は真蒼になって、左手で、鮮血の迸しる右の掌を握り締めながら、その場に蹲踞しゃがみ込んでいました。
「確ッかりせいッ。指は切っても死にはせん。それでお前は一人前になったんだ」
 主人は私を擁え起しながら、耳許で叫び、傍の朋輩を手伝わせて、私を附近の病院に担ぎ込んで呉れました。主人の言葉は、鳥渡、酷薄な言葉のようですが、矢張り思慮のある人の言葉は違います。あの場合、※(「(來+攵)/心」)なまじい優しいことを云われたら、私はその儘、昏倒していたかも知れません。
 然し、この負傷に依って、私の機械に対する興味は、尚一層の熱意さえ加えて参りました。
 その当座は、父も母も、美代迄が、機械仕事は危険だから、それを機会に止めて呉れと喧しく云うのでした。それは工場の内部の事情を知らないからです。
 美代ですか? いゝえ、まだその時は結婚していません。だって年齢としから考えて見て下さい。私が十九、美代は二つ違いの十七でした。尤も、父も母もその積りで居りましたし、許婚時代だったのです。
 機械は魔物です。不思議なもので、少しでも気持を他所よそに移すと、機械は噛みついて来るのです。悪女の深情けとは、機械にもあてはまる言葉です。機械に浮気は禁物です。
 暫くの内は強い反撥心で、機械を征服しようとした私は、だんだん機械の深情けにほだされてゆき、今では機械は私の切っても切れないより良き半身ベター・ハーフになってしまいました。

 夜学ながら、工業学校を卒業しますと、主人は私を、熟練工なみに昇格して呉れました。まア、やっと一人前になれた訳です。お蔭で賃銀も多くなりましたし、もうこの上は父を働かせなくとも、細々ながら、どうやら私だけの収入で、生計を支えて行けるようになりました。
 然し、父は、日記やいつぞやの、電燈会社の集金人との口論からご察し下さる通り、大根おおねは至って情に脆い性質たちですが、変に又、頑固一徹なところもあったのでした。下手に巡査を辞めて呉れなどと切り出そうものなら、どんな叱言を喰うかも知れません。私は母や美代を通じて、それとなく父の気を引いて見たのです。
「莫迦なことを云うもンじゃない。儂はまだまだご奉公する。老衰してお役にたゝぬと云うじゃなし、これでまだまだ若い者には退けを取らん」
 案の定、父はこう云って、ひどく不機嫌でした。
 そうは云うものゝ父も寄る年波です。額の皺は深くなり、頭髪は目に見えて白くなっていました。頑固一徹なことを云っていても、洋刀サァベルを提げた父の後姿は、何処となくしょぼりとして、痛々しい位衰えていました。
 私の心配は、矢張り※(「木+巳」)憂ではなかったのです。
 ある晩――忘れもしません。六月の下旬、大阪の街には気の早い浴衣がけの人々が、初夏の夜を楽しみながら散歩していた頃でした。
 その日、父は非番でしたし、私は上半期の賞与金ボーナスを貰った早帰りの日で、かねてからの約束で、その晩は一家揃って、ルナパークの貞楽の喜劇をに行くことになっていたのです。
 父も母も、貞楽が好きで、時たま、それを見物に行くことは、貧しい私達一家の、精一杯の娯楽でした。
 私が工場から帰ると、入れ違いに、父は近くの銭湯に出かけて行きました。
 それから、ものゝ二十分も経った頃だったと思います。湯屋の若い衆が、慌しく駈け込んで来ました。
えらいことや。いま、お宅の旦那はんが風呂ン中で、ひッくり返りやはりましたがな。早よ、来とくなはれ。卒中らしおまっせ」
 美代と一緒に食事をしていた私は、箸を投げ出すなり、湯屋に駈けつけました。無論、家は明けッ放しで、母も美代も、遅れず続きました。
 それッきり、父は家の六畳の部屋で、動脈硬化症で半身不随の躯を、横たえるようになりました。
 始めのうち、父は、たゞ足腰が起たないと云うだけで、冗談を云って家中を笑わせたり、機嫌の良い朗かな病人でした。が、寝ついて二年目位から、父はだんだん気むずかしくなって、母や美代を困らせるようになって来ました。
 ところが、私にだけは無理を云いません。どんなに、母や美代を困らせている時でも、私が行ってなだすかすと、父は素直に、聴いて呉れるのです。
 私はそうした父がいじらしくもあり、その半面、父が他人行儀なように思われて、鳥渡寂しくもなりました。妙な気持です。同じように無理を云われゝば、困るとは知りながら、私も、母や美代のように駄々をねられて見たい気持がするのです。
 その気持は、僻み――と云えば、多少似通ったものかも知れませんが、然し、しねくねと一人で考えて、胸の裡にしまい込んで置くような、そんな陰性を帯びたものではありません。私は明けすけに、その気持を母に打明けた位です。
 ところが、母は私の言葉を聞くと、朗かに笑い出しました。
「違う、違う。そんな遠慮をする人か。もうまるで子供とおンなじや。本当ほんまにあんたが一番好きと云えば好き、怖いと云えば怖いのかも知れん。何故なんでや云うて、あんたを怒らせてしもうたら、外に誰もお湯に連れて行て呉れる人があれへんもの」
「なる程なア……」
 私も思わず笑い出してしまいました。
 実際、入浴の好きな父でしたから、もっと度々連れて行って遣りたかったのですが、大体、病気が病気でしたし、月二回の入浴は、医者の許して呉れた限度でした。それに、こうした病人を入浴させることは、昼間の雑沓しない時に限りますから、恰度ちょうど、第一と第三の日曜日、月二回の公休日を、私は父の入浴日に決めていた訳です。
 これはその時、母から聞いたことですが、ある日私の留守中のことです。父がカレンダーを取れと云いますので、母が渡してやりますと、父は片方だけが動く不自由な指で、その日めくりをめくりながら、独りで、にこにこと悦に入っているのです。不審に思って、母が覗き込むと、いつの間にけたのか、第一と第三日曜の入浴日には、鉛筆でしるしがしてあるのです。
「もう三日すると、風呂に這入れる」
 ぼしゃぼしゃと、舌の廻らぬ口で呟いている、子供のような顔を見ると、母は、その場に泣き伏したそうです。私も、その話を聞くと、父がいじらしくて、思わず瞼の裏が、熱くなった位です。

 私と美代との結婚式は、こうした病みほうけた父の枕頭で挙げました。
 前にも申し上げました通り、私と美代とは許婚いいなずけの仲でしたが、然し、この挙式は、余りにも抜打的な、父の吩咐いいつけだったのです。
 その日の朝、何も知らずに工場に出て行ったあとで、父は、急に、私を呼び戻し、美代と結婚式を挙げさせようと云い出して、諾き入れません。終いには又癇癪を起す始末です。
 その晩、父の枕頭で、この抜打的な結婚の式を挙げたのです。勿論、誰一人席につらなる者もなく、さゝやかな家族四人だけの内祝言ないしゅうげんでした。
 型通り盃が済むと、父は不自由な躯をにじり出して、私の手を握り締めながら、呂律の乱れた口で、「頼む、頼む」と繰返しました。むくんだ父の頬には、泪が静かに糸を曳いていました。私も父の手を握り返しながら、「判りました、判りました」と繰返して居りました。
 母も泣いています。美代も晴衣の袖で、顔を覆うていました。いや、もう、しめッぽい結婚式もあったものです。
 父の亡くなりましたのは、それから、僅か三日目の夜でした。何の苦しみもなく、眠るような大往生です。恰度、寝付いてから五年目の秋でした。
 父が亡くなりますと、あんなに元気だった母親が、急にとぼんとしてしまいました。
 病気が病気でしたから、父が亡くなりました当座は、何か肩の荷を卸したように、吻ッとしていた母でしたが、然し、それはほんの当座の間でした。日が経つにつれて、手足も動かない肉塊だけのような父でも、矢張り生きていて、駄々を捏ねていて呉れた方が、どれだけ母の気持に張り合いがあったかも知れません。
 母は、まるで、突支棒つッかいぼうを失ったように、それから二年目の、矢張り秋も深い夜でした。ふとした風邪がもとで、死んでしまいました。
 現在、私がゆがみなりにも、一つの会社の専務として、烏滸おこがましい言葉ですが、社会の一員として、大手を振って世の中を渡って行けるのも、この父母の恩愛の賜に他ならんのです。
 云う迄もなく、私としては、夢寐むびの間も、この大恩を忘却しては、人倫にもとると云うものです。にも拘わらず、その夢寐の間も、私は矢ッ張り、自分を捨てて行った実父のことが、忘れようとしても、忘れられないのです。
 生みの親より育ての親と云うのですから、こんなことを口にするさえ、私は亡き父や母に対し、苛責に堪えない気持が致します。が、哀しいことには、私は自分の気持を偽ることは出来ません。
 私は、自分を捨て去った父親を、憎むどころか、こうしてッと眼を瞑っていますと、寒い冬の夜、あのカンテキ長屋の、火の気もない家の中で、濁酒どぶろく臭い父親の喉首にしがみついて眠った、甘酸ッぱい思い出が、胸を緊めつけて来るのです。――

 興亜精工株式会社専務取締役芝村貞造氏は、こゝ迄話して来て、急に言葉を杜絶とぎらせたかと思うと、煙草の烟りにせたのか、ごほンごほンと咳込みながら、眼を※(「尸/婁」)しばたゝいた。
 眼を※(「尸/婁」)叩いたのは、あながち、煙草の烟りに噎せ返ったゞけではないらしい……。


 芝村貞造が、二十年間勤続した鉄工所の、主人の慫慂すゝめに依り、独立して、球軸承ボール・ベアリングの製作工場をはじめたのは、昭和三年の秋だった。
 球軸承とは、シャフトの回転を円滑にし、その負荷量を軽減するための、伝導装置の部分品で、機械工業としては、重要な産業部門の一つなのである。
 然し、貞造の創業当時に於ける、日本の球軸承の生産額は、洵に寥々たる有様で、その需要の殆ど九割迄は、S・K・Fとか、ホフマンとかの外国品の供給を仰いでいた。
 現在でこそ、群小の球軸承工場は、雨後の筍の如く簇出ぞくしゅつしているが、その時代に貞造が、将来日本の重工業の発展を目指して、その国産化を計画したことは、洵に果断であり、卓見と云うべきであった。
 創業当時の財界は不況のどん底にあった。その上、時の内閣の極端な緊縮政策の余波を受けて、幾つもの銀行や会社がばたばたと将棋倒しに倒れ、財界には、恐慌の嵐が吹き荒んでいた。
 事業の最初から、不況の荒波にあらがって行くことは、貞造には、大試練だった。然も彼の創業は、僅か一万円の小資本である。謂わば、怒濤の真只中を、扁舟に棹さしたも同然だった。幾度か難破の憂目に遭遇したが、貞造は、持前の強靱な反撥力で遮二無二、その怒濤を乗り切った。彼は苦難に直面する都度、機械のために※(「テヘン+宛」)もぎ取られた自分の不具の手をじっと凝視して来た。貞造はかつて機械を征服し得たように、完全に、財界の荒天を征服することが出来た。
 そうしているうちに、満州事変に次いで、支那事変が勃発した。
 それにつれて、貞造の工場も、所謂軍需景気の波に乗って、目覚しい躍進を続け、その内容は見る見るうちに膨脹した。
 その発展振りに目を着けた、大阪の野本財閥が、重工業方面進出の第一段階として、貞造の工場を買収し、資本金五百万円の、興亜精工株式会社の創立となった。
 始め野本財閥から、この交渉を受けた時、貞造は、にべもなく、この、降って湧いた幸運な交渉を一蹴した。
 然し球軸承工業と云うものは、軍需品としては、最も重要な部門の一つだった。その上に、日本の現状は、国民全部が打って一丸となり、国策遂行に邁進しなければならない場合だった。
 貞造は、彼自身の考えが、極めて独善的な偏見に過ぎなかったことに気付くと、さらりと自説を撤回し、野本財閥からの交渉に応じた。
 会社が創立すると、貞造は一躍して、専務取締役の位置に就くことになったのだが、貞造は、相変らず菜ッ葉服を着て、工場の中で油にまみれながら、一介の職工と同じように、真黒になって働き続けるのだった。
 それが新しく入社して来た、学校を出たての若い技師達には、烟たい存在であることは云う迄もない。彼等は機会ある毎に、その存在と、年齢に似合わぬ世故慣れた巧みな阿諛と追従で、敬遠しようとしてかゝった。が、その都度、
「儂に、機械と手を切れと云うても、それや無理じゃ。悪女の深情けの味は、格別と云うもんです。あんた達のように若い人達に、この味のよさは、まだ判らん」
 貞造は、こう云って、意味が判らず眼をぱちくりさせている若い技師達を烟に巻きながら、いつもからからと笑っていた。

 昭和十三年一月、聖戦下に日本は、光輝ある戦捷の新しい春を迎えた。
 興亜精工会社では、その仕事始めの日の朝、貞造は例年の通り、縁起を祝って、早朝から工場の事務室に陣取り、従業員達の年頭祝賀の挨拶を受けていた。
 季節は、寒に這入ったと云うのに、空はからりと晴れ亙って、事務室の窓を通した暖い陽射しは、もう浅い春を思わせた。
 丸刈頭の童顔をにこにこさせながら、今日ばかりは貞造も、りゅうとしたモーニング姿だった。
「お目出度う、相変りませず」と、繰返しながら、その合間合間に、机の上に置いてあった従業員名簿に、漫然と、眼を曝していた時だった。不意に、貞造の眼は、鋭く光って、ある一ヵ所に、吸い着けられた。
  原籍 愛知県知多郡常滑町社辺六一
  現住所 大阪市旭区野江町三ノ一二九
  東稔義次郎
  大正二年九月三日生
 貞造は、暫くこの名簿の一頁を、凝視していたが、軈て、ふうッと、肚の底から歎息を洩すとその儘、肘掛椅子に身を沈めて、眼を瞑った。
東稔とね」と云うのは、云う迄もなく、貞造の実家と同姓である。類のない姓だけに、それとなく長い間捜し求めていた、実父の係累の者ではないかと云う疑念がきざし、
(果して、そうだとすれば……)
 そう考えたゞけで、貞造は、潮騒のようにざわめき起つ激しい混乱を感じる。
 もう、後から来た従業員達が年頭の挨拶を述べても、貞造は空虚うつろな眼をぽかんと※(「目+爭」)った儘、頷き返すだけだった。終いには、それさえも煩しく、ドアを締め切って、混乱した想念を、冷静に引き戻そうと努力した。
 長い間、貞造は、深々と、肘掛椅子に身を沈めて、眼を開かなかった。
 工場では、もう仕事が始まったらしく、機械の音響が、この事務室迄、微かな振動を伝えて来る。
 彼は、漸く、気持の落着きを取り戻すと、躯を起して、もう一度名簿を取り上げて、その東稔と云う従業員の、入社日を調べて見たりした。
 入社日は、昭和十二年二月と記入してある。すると、矢張り新会社になる迄の、工場の大拡張で、百人余りも一時に採用した時の者に違いなかった。それにしても、新しく採用した従業員は一通り面接して見た筈だのに、この東稔と云う従業員に関しては、何の記憶も残ってはいなかった。
 貞造は給仕を呼んで、その従業員を連れて来るように命じた。
 事務室の外に、跫音が聞えて来ると、彼は、年甲斐もなく、又してもざわめき起って来る自分の気持を、冷静に、冷静にと叱り付けた。
「お呼びでしたか。僕が東稔です」
 はきはきした言葉で、軍隊式に直立不動の姿勢をとったその男の顔を見ると、貞造は軽い失望を感じた。
 眼の細い、色の浅黒い、面長で、肩骨の稜起いかった、拳闘家のような、がッしりした躯つきは、貞造が自分の顔貌から推して想像していたのとは、かなりに遠い隔たりがあった。
「あんたは、愛知県の生れだね」
 貞造は徐ろに口を切った。
「そうです」
「ご両親は?」
「父一人です。母は五年前に亡くなりました」
「すると、あんたの奥さんは?」
「まだであります。父と二人きりです」
「ほゝう、お父さんと二人きりで……それじゃ、ご飯を炊いたりするのは?」
「父が万事やって呉れるのです」
「お幾つだね、お父さんは?」
「七十二です」
「ご壮健かね?」
「えゝ、至って壮健です」
 ぽつりぽつりと、受け答えをするだけで、何の手懸りもない。勿論、この平凡な会話の間にも、貞造は、表面は穏かに微笑みながら、相手の表情の変化を見究めようと、鋭く注視していた。だが、その男の表情は、ぽつりぽつりと吐き出す言葉の通り、極めて淡々として、何の動きも認めることは出来なかった。
 貞造は次第に、焦躁を感じた。
 事業や生活の上では、あれ程果断で、強靱な反撥力と逞しい意慾を具えていた筈の貞造自身が、何故ずばりと核心を衝いて、一気に疑念を晴らしてしまうだけの、質問が出来ないのか。矢張り、自分を捨てた実父のことゝなると、彼は、生身なまみを天日の下に曝け出すような、一種、云い様もない羞耻と、後顧うしろめたさを感じるのだった。その気抜が、貞造の胸裡に、黝々くろ/゛\と内訌して来た。
 言葉の継穂もなく、ぽつんと貞造は、黙り込んでしまった。
「何か他にご用でも?」
 東稔従業員のこの言葉は、あきらかに、貞造を狼狽させた。
「いや、なに、どうだね、この工場で、長く働いて呉れる積りかね?」
「はッ、自分は第一補充兵でありますから、いつ何時なんどきお召に預るかも知れません。勿論その覚悟で、お待ち申して居りますが、それ迄は、絶対に、この工場で働かせて戴きます」
「ほゝう、それや何よりです。出征の時は会社の内規もあることだから、後のことは心配せずに、勇躍任務に就いて下さい。まア、それ迄は、こゝで確ッかり働いて下さい。では態々、お呼びだてして済まなかった」
 東稔とね従業員が工場に去ると、貞造は、吻ッと安堵に似た気持と同時に、何のわだかまりもない東稔青年の明朗さが、爽やかな後味を貞造の胸に残していた。
(矢張り、なんでもなかったのだ)
 そう思いながら、貞造は、自分の気持の一人相撲が、可笑しくなって来た。その自嘲と空虚が、寂しい苦笑となって、貞造の顔に漂った。

 従業員東稔義次郎の父親が、急性腹膜炎で亡くなったのは、それから間もなく、三月の下旬だった。
 本人の欠勤届で、それを知ると、貞造は、その葬儀に参列するため、東稔の家を訪れた。貞造は、自分の工場で働いている従業員の慶弔の際は、どんな場合でも、必ず彼自身で出向いて行く建前たてまえだった。
 だが貞造は、その日の東稔の場合だけは、なんとなく、自分の気持に障礙こだわりを感じないではいられなかった。
(お前は、まだ女々しく、疑念をはらしたい執着があるからだ)
 貞造は、心の裡で、そう云う声を聞いていた。
 然し貞造が、東稔の家に着いた時には、もう納棺も終って、遺骸を霊枢車に移している最中さなかだった。
 永年、大阪に住み慣れていながら、貞造は東稔の住居のあったその野江町に足を運んだのはその日が始めてだった。土地不案内のために、思わぬ時間を喰って、不覚にも貞造は告別式に参列出来なかったばかりでなく、謂わば彼の疑惑の解決の鍵であった仏の顔も、到頭拝むことが出来なかった。
(もしも、これが実父の遺骸だったなら……)
 ふと、そう考えると、有繋さすがに、取り返しのつかないことをしてしまった後の、胸を掻き※(「テヘン+毟」)むしるような、激しい慚愧と後悔を感じた。
(だが、果して亡くなった東稔の父親が、自分の実父と同一人だったとしたなら、一体どう云う理由で、東稔がそれを自分に秘密にするのだ。そんな筈があって堪るものか!)
 貞造は、こう考えることに依って、漸く彼自身の気持に、救いを見出した。
(矢ッ張り女々しい執着が、描き出した疑心暗鬼に過ぎなかったのだ)
 貞造は、そう考えると、たゞ静かに、東稔従業員の亡父の冥福を祈って、帰って来たのだった。

 東稔義次郎は、召集令状を、やっと手にすることが出来た。その年の七月だった。
 東稔は野江の住居を畳んで、工場の近くの煙草屋の二階に、間借をしていた。
 身寄りがない独身者なので、一切の準備は、工場の職長が親がわりとなって、取計った。
 工場の入口には、朋輩や、出入の商人達から贈られた幾つもの「祝出征東稔義次郎君」の旗幟が、真夏の強い陽射しを浴びて映渡はえわたっていた。
 工場からは、この東稔を入れて、恰度五人の名誉ある出征軍人を送り出したのだ。
 貞造は、彼自身が兵役の義務を果していなかったゞけに、その度毎に、会社として出来得る限りの便宜を計って、後顧の憂いを無からしめるとともに、他社よそでは例のない位、専務取締の彼自身が先頭に起って、これ等の栄えある出征者達を、盛大に歓送した。
 その出征の日。
 暑い七月の太陽が、ぎらぎらと照りつける街路を、工場の従業員で編成した楽隊を先頭に、赤襷を掛けた東稔と並んで、貞造は汗だくだくになって、梅田駅迄送って行った。
 列車がフォームに這入って来ると、
「では皆さん有難うございました。自分としましては、親爺も亡くなりましたし、もう何も思い残すことはないのですから、一死報国、君国のために殉ずる覚悟であります」
 東稔は、いとも朗らかにこう云って、颯爽として車中の人となった。
 列車が動き始めると、万歳々々と云う歓呼の嵐を浴びながら、東稔は、車窓から躯を乗り出して、喚くように、
「専務さん、専務さん」と、貞造を呼んだ。
「どうした、どうした」
 貞造が駈け寄って行くと、東稔は、急に改まった顔貌かおつきで、貞造の手を握り締めながら、
「専務さん、では行って参ります。どうぞお躯を大切にして下さい」
 と、こう云うのだ。
 ふと見ると、東稔が眼に泪を一杯泛べている。
 貞造も思わず、東稔の手を強く握り返しながら、
「確ッかりやってな、立派な働きをして来いよ」
 と、弟にでも云うように、汽車と一緒に、七八間も走った。
 東稔からは何の消息たよりもなかった、多分軍務に忙しくて、手紙を書く暇もないのだろうと思いながら、貞造からは、前に出征した人達と、一緒に、一二度、激励の手紙や、慰問袋を送ったりした。
 恰度、半年目、貞造は始めて、戦地から寄越した、東稔の部厚い手紙を受取った。



“東稔義次郎の手紙”

芝村専務殿
 その後は御無沙汰致しました、出征の際は勿論、在勤中はいろいろ御世話様に相成り、厚く御礼申上げます。性来の筆不精と軍務多忙のため、ついたよりもせず誠に相済みませんでした。
 昨夜、隊長殿から決死隊へ参加の命令が下りました。出発は明日午後四時です、それ迄に親しい人達に手紙を出せとのことですが、親しい人と云っては、あなた一人より今ではもうないのです。それで手紙を書きます。
芝村専務殿――兄さん
 私は生還を期して居りません、今は何もかも申し上げます。
 あの、お正月の仕事始めの日、あなたが何のために私を事務室にお呼びになったか、私はあなたのお気持を充分お察し申して居りました。けれど私はじッと堪えました。私は父から堅く口止めされていたのです。
 父はあなたを棄てたことで、どんなに良心の苛責を受けていたか知れません。
 ――弱い人だったのです。父があなたを棄てた罪の大半は私の母にあったとも云えましょう。と云って私は母を責めるに忍びない気持も致しますし、母は、もう死んでしまいました。
 父と私の母との関係は、あなたの母上が亡くなられてから三年目に結ばれたとのことです。父は私の母を二度目の妻として家庭に入れ、あなたと三人で暮すつもりだったのです。でも私の母には、母を喰物として暮している両親があったのです。母はこの両親のために、あなたを育てることも出来なかったばかりでなく、到頭その両親のために、生木なまきを裂かれるように父の眼をくらまし、名古屋に移転してしまいました。
 父は、母の居所を捜し求め、やっと判ると、母を取戻すために名古屋にはしったのです。
 中年者のたゞれたような愛慾行は、あなたの軽蔑なさるところかも知れませんが、考えれば父も母も可哀そうな人間でした。
 父は随分苦しみました。一方にはあなたと云う可愛い子供、一方には私の母、その間にはさまって、父は煩悶したのは勿論です。結局、父は弱かったのです。
 然し父は最初から、全然あなたを棄ててしまう気持は毛頭なかったのです。母の両親を口説き落し、やっと母を取戻すと、父はあなたを連れて来る積りで、一旦は大阪に引き返したのですが、その時はもう四ヵ月も経った後のことで、あなたの居所さえ判りませんでした。いや、捜せば判ることなのですが、矢張り父は卑怯だったのです。又母のところに帰って来ました。
 それから足かけ五年目の九月に生れたのが私でした。
 然しあなたを棄てて、父が幸福であり得よう筈はありません。厄介者の母の両親も死んでいましたが、生活は困窮のどん底にありました。そんな父ですから、何事にも優柔不断で、生活能力がなかったのかも知れません。到頭名古屋から常滑と云う町に流れて行きました。
 貧窮のどん底で、私の母も死んでしまいました。母に死なれてしまうと、父としては、たゞもうあなたのことが気にかかるばかりです。それとともに生れた土地が恋しいのか頻りと大阪に帰りたがるようになりました。ある晩、父は私に長い長い過去の懺悔話をして聞かせました。
 私があなたと云う兄さんのあることを始めて知ったのは、その時でした。それ迄私は常滑のある製陶会社の機械場の職工をして父を養っていましたが、それを知ると、私は早速家を畳んで、大阪に来たのです。
 大阪に来ますと、父はもう耻も外聞も忘れてあなたを捜し歩きました。然しそれは余りにも遅過ぎました。その時になって、矢も楯も堪らぬようにあなたを捜し求めるなら、何故最初にあなたを捜さなかったのか。あゝ、私には父の気持が判りません。
 やっとあなたを捜し出した時には、あなたは私達には手の届かない程、立派にご出世なさっていました。
 あなたに逢いたくて帰って来た大阪でしたが、そのあなたの御出世を知るにつけ、耻じて、名乗り出ることも出来なくなったのです。
 兄さん、名乗って出なかった父の気持は、父があなたに対するせめてもの親ごころだったのです。あなたにこんな父や異母弟のあったことを世間に知らせることは、あなたの名を辱かしめると考えたからなのです。どうぞ、父のこの気持を察してやって下さい。
 私としても、父のこの気持は踏みにじることは出来ませんでした。が、私はせめて働くだけでも、あなたの会社で働きたかったのです。でも私は、父と約束しました。私も必ず兄さんの名を辱かしめない程立派になる、そしたら堂々と名乗って出ると。
 父が死んでも尚且つ黙っていたのは、そんな理由からです。
 今、私は決死隊の一員です。
 兄さん。兄さんといわせて下さい。僕は地位も財産もまだありません。然し決死隊の一員です。日本国民として、最高の栄誉ではないでしょうか。今こそ、私はあなたに名乗りを上げることが出来ると信じます。兄さん。
 兄さん、明日、私は立派に、
 天皇陛下万歳! を叫んで、国境の人柱となります。兄さん、靖国神社へ会いにきて下さい。
 兄さん、ご機嫌よう、お身体を大切にして下さい。
弟より
 兄さん





底本:昭和48年10月・講談社刊『大衆文学大系30 短篇(下)』
入力日:平成19年4月8日
入力責任:WEBサイト「直木賞のすべて」
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●底本との表記の違い