一
ですから、それと一緒に聞かされた金三万円也に痛いのも忘れたんだの、どの朝刊夕刊にも重大声明ッて言う活字と一緒に出ている何とか大臣さんの写真のあのモウニングの内ポケットには、染ちゃんの白い細い指がアルコールづけになって
何故すぐ疽だと思ったかと言いますと、
それで今でも妾は雷様と疽は同じ位こわいんですの。だもんですから染ちゃんのも、テッキリ疽と思いました。
あの器量ですからね。災難の上に人の口が、やかましいんだと思いました。
売出し盛りの
その内、秋の靖国神社の大祭の日でしたっけ。こんな者ですけれど朝から身じまいして、おまいりに出かけたんです。随分と早かったつもりでしたけど、人の足で砂利が見えない程でしたわ。
心だけの、おまいりをして
銀うるしの少しじみな羽織に、小さく束ねた髪のもとに白いカアネエションの花をつけてました。
おつれの軍人さんは、おひげも眉も白くていらっしゃる。御身分は肩の上や胸の所ででもわかりますけど、歩いておいでなさる
勿論かたずをのんじまいましてね。後先へついて行きますとね、アノ坂を少し下りた辺で、
「では」
と軍人さんの方から手をゆるくお上げなさると、染ちゃんも首すじを細く下げたんです。
すると何処に居たのか若い将校さんが、つッと出て来て、うしろから外套をおきせすると軽くおうなずきなすって、そのまま人波の中へわけ入っておしまいなすったでしょう。
私、いそいで染ちゃんの、うっかりと立って見送ってる
「ばア」
って指でね、目かくししてやったんですよ。
「まア、いや。古いわ」
と、かぶりで振り払って見返ると、
「まア、
と、たちまち、みずみずしい笑顔になりました。
「今のは」
「何と見立てて」
「そうね、染ちゃんの三ツの年に生き別れのお父ツァんと、めぐり合い」
「ふうん、
と、にっこりしましたが、
「私、姐さんに会いたかったのよ。聞いて頂きたい事ばッかりなの。つき合ってよ」
と、くせのように髪の所へやった手の、白く繃帯してあるのが、目にしみたでしょう。
「そう、いいわ。どこへでも」
「静かな所でなくちゃア」
そうして十五分程後、私達は女同士ひざをつき合せて、手を取り合うように坐っていました。
「淋しくって、いい花ね」
などと、はじめは染ちゃんも細い
「姐さん、私近い内にひくわ」
と言い出しました。
「そう、やっぱり」
と、顔を眺めると、
「この話、おききになったでしょう」
と、白い
「私、この話聞いて欲しいの。きいてよ」
と思い入って話し出したんですよ。
二
そう、去年の春の矢張り靖国神社の大祭だったわ、花火がぽうんぽうんいってましたもの……。その日の
名が通してあってそれが多分姐さんも御存じだと思うわ、
その方が支那事変が始まるとすぐ御出征なすってね、歓送会の晩にも、
「見ろ、俺は医者だからこの年になってもお役に立つのだ。お前達も、いろは医者にしろ、医者に」
ナンテ大威張りでいらっしゃったわ。
向うにお出でなすってからも、月に一度位のお葉書があったから、私達ひいきにして戴いてた連中がよって、慰問袋を送ったりしてたんです。
「憎らしいね」って大笑いしちゃった。
それから近々
お電話で合点すると、すぐ私は
そうしたら、いつものようにアグラで、ひじつきに両ひじをついて、
「やア」
って顎を下から上へシャくって、一寸も変っちゃいなさらないの。和服だけど額の所だけ薄白く残して、真黒の
私なつかしかったから膝でアチラの膝をおす位にぺったりと坐って、思わず、
「まア黒くなっちゃったわア」
と言っちまったの。
「なアんだ。そんな、あいさつがあるか」
と平手で顔をなでまわして見なすって、
「併し君はべっぴんになった。一年見ない中にスゴク女ッ振りが上ったぞ。もっとも俺の目のせいもあるな。百日も湯に入らんような避難民のクウニャンばかり見てたからナ。内地の女はどれもこれも良くって、しようがないんだ。」
「ええ、ええ。殊に私は湯上りでございますからね。ほほほほほ」
と私は首をかしげて笑って、
「さっそく、お一ツ」
と、お銚子を取上げながら、
「皆は未だなの」
と聞きました。無論、他の連中も一緒に呼ばれていることと思っていたんです。
「いや、酒は当時、おたちものだ」
と、はっきり手を振って、
「それに今日は用があって君を呼んだんだ。それでなけりゃ召集解除にもなってないくせに、
本当にお
「あら、私に、どんな御用」
「うん。今、俺は陸軍病院につとめてるんだが、君に兵隊の慰問に来て貰いたいんだ」
「あら、慰問ですの」
それなら何回も経験があるので、
「何日頃でしょうか。来週の土曜は一寸こまるんですけど。その他なら――」
「いや、そんな慰問じゃないんだ」
と先生一寸、手持ぶさたらしく、
「俺のついてる患者だ。少尉さんさ。戦地でも同部隊に居たし、帰ってからも偶然俺が病院であずかるようになったんだがね。一寸その男に頼まれたと言うより、俺が思いついた事があってね。君にその男を見舞って貰いたいんだよ。演芸慰問に行って踊ったり唄ったりするのと同じ意味でね。それも無理だろうけど、今からでも一緒に行ってくれなくちゃ間に合わないんだ」
と、思い入ったように私の顔に見入りながら、
「その患者はね。明日俺の
「まア」
と私は、
「まいりますとも。私みたいな者でお役に立つんでしたら、どうぞ」
そういきごんで答えないわけには行かなかったわ。だってこの場合の返事には、便所掃除させるんだ、すぐ来いと言われたって、これより他には無かったじゃありませんか。
「そうして私、その方に、どんな事をして上げたら、いいのかしら」
「どんな事ッたって」
と先生は苦笑いして、
「相手は白衣の勇士だ。支那兵じゃないからネ。大した難題は言い出しやしないさ。もし不愉快に感じたら遠慮はない。ハッキリことわればいい。それは君の感情一ツだよ」
「そりゃ私、私だってその方が、こまるような事を私におっしゃるなんて思ってやしないけれど」
「そりゃ、ひょっとすると、こまるかも知れないさ。ただ程度によるがネ」
と先生は薄ら淋しい笑いも漂わせて、
「相手は生きるか死ぬか分らん所なんだ。俺がたのまれもせんのに、君をひっぱり出しに来る位だからね。そこを承知していて貰いたいんだ」
「ええ、わかりましたわ」
と私も深く、うなずいて、
「でも今、ここからすぐお供ってわけにも行かないの。そのままで出て来ちゃったでしょう。髪ゆいさんも、まだなんですもの」
と少しユルんだ髪の根を持って、ゆすって見せました。
「そうサ。俺も相乗りで、かけつけは、おそれいる。じゃアこうしよう。三時までに来てくれたまえ。病院の前で出むかえてるから。それでと」
と、考えて、
「ナルべく綺麗にして来て貰おうか。綺麗な程慰問の実が上るからネ」
「まア」と、うけて私は「おほほほほ」と笑っておいたけれど、内心一寸なにが始まるかしらと言う気もちも、はずんで来たわ。
でも先生が、
「こればッかりはやめられんでね」と、すいつけなすったのが、ほまれなのを見ると、すぐ自分のおッちょこちょいが恥かしくなったんです。
火が近くなるのは臭いッて、キリアジを半分までしか、すいなさらなかったんでしょう。
「すッかり御自分をかえていらっしゃる」
そう思うと私、うつむいて、指でひざの上をこすって見ながら目を伏せてしまったの。
三
髪ゆいさんの所じゃ、大急ぎで白粉はばら色に塗って、眉も口紅もハッキリとさせると、さアこれからと言うような生き生きした心地になったの。
「早かったネ」
と先に立って廊下をどっしどっしいらっしゃる後から、私も小走りにスリッパでついて行くと、
「さア、ここだ」
と前後に入れ代ると、片手で私の背中を押して、片手でドアを開けて一緒に中にはいったの。
畳を敷いたら四畳半無い位かしら、せまい
真先に目に入ったのは真白くおおわれた寝台ね。その白い物の中に、矢張り真白にまいた頭を白い枕にうめて、両手を掛蒲団の上に乗せて人形の様に寝ていなすったわ。
私達が、はいって来たのに気がついて、斜めに体を返しなすった時、私とぴったり顔が合ったんです。
その時よ。私、急に下げた首すじが一度にほてって、
何て言ったら良いでしょう。姐さんの前じゃ、うぬぼれと言われるより他は無いけれど、だって世の中にあんな目で男に見られた女が沢山あるでしょうか。
私、嬉しかった。通りすがりの
だから私もそれに誘われて、その方の眼の中で自分が天女になったような気がしたんです。アア、私は、いい女なんだねえ、と本気でそう思っちゃった。
「何をびっくりしたんだい」
と先生は一寸笑い声で、
「さア昨日のお約束の人だ。ゆっくり、一ツ、話をするんだね」
と蒲団のかげの顔をのぞきこんでおいて、
「お茶でも持って来ようかネ」
とクルリとむき直って私に、
「まあ、椅子にでもかけて、ゆっくり御慰問を願います。あはははは」
なんて笑い捨てて出て行っておしまいでしょう、随分これは
仕方がないから、間がぬけてるけれど、
「あのう、御気分、いかがでいらっしゃいまして」
って言って見たの。そうしたら蒲団の中からこう首を出して、私を見すえて、
「軍医殿は貴女に何か言われましたか」
って聞くの。
「いいえ。別に――」
と、にごらせると、
「ア、そうですか。それじゃ何も聞いていらっしゃらないんですね」
と急に元気づいて、
「どうもわざわざお
とスッカリ安心したらしいの。すると
「でも、何か貴方様に御用がお有りだそうで、それをおうかがいするようにッて、そうおっしゃいましたんですけれど」
って、いじめて上げたわ。するとその方は又、真赤な、今にもシャクリ出すようなお顔になって、
「いや、用なんて。そんな、別にそんな事はありません。全く」
って、こう右左へ首を振ってお見せなのよ。
「まア、それじゃ」
と私は軽く唇を引きしめるようにして、
「先生が、おからかいになりましたのね」
と椅子から立つようにしたんです。
「いや、そんな、からかうなんて。そんな事は断然ありません。軍医殿は全く好意で、こんな事をして下すったんです」
出来たら私の
「それでは、どんな御用でしょうか」
と姿勢を正しくして聞いたの。するとその方はじっと私の顔を見つめて居なすって、それからハッキリと決心がついたように、
「じゃ申しましょう」
と仰有ると蒼白く緊張した顔で、
「申し上げたら
「
って小さい
「じゃ言います。僕はね明日両腕を肩から切断してしまうんです。それはお聞きになったでしょう」
私が、うなずくと、
「昨日の晩でした。僕は軍医殿に
私は、黙ってその方の顔を見たわ。その方の額には汗がにじんで何だか苦しそうなの。
「僕はね、二ツの年に母が死にました。姉も妹も無い。
そう話している中に、その方の顔は頬が震えて子供らしくなって行くじゃありませんか、私何だか一緒に泣き出したくなって行ったの……。
「自分の両腕を切ってしまう前に一度でいい、生れて初めて、そして最後にこの手で女の人の手にさわって見たい、そう思ったんです。手術後どう容態が変化するかわからないし、全快した所で血の通う感覚の有る手で、女の人の
と切なそうな淋しそうな笑い方をして、
「随分妙なあさましい望みかも知れませんが、いよいよ両腕を切ると決ってからは、そればかり考えていました。看護婦さんが来てくれても、白衣の天使をつかまえて、下の物は取って貰っても、手を握らせて下さいとは言えません。しょッちゅう考えていたものだから、ゆうべもツイ軍医殿に、冗談めかして言ってしまったんですね」
「でも、こんな話は、健全な人間には感じが伝わらないかも知れない」
私、聞いてる内に、その言葉の一ツ一ツが、いじらしくて可愛くて哀れで胸が一ッぱいになってしまったの。涙が自然にぽろぽろ頬を流れてるままで、わざと笑ったわ。
「そんな事お安い御用ですわ。そら、これがお母様の手」
と右手をさし出して、
「はい、
と左手を素早くさし出したんです。
「有りがとう」
と起き直ると、しっかりと両手に私の右左の手を握りました。顔は汗で光っているのに不思議に冷たい手だったわ。その大きい冷たい堅い手の中で私の小さい温かい手が見る見るとけてなくなって行くように思えたの。そして、しっかりと握りしめられている中に、それはそれは妙な気持がして来たわ。何て言ったらいいかしら、恥かしいような嬉しいようなまぶしいようなそれでいてしだいに目がくらんで行くような気がして来たんです。そして握られている手先からだんだんせき上って来て胸元で息がとまるような気がして、モウ自分の体を何処に立てておいたらいいのか、わからなくなっちまったんです。
はっと自分に気がついてぱッと相手の手を振り切ったけれど、次の動作をどうしたらいいか、わからない。夢中になって室の外へ走り出してしまったんだわ。
四
そう、そうね。それでアッサリ私はその方に電話で毎日容態を聞いたわ。そして経過良好と聞いて果物の籠を下げてお見舞いに出かけたわ。
そうしたら玄白先生が出て来て、御自分の室につれて行っていきなり、
「何の為めに来たのかネ」
って聞くじゃありませんか。ぎっくりしたけれど、わざと笑顔になって、
「何の為めだなんて。そりゃお見舞いに上ッたんじゃありませんか」
すると先生は、急に私をいじらしそうな
「そう。先日からたびたびお見舞い有難う。併しだネ。もう見舞いは今日だけでやめて欲しいんだ。この間の事はアレだけで良いんだよ。一度でも亦君があの男に顔を合せたりすると、どうもアレだけ以上に延長する恐れがあるからナ。君は僕にたのまれて白衣の勇士の慰問をしてくれたんだ。それでうち切ってくれ給え。当局もね、慰問が個人の交際に変って行くのをきらってるんだ。色々と弊害もあってね」
と淋しい少し冷たい笑いをつくって、
「……殊に君のような若い綺麗過ぎる御婦人はだね。
そして、たしかに、とどめをさすように、
「あれは××将軍の独り息子さ。だから、あんな星の世界で育ったような男になったんだネ」
私、その時位人間が憎いと思った事は無かったわ。出来たらとびかかって相手の顔を十本の爪で肉も皮もムシリ取ってやりたかった。先生はこう言ってるのね。お前は売物の女だ、一時或る男の何かの用をたした後は、その場かぎりですますものだ、後くされを作るな。お前に接近されると、相手の男が不幸になる。殊に相手は××将軍の独り息子だ。新聞に現代の乃木将軍なんてよくお写真も見て知ってるだけに、先生の言葉のきびしさがよくわかるんです。つまり先生は私を慰問の何のと言っても、一ツの道具に使ったんだわね。無理におしつけられたお礼の物の多過ぎたのもそれだからだわね。
私
ハンカチで顔を包んで泣き入っている私を、先生は、軍服の胸を正して、じっと見下していたわ。
散々泣いてしまって、果物の籠に手をかけながら、
「じゃ、せめてこれだけでも上げて――」
と言ったら、
「そう。同じ病棟の者に皆にわけてやろう」ッて。
私、糸より肩が細まったような心地で病院を出たんです。
その晩だったわ。姐さんも御存じね。あのかぶと町の人にいや応なしにつれ出されて、九州めぐりに出かけたでしょう。
一月ばかり東京を空けて帰って来たけれど、二度と病院をたずねる勇気は出なかったわ。でもその後の容態はと思うとツイ電話をかけてしまったの……。
そうしたら「目下経過はごく良好です」ッて。看護婦さんの声らしかったわ。
先生の言葉はよくのみこめてるんだけど、ほれちまったんですもの仕様がないわ。こうして着飾ってる帯留にだって指環にだって一ツ一ツ厭な記憶が、からみついてるんでしょう。私は色々
もう一度どうかしてあいたい、そればッかり思ったわ。それでも思い直し、思い直ししている中に夏になってね、土用の日盛りだったわ。頭痛がするから前髪の間に
「僕、××です。どなたでしょうか」
って御自分が出て来たじゃありませんか。
それは何だかとても若い声だったわ。七ツ八ツの子供のような涼しい声だったわ。なつかしいより何より、こんな若い声の持主に両腕が無いのだと思うと、私涙がとまらなくなってしまったの。
「私、○○先生と御一緒に御慰問に上りました者です。アノその後はいかがでいらっしゃいまして――」
「ええ。有りがとう」
と、一寸言葉が切れて、
「この電話受話器を人にもって貰っているんです。でも、もう随分いいんです」
そして又、一寸間をおいて、
「あの時はどうも――」
そして電話がコウコウって鳴ってるの、何だかそれがあの方の息づかい見たいな気がするの。私受話器をしっかり握りしめて、耳を澄ましていたけれど、コウコウって鳴るばかりだから、「じゃ、お大事に」と言うと、
「ええ、有りがとう」
って、それでガチャリと電話が切れてしまったわ。
あの方は私の所番地さえ聞いてくれなかった。そう思うと私は電話口に
それから二日程して、先生から一枚葉書が来たわ。それにはペンでね、
その後は無事にお過しの事と思う。昨日××の所へ電話が有った由。××が僕に語っていた。あの女の人は好意らしい物を持っていてくれるらしい。この電話をキッカケに、たぐって行けば、或る程度の何物かに近づけるのじゃないかと思うと恐ろしくなった。こう言う事からどんな風にでも自分の気持が募って行きそうで恐くてたまらなくなったから、何も言わなかったと言って苦笑していた。ハッキリ言う。君はあの慰問の日だけあの男に必要だったのだ。あの日以外には君はあの男に毒物にしかならない。どうぞ今後絶対に彼から消失してくれ給え。君にはただの遊びもあの男には破滅以上の悲劇をもたらすばかりだ。僕は二週間後再び大陸の第一線に勤務する事になるだろう。あの男も同じ頃病院を出て療養所に移るはずだ。これを読んでさぞ君は怒るだろうと思う。怒られるのを覚悟の上で書いた。では幸福に暮し給えよ。
私はこの葉書を細く細く裂いて畳の上に散らしながら、先生があの方に言い聞かせている言葉を自分で自分に聞かせたわ。
「君そんな電話なんぞ気まぐれだよ。アア言う女は日に十度は、男に手を握らせているよ。あんな事にこだわっているものか」
そうして私は歯をくいしばって自分の手先を、あの日からそれだけはどんな男にもさわらせない手を、じっと見つめたの。そうしていると、どんな
五
それまで私、どうせこんなええ、不思議なものね。御利益が有ったわ。
あえたんですもの。そう道ばたの行きずりなの、横顔だけだったけれど。小石川の植物園の門の前でよ。
昼下りだったわ。私の乗った
横向きだけど、ああして寝ていなすった時よりもっともっとやつれて青い色なの。鼻ばかり、こう高くってね、頬がそげてモミ上げの長いのが尚、衰えていなさるみたいで、随分悲しかった。紙まきをくわえていらっしゃる所へ、おつれの兵隊さんがライターで火をつけて上げたんだわ。一寸うなずいて受けなすった高い鼻先へ、ぱッと薄赤く火が映ったまで見たんだけれど、もう
何故
それから二週間程立ったかしら。その頃何とか会社の重役だか社長だかが、しつッこくて仕方が無かったの。酒ほてりのした重ッたい体を人の膝にのしかからせて、「おい、ナアどうだ」ナンて言う鼻の頭の黒いブツブツを見ていると気が違いそうなの。
大きな腕に腰をまきつけられながら、両手をしっかり組んで胸の下にかくして、「いや、いや。私の手にさわッちゃ、いや」ッて泣いたの。
そんな奴に手を握られたら、残っているアノなつかしい恋しい手ざわりが、ぬけて行きそうで恐かったの。
それもうるさいし、自分の気持も妙にこじれて物忘ればかりするでしょう。
「二三日遊んで来るわ」ッて、かぶと町のと出かけるふりで家をとび出しちゃったんだわ。そしてバスの中の広告で行先をきめて温泉宿に行って二三日寝ころんでいたの。
その日は秋ももう終りなのに二百十日めいた降りだったわ。さアーッとふって来ると思う内に、ぱっと薄日がさして来たり、どんどん走っている真白い雲の間からクッキリ青空がのぞいたりしていたわ。
私は宿の二階で取ッ放しの床の上にアオムケに寝たまま、手すりに近い大きな百日紅の咲残りの紅い熱い花がぬれて重々しくゆれているのを眺めながら、それはそれは淋しい物悲しい心地になっていたの。
夕方になると風が出て来て、ガタガタ戸がゆれ出したけど矢張り電燈もつけずに寝ていたわ。
そしたら女中さんが夕刊を持ってきてくれて、
「まア、たいそう、いんきでございますネ」
ってスイッチひねって行ったから、夕刊をボンヤリ膝の上にひろげて見ていると、レコードとソースの広告の間に小さく二寸程くぎって、
「四月×日第○陸軍病院×号室にて握手せられたる婦人。至急牛込××病院受付まで御出を乞う」
それを見て十五分とたたない内私は薄暗い自動車の中で震えながら何度も何度もその文字を宙に浮べて見つめていたわ。そして窓ガラスに雨にぬれた街の灯が、うつって来るまで、ほとんど何も知らなかったわ。
六
あの方のいよいよ自分でも覚悟なすったんだわね。後の事なんか色々仰有ってから、
「お父さん」
と改まって言い出しなすったんですッて。
「僕は
お父様の方は何と聞きなすったでしょうか。黙って、うなだれていらっしゃったそうよ。
「それで僕是非死ぬ前に、あいたい女の人が有るんですが、ここへよんで戴けるでしょうか」
「そんな女が有るのか」
他の場合とは違って、そのお声はそれはそれは優しかったそうです。
「ええ。有るんです」
と、簡単に、あの時のことをお話しなすって、
「それッきり、会わないけれど、ズッとその女の事を考えて居たんです。一生に一度生れて初めて手を握った女の事がお母さんのように思われるし妻のようにも恋人のようにも姉さんのようにも思われるんです。中山門の下で二日三晩飲まず食わずで
死んで行く二十五の若い我子の言葉を、お父様はどんな気持でお聞きなすったでしょう。
「よろしい、今すぐよんで来てやる」
そう仰有ってすぐ八方に電話をかけたり、問い合わせたりなすったけれど、私の行方がわからなかったので、とうとうアノ夕刊の広告になったんですって……。
私が病院にかけこんで行った時は、もう紫色の頬だったわ。
「どうして、どうしてモッと早くよんで下さらなかったの。おそいわよ。おそい、おそい、おそいじゃありませんか」
って、私、酸素吸入の道具をはねとばして、しがみついて泣き出したの。
「おそいから、おたがいに、会えたんじゃありませんか」
と私の泣きだした意味がおわかんなすったのね。
そう独り言のように
「今もね。君の事を、そう君の事ばかり考えていたのですよ。看護婦さんがカアネエションの
私は歯を
そう思うと、悲しいより
そう、私決心したわ。私は今自分の体と血で自分の誓紙を書いて見せなくちゃいけない。でなけりゃモウこの人に私の想いを本当に知って貰うことが出来ない。
「そうね、貴方の事を笑ってたか泣いてたか知らないけれど、とにかく私は貴方の為めなら何をしてもいいと思っていたわ。ほらこの通り十本の指を皆切って上げても惜しくはないと思っていたの。ほら、ごらんなさい。ほら」
と言うと、私は其処に在った西洋花
「そら、ごらんなさい。私今、この指十本共残らず貴下に上げるわ。それで私の気持がわかるじゃないの。それとも、わからなくって、どう」
て私、ひッひって笑いながら、血の引く手を上げて見せたの。
そして又、はさみに力を入れようとすると、ドアの所から二三人が飛びこんで来て私をつかまえて、ひきずり出してしまったの。
気がつくと私は真白に手をまき立てられて、寝台の上に寝かされていたわ。看護婦さんが二人、白い姿で私のまわりに動いているだけで……。
あの方は大変御機嫌良く嬉しそうに、お亡くなんなすったんですって。
「僕は幸福だ」ッて、くり返し
「天皇陛下ばんざい」
を、お
私の指は肌につけて、棺に納めて下すったの……。
初七日の晩にね。お父様が、
「よく、拝んでやって下さい」
と仰有るから、御親類の方がお帰りになった後まで残って、お仏壇の前に坐っていたの。引延しの写真の中の軍服姿のお顔は、若々しく丈夫そうで、笑っているのが、
あア、こんな笑顔は私の目には知らない顔なんだと悲しくなって見入っていたら、お父様が何時の間にか、そばへいらっしゃって、
「貴女の手を見せてごらん」
と仰有るから、両手をさし出すと、御自分の手のひらの上に大事な宝石か何ぞのように私の手を載せて、つくづく眺めていらっしゃってね、急に、ほろほろと白い眉の下から涙を落して、
「可哀想な奴。いい奴だった。可愛い奴だった。本当にいい奴だった。貴女もそう思って指を切ってくれたんだね。うんうん。そうか。有りがとう。有りがとう」
その後だったわ。小切手で、どッさりお金を下すったから、お断りしようとすると、
「いや、取っておいて下さい。
って淋しそうにお笑いなすったでしょう。ごもっともと思って頂いたんです。だけどね……。
七
「だけどね――」言いかけて思いせまったように、大きな涼しい眼の中に一ッぱい涙をためていますから、
「だけど、どうしたのさ」
と、催促しますと、
「だけど、私今も
「何がそんなに口惜しいの。指を切ったことなの――」
と聞くと、
「ううん、そんな事。あの方と一緒に灰になったんですもの惜しくなんぞ一寸も無いけれど、ただね、ただ――」
と両手でぴったりと顔を包むと、
「アンナ立派な方にめぐり合っていながら、ただ手を握られただけなんですもの。それッきりなのが、私口惜しくって情なくって、もったいなくって」
と言いながら
その白い細い首すじと波うっている