直木賞受賞作
第16回(昭和17年下半期)受賞

寛容

神崎武雄

『オール讀物』昭和17年11月号




「どうだね、そっちの景気は……」
「御らんの通りだ」
「こう寒くっちゃアねえ。寒いというのも可笑しいが、全くこれはお酉様時分の陽気だねえ」
「それに今夜は星が高いから、悪くすると明日は雨だぜ」
 十月に入って間もないお薬師様の縁日だったが、袷羽織でも欲しい冷え方で、人出がひどく薄かった。諦めをつけた露店商人たちは、星が小さく見える暗い空を見上げて、お互い同志で話しあっていた。
 ただ一ヵ所、黒山のように客を集めているのは、ヴァイオリンをこすりながら、「嫌だ、嫌だよ、ハイカラさんは嫌だ。頭のてっぺんに」と飽きもせず塩辛声を振り絞っている、夫婦ものの演歌師ばかりであった。
「さア、削じゅっても地金、いくら削じゅってもみな地金……」
 小さい台の上に、キラ/\光る印度インドきんの指輪をならべている、ドミイの店の前にも、客足は止まらなかった。
「お土産に一つ買って来さい。奥さん喜ぶ。お嬢さん喜ぶ。金の指輪、安いよ/\」
 いくら叫んでも駄目だった。客は品物より、黒いドミイの顔を、横目で一寸見て通るだけであった。
「いやだ、いやだよ、ハイカラさんはいやだ」
 聞き覚えてしまった歌の一節をドミイがどなると、隣りの地面に蓆を敷いて、「飛んだり跳ねたり」を売っている小母さんが、黙ってドミイへ笑いかけて来た。
(何が可笑しいんだ……)
 ドミイは泣きたかった。泣くより怒りたかった。
「ドミイの馬鹿ッ」
 と、自分自身を怒ってやりたかった。
 印度独立を口にしながら、その実、意志の弱い、怠惰な人間の集団に過ぎない徒党間の争いから、煽てられて人を斬ったのはこの二月であった。
「暫く日本へ行って、英語の家庭教師でもしていろ、神戸にはマグラという同志がいる。お前のことはそのマグラが何とかしてくれるだろう」
 そういう仲間からの添書を貰って来てみれば、マグラは神戸三ノ宮の盛り場で、通行人相手に印度金の指輪を売っていた。そんな人間に気のきいた家庭教師の口をさがせる道理がなかった。却って大酒飲みのマグラは、ドミイの所持金を、みんな費い果してしまった。上海の仲間は、マグラがいゝようにしてくれるといったが、マグラはドミイを一文無しにしてくれた。そのかわりには日本語の片言と、この商売を教えてくれたが……。
(フン、いい商売を教えてくれたものだ)
 ドミイはマグラに見限りをつけると、独り別れて大阪へ行き、名古屋、横浜と流れて今はこの東京に来ている。上海から来たドミイには、低い木造家屋がベッタリならんだ、一雨降れば街か泥田か分らなくなる東京なんか、ひどい田舎だと思って、驚きもしなかったが、然しそれにしても日本の、東京に来てこの姿を曝らそうとは思わなかった。商売も商売なら、寒い夜空に汚れきった夏服を着て、昼、台町の安下宿の三畳から出るとき、固くなった食パンの残りを水で流し込んだきりだから、寒さに飢じさも加わって、余計体が貧乏ぶるいする始末である。
(この先き一体どうなることか……)
 この先きどころか、明日が知れない。ドミイの店先きに客の立たないのは、一つはドミイが台の上にならべている指輪が、売れ残りか何かのように、数すくないからでもあった。ドミイはこの頃、自暴を起して、売れるだけは飲んでしまい、品物を追加しようとしなかった。
「削じゅっても地金、いくら削じゅってもみな地金……」と、ナイフで指輪を削ってみせるのがドミイの商売だったが、入っては飲み、いくら入ってもみな飲むのでは、ナイフで指輪を削り、酒で資本もとでを削っているのだった。
(然し、飲みでもしなければ……)
 マグラと何の変るところがあるのだと、ドミイは自分を責める一方、自分が可愛かった。庇ってもやりたかった。結局この異境に、頼るのは自分一人ではないか。
 酒のことを思い出したらもう堪らなかった。
「あなた、たのみます。たのみます」
 隣りの「飛んだり跳ねたり」の小母さんに店を頼んで、ドミイは、ジュウ、ジュウと、油のはぜる音をさせている屋台の暖簾をくゞった。
「さけ、ください。フライもください」
 分厚いコップで、熱い酒を二三ばいひっかけると、落魄らくはくの身の憂さは消え薄らいだが、薬師堂から聞える、ポーン、ポーンという鐘の声は耳をはなれなかった。日本の夜店といえば寺やお堂に縁がある。その寺やお堂には、必ず奥深く仏像が安置され、縁日の日は夜遅くまで、香煙に鼻をくすぐられて、ニンマリ笑っているのもあれば、カッと腹を立てゝいるのもある。それが、その景色がドミイに、限りないやるせなさを覚えさせるのである。印度を追われたという父親と共に、来る日も来る日も船の甲板で寝起きしながら、ひろい海を渡ったのが、ドミイがもの心づいて最初の想い出である。時々はげしい雨に打たれ、父親と抱きあってガタ/\震えたことと、それを上の方から、真白い服に真白い帽子の外人の船員が、面白そうに歯を出して、笑ってみていたことだけをよく覚えている。それなのに金色の仏像や、鐘の声や、軒にたゆとう線香の煙りが、ドミイを、さびしさに堪らなくさせるのは、或いは生れ故郷の何処かで、母親に抱かれるか、父親に手をひかれるかして見たことがあるのではあるまいか……。
 印度……。
 上海さえ雲烟模糊としているのに、まして印度はなお遠い。
「すみません。おさけ、もっとください」

 ズキ/\と頭の芯が音を立てゝいた。黒光りのした天井が目にうつった。つゞいて板張りの腰高窓、縁のない畳……。汗のしみたにおいもする。
(やったナ……)
 横浜で喧嘩して、はじめて一晩泊められた場所を思い出したドミイは、パッと跳ね起きた。
「どうだ、眼がさめたか」
 声のする方をみると、四十年配の、背のひくい男が、大きな声で笑っている。この家の主人らしい。
「眼がさめたら、此方へ来い」
 連れて行かれたのは風呂場だった。小さい男は裸身になれといった。言われるとおりになるより仕方がなかった。裸身になると、
「オイ、お前、その傷はどうした」
 この二月、上海で受けた左の、二ノ腕の傷痕を指さした。ドミイは、右手の人さし指を曲げて、ピストルの狙いをつける形をしてみせた。
「馬鹿が、若いくせに、大事な体に傷をつけて……」
 矢庭に、小さい男は、ドミイに湯槽から水を汲んで浴せた。
「宿酔には何よりの薬だ」
 そういう男も、スル/\と浴衣を脱いだ。
「成るほど、体まで黒いや」
 自分も水を浴びると、頭から体中へ、石鹸を塗って、ドミイにもそうしろといった。
 水風呂からあがると、男はドミイに、白いズボンとゴツ/\の、白い、然しワイシャツほどにも長さのない着物をきせて、再びドミイが寝ていた広間へ連れて行った。
 ドタン。
 向い合ったと思ったら、ものの見事に、その小さい男から畳の上へ叩きつけられていた。体が宙に浮いて大きく弧を描いたとき、自分はこの男と昨夜喧嘩したんだナと思った。
 叩きつけられたのは痛かったが、ドミイは我慢して急いで起きあがった。
(喧嘩なら……)
 又叩きつけられた。口惜しさでドミイは飛び起きた。
「よし、その意気だ……」
 男はドミイに武者振りつかせて置いてから、軽々と又腰にのせ、ドミイを畳の上に投げ出した。
 四度、五度、六度……。ドミイはもう起きあがる力もぬけた。
「オイ、飯を食え……」
 どうにでもしろと、畳に這っているドミイヘ、男は笑いながら、箸を使う形をした。
「どうだ、こうやって食うと、宿酔でもいけるだろう……」
 差向いで、奥さんらしいひとに給仕させながら、自分にも白い、あたゝかい飯を食わしてくれる人、自分はこの人と喧嘩したのではない。そうだ、この人は、自分を助けてくれた人だった……。
 ドミイは昨夜、屋台の酒を相当飲んだ。ふところ勘定はしているつもりであったが、後になると大分足りなかった。
「いゝや。足りないところは、又今度来たとき貰おう……」
 実際そのときは恥しかった。屋台の主人のそういう言葉に頭を下げて、暖簾から出ると、もう早仕舞いの店では、アセチリンガスを消していた。ドミイの店の前には、
(そうだ、その男とだ……)
 絆天を着た、草履ばきの男が、何か隣りの小母さんに訊いていた。
「ア、帰って来やがった」
 男はドミイに手を出した。酔っているドミイには何のことか分らなかった。
「オイ、分らねえのか。ゴミ銭だよ。縁日で指輪わっぱでも売るお前だ。ゴミ銭位分っているだろう」
 無いといって振ったつもりの手が、小さい男の顎にでもさわったらしい。
「野郎ッ」
 飛びかゝって来る男を、ドミイの方でガンと突いた。隣りの小母さんが、何かわめいた。人が集って来た。なぐられた気もする。なぐった気もする。やがてその人の輪の中へ、
(そうだ、この目の前の人が立っていた……)
 それから、ドミイは、大勢の人間と、酒をのんだのだが、相手がたった今さっき、喧嘩をした人達であるように覚えているのは可笑しい。思い違いではなかろうか。その人達は、何事もなかったように、笑っていた。或いはやっぱり、自分と喧嘩した連中かも知れない。何かにつけて、日本人というものは、笑う人種だから……。
 それから先きは完全に知らない。今朝、眼をさましたら、こんな家にいるのだ。
 朝飯がすむと、主人はドミイに煙草をくれた。そして、
「生れは印度だろうが、何しに日本へ来たんだ。何時来たんだ」
 主人はいろ/\なことを訊いた。無論、主人のいうことの全部は分らなかったが、ドミイも覚えた限りの日本語で、正直に身の上を語った。一つ嘘をついたのは、終始ドミイが、印度独立運動に身を挺している男であるようにいったことであった。
「馬鹿が、独立運動を志すほどの人間が、縁日で喰い酔って喧嘩する奴があるか」
 主人は一言ドミイを叱ると、向うへ行っていろといった。
 広い部屋では、大勢の日本人が、子供までまじって、二人ずつドタン、バタンとやっていた。その前後に畳に手をついて挨拶しあうところをみると、それはそういう稽古らしかった。
 窓の外には雨が降っていた。
 昼近く、主人から呼ばれて奥の間へ行ってみると「飛んだり跳ねたり」の小母さんが主人の前に坐っていた。
「オヤ、お前さん、昨夜はびっくりおしだったろう」
 相変らず小母さんは笑っていた。
「でもよかったねえ、こちらの先生に裁いて頂いてさ。でもお前さんも、知らない土地へ来て、案外元気があるねえ」
「オイ、おさき婆さん、煽てちゃァ不可ないよ」
 主人が笑った。
「いえ、先生、本当でございますよ。昨夜は客も薄いし、見ただけでこの人のふところ加減も分ります。此方に多少あれば、一杯飲ましてでもやりたいと思っているところでござんした。そこへもって来て、あの場所割りの音さんが、ポン/\といったものですから、又、音という男は、豪勢近頃、肩で風を切り出しましてねえ」
「それもこれも、この男に商売の後楯になってくれる人間があればいいんだろう」
「ですから、宮村の親分へ先生からお口添えして頂けば……」
「相変らずかい、宮村君は……」
「興行ものに手を出さなければいゝんでございますが、このところずっと目が出ませんで、身内もグッとへりましてございます」
「それを聞いて、又一人、厄介なのを頼むのもどうかと思うが、ほかへ頼んだのを後で宮村が知ったら……」
「えゝ、それはもう、先生をお恨み申上げますよ。親分だってまだ/\こんな人間の一人や二人……。却って先生、いゝ若いものが出来たって喜びますよ」
 ドミイにはよく分らなかったが、昼過ぎ、小母さんに連れられて、その家を出た。
「お前さん、先生へよくお礼を申上げるんだよ。昨晩といい、今日はまた、宮村の親分へ持って行く菓子折の心配までして頂いたんだからねえ」
 先生の家を出るとき、小母さんはドミイにいってきかせた。
 浅草へ行くということだった。
「お前さんの荷物は、あたしが持って帰ってあるから、心配おしでないよ。今日からお前さん、宮村一家の人になるんだよ。なアに、昨夜の度胸があれば大したものだ」
 小母さんはドミイに、そんなことを歩きながら言った。小母さんには連れがあった。
 おさき婆さんの娘のお時だった。お時は浅草の牛屋の女中をしていた。色の白い、銀杏返しのよく似合う女であった。
 嫌だ、きまりが悪いといいながらも、
「雨に濡れて、気の毒じゃないか」
 と母親にいわれると、お時はドミイを、蛇の目の傘の中に入れてくれた。

「さア、お客さん、七貫だ。これが七貫だよ。それでも買わないか。それはねえ、お客さん、見たところ少し、このバナナは色が黒いよ。但し色が白くっても肚の黒い人間とは違うんだよ。印度人の私が売るから、バナナも黒い。黒いのは皮ばかり、中は白いよ。うまいよ、これは……。食べてうまい、うまくって滋養になる。お客さん、私の顔をみないで、バナナを見ておくれ。私の顔は売らないんだからね。買わないか。お客さん。これが買えなきゃ、そこの池へはまって死んでしまえ。それでもお客さん方、日本人か、日本人なら、えゝい、私日本人大好き。七貫、六貫、五貫にまけてやるから持って行けッ」
 流石上野の山の桜吹雪も、そこまでは飛んで来なかったが、不忍の水が流れ落ちる、昔は三枚橋とよんだあたり、稲村時計店の前で、夜の桜見物の客を相手に、戸板を叩きまくっているのは、去年の秋、本郷の薬師で喧嘩をしたきり、縁日から姿を消した、指輪屋わっぱやのドミイであった。
 印度人のバナナ売りは、この頃、広小路の名物になっていた。見上げるように大きい、色の黒い、目のギョロッとした印度人が、日本語の啖呵たんかを切るのだ。然し当人は流暢りゅうちょうにやっているつもりでも「死んでしまえ」が、「チんでしまえ」になったり、「大好き」が「大チュき」になったり、テニヲハが怪しかったりして罪がなく、それが愛嬌になっていた。印度人を見がてら、片言の啖呵を聞きながら、客はドミイ一人の前へ集って来た。
「さア、五貫、ハイ、有難う。今度はねえ、この特別大きい房だ、お客さん……」
 バナナもよく売れた。もうゴミ銭もないドミイではなかった。毎晩、御徒町おかちまちの上州屋で、知らない人にまで酒を奢るドミイであった。
「オイ、独立党のバナナ屋……」
 商売最中も構わず、「先生」が、人垣の後から声をかけることがあった。大概夜は酒に酔っていて、髪を長くした学生を二三人引き連れていた。先生は美術学校にも柔道を教えに行っていた。
 ドミイは店を仕舞ったあとで、よく先生とも飲みに行った。
「ドミイ、お前この頃、時々喧嘩をするそうじゃないか。何とかで、べらぼうめえというそうだなア」
 或るときもそんなことから、ドミイはひどく先生から弱らされた。
「お前、べらぼうめえの先きを知ってるか、知らないだろう。江戸ッ児の啖呵だ。喧嘩でもする位なら覚えて置け」
 先生は、江戸ッ児の啖呵というのをやってみせてくれた。然しそれは、余りにも早くて、威勢のいゝのはドミイにも感じられたが、何をどういっているのか分らなかった。
「分らないだろう。それじゃゆっくりやってやる。いゝか、先ず最初が何だ、べらぼうめえだ。何だ、べらぼうめえ。花魁おいらんだ、胴らんだ、印伝いんでん巾着きんちゃくだ。へのこのちんころ、御大層ごたいそうもないことをかすない。からす、かんがらす、ひょう/\ぐりのぢだんぼう、本郷ほんごう下谷したや、浅草切っての色男、ドミイさんを知らないか。何だ、べらぼーめえ」
 先生は、一言ずつ切って、ドミイについて言えといった。ドミイも大ていの国の言葉なら、直ぐに覚える自信があった。英語は勿論のこと、独逸語、仏蘭西語も少しは知っていた。日本語だって、来て一年の間に、とも角バナナの叩き売りさえ出来るようになっているのだ。然し、先生の教えてくれる、江戸ッ児の啖呵だけには参った。一つの調子もあったし、気永くやれば覚えられるにしても、先生がやるように、あゝうまく、カラリと見得が切れそうもなかった。
 けれどもドミイは、喧嘩のためならそれも覚えようとした。広小路へ出るようになってから、喧嘩を売られることが多かった。広小路は黒門町、住駒一家の縄張りなのに、ドミイ独り、菊屋橋、宮村の身内であったからである。宮村と住駒とは、昔から仲が悪かった。今でこそ宮村が落目になっているから、敢て住駒と張り合おうとしなかったが、以然はこの広小路で、よく勢力争いをしたものであった。
 ドミイはそれを聞かされているから、売られる喧嘩は何時でも買った。買って負けていなかった。飲み屋などの喧嘩では、ドミイは直ぐテーブルの上に飛びあがった。そして、椅子をグルグル振廻すのが得意であった。
「ドミイ、喧嘩をするつもりなら、当身あてみの一つも稽古しとけよ。雨の日にでも道場へ来い。お前は俺の門弟だ。喧嘩のときはな、天神下てんじんした、平野の門弟だと構わないから名乗れ」
 そういってくれる先生もいたから気丈夫であった。
 然し、ドミイからみれば、日木人はお人好しで、喧嘩だって強くはなかった。商売上の啖呵で、ドミイが何と罵ろうと、お客はアハ、アハ笑っていたし、住駒一家にしたって、場所割りでも何でも、ドミイの無理はよく通った。強いと思うのは先生独りで、あとはみんな、刃物をみせても、抜いて切って来るのはいなかった。
「嬉しいよ、あたしゃァ」
 喜んでいるのはおさき婆さんであった。
「宮村一家の名をよくあげてくれたねえ。住駒の奴等も、お前さんの言いなりじゃないか。死んだあたしの亭主も、これで胸がスウッとしたろうよ」
 もと/\ドミイに、広小路に出てみる気にさせたのもおさき婆さんであった。おさきの亭主、肥後守売りの福次郎も、宮村の親分の乾分こぶんであったが、親分のため、住駒と喧嘩をつゞけながら死んでいった。おさきは亭主の志をうけつぎ、親分大事に生きている女であった。たかが肥後守売りの福次郎のために、親分が立派な葬式を出してくれたということも、おさきにとっては忘れられない御恩の一つであった。
 ドミイにしても、親分は有難い人だった。おさきに連れられて行った日から、親分はドミイを家へ置いてくれ、色々の手伝いをさせながら、露店商人が知って置く可き一通りのことを教えてくれた。ドミイが小遣いを貰うとバナナを買ってきて食べることから思いつき、バナナの叩き売りを仕込んでくれたのも親分だった。親分はドミイを連れて、神田多町の果実問屋まで、夜店向きの品物を、卸して貰う交渉にも行ってくれた。
「ドミイさん、しっかりやっとくれよ。あたしは本当にうれしいんだから」
 おさきはドミイを頼もしがった。然しドミイには、おさきはどうでもよかった。問題はお時であった。
 汗を流して商売していても、仕舞い頃になるとドミイはそわ/\した。早番で帰るお時が、店で風呂に入り、ドミイを誘いに、寄ってくれるからであった。お時の方が早い場合は、稲村時計店の硝子窓を覗き込む振りをして、いつまでもドミイの仕舞うのを待っていてくれた。
 銀杏返しの、向うむいた襟首をみると、ドミイは商売がそれ以上出来なかった。
「さア、お客さん、安くするから、早く思い切って買っとくれよ。何時まで立っていても、只じゃ売らないからね」
 今晩も、お時が、誘ってくれそうな気がした。ドミイは半月ほど前から、お時母子の二階に住んでいるのだ。

 その秋、ドミイはお時と結婚した。
 先生夫婦が媒酌人で、式は新しくドミイが借りた、天神下、松の湯の前の家で、おさき、親分だけが席に連って挙げられた。
 当日になると、お時は島田に結い、先生夫婦、親分までが羽織袴で現れた。
 ドミイはお時と差向いで坐らされ、先生の奥さんから、何度も妙な盃をわたされた。
 上州屋で、二人きりで一杯やったことさえあるお時が、その晩ばかりは下を向いて、堅くなっていたし、おさきは嬉しいのか、悲しいのか、この結婚の賛成者だから、まさか悲しいこともあるまいが、クスン、クスン、鼻をすゝって泣きづめだった。
 日本の型通り、自分を花婿として儀式が取行われるのをみながら、ドミイは少し慌てだした。
 あんまり儀式が真剣すぎた。あれほど好きなお時と、一緒になるのであったが、
(俺も日本に、これでしばりつけられるのか……)
 何か取返しのつかない気もするのだった。お時は好きであった。然しまだ日本を好きと思っているドミイではなかった。住んでいる東京にしても、何処がいゝのか分らなかった。たゞバナナを売った金で、酒を飲んで、喧嘩をするのが面白いだけのことであった。それとても、一生、バナナ屋をやっている気持はなかったし、何かにつけて、小さいときから育った、上海シャンハイの恋しいことがあった。上海の南京路は、東京の人間が自慢する銀座より、ずっと大きくて賑やかだった。競馬場、四馬路スマル、印度人専門のバーがあるバンドなど、神戸、横浜なんか、較べものにならなかった。上海には各国人がいる。色の黒い印度人だって目立ちはしない。然し東京では、今の生活では、印度人は自分一人だ。風呂へ行ったって、ジロジロみられるのが堪らない。上海はそこへ行くと気楽だった。
「ドミイ、これで芽出度く式は終った」
 先生から、盃がすんで、いつになく厳かにいわれたときは、義理にも嬉しい顔が出来なかった。
「今日からお時はお前の女房、おさきはお前の母親だ。日本では親を一番、家の中では大事にする。いゝな、分ったな」
 印度でも親は家の中で一番大事にするが、一生自分はおさきを親にして、此処で今のまゝ暮すのだろうか……。
 それから酒になって、
「どうだ、花婿。江戸ッ児の啖呵を覚えたか」
 先生が冗談を言いだしたが、ドミイは急に恋しくなった上海のことばかり考えていた。お時は申分のない、いゝ女房であった。おさきもやさしい母親であった。結婚の翌日から、小さい台所のもの一つ買うのでも、二人には嬉しそうであった。冬が来るといって、二人出て行ってドミイの温袍どてらにする反物を買って来たときなど、
「おっかさん、うちの人の身丈は、九寸五分でいゝかしら……」
「お前、はかってみればいゝじゃないか。あたしゃそれより、袖丈そでたけを気にしているんだよ。お力士すもうさんなみに、肩にぎを入れなきゃなるまいと思ってさ。手が長いからねえ」
「お母さん、手が長いなんて、人聞きが悪いこといわないでよ」
 などと大騒ぎしていた。然し、ドミイは着物は苦手にがてだった。親分の家にいる頃着せられたこともあるが、冬中、首から背筋が、何としても寒かった。
 もの心つくとから他人の中で、温い情にもふれず育って来たドミイには、日本の女の、女房、母親の心遣いは少し度ぎつかった。長火鉢の向うへ、わざ/\ドミイのために、大きい座蒲団を作って置いてくれたが、それもドミイにしてみれば、椅子に腰かけている方が楽であった。
 ドミイは二階の六畳に、椅子とテーブルを据えつけて、あまり下の茶の間へは下りて来なかった。
 ドミイがとらない限り、おさき母子は先きへ箸をとろうとしなかった。御飯もお初をドミイのためにとったし、湯も茶も、ドミイのために先きへ注いだ。
「お前さんは、一家の亭主だもの……」
 二人は事毎にそれをいった。そんな礼儀作法は、どっちでもいゝことばかりであった。
 一年たって、お時が男の児を産んでからは、一層ドミイには家の中がうるさくなった。
 先生が、上野の西郷さんにあやかるようにといって、赤ん坊に「隆夫」という名をつけてくれた。
「あなたは、西郷の隆夫ちゃんですか、それともお父ちゃんに似て、お鼻の隆夫ちゃんですか」
 そんなことをいって、おさきが孫をあやしているのを聞くと、ドミイは全くうんざりした。もう一層、強くドミイは、日本にしばりつけられた気がするのだった。
 おさき、お時は、はっきりとそういっていた。
「お前のお父ちゃんも難しい顔してますが、隆夫ちゃんが生れたからお蔭で気も落着くことでチョウ」
 気が落着くどころか、ドミイは余計焦々した。バナナが売れるというのも、自分が印度人だからだ。印度人という見世物をおまけにするから、バナナも売れるのだ。その印度人と日本人の混血児が、何でこの先き幸福だろう。
 祖母と母親が、自分に似て色の黒い隆夫を、父親に似ているからといってなお可愛がるのをみると、ドミイは時々、何かをなげつけたい気がした。
 その次ぎの年、お時はまた赤ん坊を産んだ。今度は女の子で、名は先生から、キヨ子とつけて貰って来た。
 キヨ子が生れた頃から、ドミイは家をあけ出した。
「ドミイさん、こんな意見がましいことをいうと、お前さん、又怒るかも知れないけれどね、手遊びだけは止しておくれよ。お前さんにももう、二人の子まであるんだよ。あたしは真当まっとうな、露店商人で行きたいと思うよ。酒もよかろう、浮気もよかろう、お前さんは亭主で、自分の働きですることだからね。だけど、手遊びだけは後生だからやめておくれ」
 言いたくても言えないお時にかわって、おさきが意見すると、ドミイは、口汚く理屈にもならないことを言い返した。見兼ねてお時が口を出すと、ドミイの掌が、お時の頬に飛ぶこともあった。
 ドミイが鶏を飼い出してからは、すっかりドミイとおさきの仲がわるくなった。ドミイはおさきやお時の心をこめて作ってくれる日本料理を嫌がって、油で揚げたり、スープにしたり、手料理をする材料の鶏を、広くもない家の、床下に飼いだしたのである。
「お時、どうにかこれはならないかねえ。雨の日なんかあたしゃ、床の下の臭いで胸がムカムカするんだよ。御近所にだって迷惑だと思うがねえ」
 おさきはお時にいうのは可哀想だと知りながらも、黙っていられなかった。
「ドミイさん、鶏がまた出ていますよ」
 近所からもよく苦情が持ちこまれた。
「全く仕様がないな。この隣近所、ひっついたところで、床下に鶏を飼うなんて、第一、衛生によくないよ。それに又、油断をしていると店先きへ入って来て、商売物にまで汚いものを落されるんだから、たまったものじゃない」
 蔭でこぼしているのもよく聞えた。
「どうしよう。あたしゃあれを聞くと身を切られるようだよ」
 昔の人間で近所づきあいを大事にするおさきには堪らないことであった。
 お時もどうしていゝか分らなかった。然しそれを、ドミイにいおうものなら、
「やかましい。俺のすることだ。黙ってろ。それとも俺が気に入らなきゃ、鶏を伴れて出て行こうか」
 というに相違なかった。
 ドミイには怖いものがなかった。煙たい先生と親分のところへは、何時からか出入りしなかった。おさき、お時、近所、仲間をドミイはなめてかゝっていた。
 警察も怖くはなかった。何度、その筋の手を焼かせたか分らなかった。仮りにも印度独立を口にしたものが、警察へよばれると、英国人の国籍にものをいわせようとした。
 その間に、第一次世界大戦争が終り、震災があった。然しドミイの放蕩無頼の生活は改まらなかった。

 昭和二三年頃になって、支那からおびたゞしい街頭商人の群れが入って来た。洋傘屋こうもりや、呉服屋、割れもの直しなどが、蜘蛛の子のように、日本中へ散って歩き廻った。当局はその無遠慮なお客を、一斉に整理した。支那へ帰って貰うことにした。そのとき、ドミイも一緒に、不良英人として、日本居住許可が取り消された。
 それは、来る可きものが来たまでのことであった。近頃では、ドミイは広小路に店は出していたが、自分から昔のように、戸板を叩くことはなかった。ドミイはいっていた。
「馬鹿くせえ、日本人なんかの前に、何時までもいゝ笑いものになっていられるかい」
 金で人を雇い、その人間にバナナを売らしていた。ドミイは立派な遊び人であった。
 ドミイの追放処分を聞くと、おさきが先生のところへ駈けつけた。
「お時が可哀想でなりません。あんな国の違った人間でも、十年余りも連れ添った仲でございます。二人の子供もございます。どうしたらいゝでございましょう」
 おさきは又、あれほど自分達を苦しめたドミイのためにも心配してやっていた。「それはもう、今まで通り日本に置いて頂けるなら、世間様さえお許し下さるなら、私共が辛抱すればいゝのでございます。然し、あの人間が、上海とかへ帰ってどういたしましょう。日本で我儘一杯にさせて頂いた人間でございますから、昔暮した土地とは申せ、あの人間ももう四十を出て居ります。向うへ帰されてからの苦労が思いやられます」
 然し、先生にも、もうどうにも出来なかった。もっと前なら、何とか出来たろうが、今となっては仕方がなかった。
 先生は自分の弟子で上海にいる人のところへ自分が可愛がった男だから、出来たら何とか面倒を見てやって欲しいと、手紙を書いてくれた。
 親分にも、どうにも出来なかった。親分は又日本へ入れて貰うように、上海で神妙にしろ、その間、おさき、お時、二人の子供は何とでも俺がみて行くからといってくれた。
 ドミイは横浜から船に乗せられて去った。
 おさきもいったように、これから上海へ渡って、何をしたらいゝかドミイもそれを考えるとさびしかった。去るとなると、日本が一番住みいゝ気もした。
 お時、おさき、二人の子供が、泣きながら船まで送って来たのは勿論のことであった。鶏では毎日喧嘩をして来た近所の人も、
「又おいでなさいよ、ドミイさん。あとのことは心配しないでね」
 と、東京駅まで見送ってくれる人もあれば、船まで送って来てくれる人もあった。
 親分はムッツリとした顔で、やっぱり船まで来てくれた。
「ドミイ、何かの足しにしろ、ほんの俺の志だけだ」
 苦しい中から都合つけて来たに違いない、紙に包んだものをドミイに握らせてくれた。
「又来いよ、ドミイ」
 先生は、何と思ってか、絣の着物を一枚くれた。
「元気でやれよ、ドミイ。上海シャンハイへ行っても、俺が教えた啖呵を忘れるなよ。人間は如何なるところでも、大きな啖呵が切れるようでなくっちゃ不可ない。啖呵を切って、威勢よく暮すんだぞ」
 それが、ドミイという門弟に対する先生の、絣の着物に添えた、最後のお説教だった。
 長い間のことだから、横浜にも同じ印度人の友達も出来ていたがドミイが追放ときくと、見送りにも来てくれなかった。
 それにくらべると、日本人というのは、どうした気持の人間であろう。最後まで喧嘩して来た、住駒一家の者が大勢、やっぱり船まで賑やかに見送って来てくれている……。
 ドミイが日本へ来たのは大正三年、追放されたのは昭和四年であった。
 上海へ着くと、感傷は消えて、元のドミイになっていた。
(やっぱり上海だ……)
 東京、東京といっても、開けた上海とはすべてのけたが違っているように思われた。此処では日本人も、遠慮して暮していた。上海ではイギリス人かアメリカ人でなければならなかった。
(日本人は人がいゝだけのことだ……)
 それほど日本を恋しがることもなく、却って望んでいた独り身の気楽さを喜んで、早速ドミイは宝石売りの商売をはじめた。
 宝石といっても、みんなまがいものであった。一二年するうちに虹口ホンキュウヘ小さい店を持つことが出来た。
「ドミイ宝石店」
 客は主に、日本人だったから、日本字の看板を掲げた。ドミイの店は、時計の修繕をも兼ねていた。
 ドミイが日本人の多い虹口に店を持ったのは、日本人の客を扱いなれているからであった。ドミイは虹口でも、昔広小路でやった、バナナの叩き売りの手を用いた。決して日本人をていねいに扱わなかった。日本人の客には言いたい三昧の悪たれ口をきいた。
「ドミイというのは面白い奴だ」
 案の定、すぐそんな噂がひろまった。何をドミイがいっても、虹口の日本人も怒りはしなかった。ドミイの口許をみつめてその流れ出る流暢な日本語を喜んでいた。
 日本へ帰る客はみんなドミイの店から、安い宝石を土産に買って帰った。時計の修繕も沢山持ちこまれた。
(甘いもんだ……)
 ドミイはおさきやお時が心配したほど、生活には困らなかった。
「何だべらぼうめえ、花魁おいらんだ、胴らんだ、印伝いんでん巾着きんちゃくだ……」
 ドミイは独り啖呵を切っていた。日本字も書けたが、面倒くさいので手紙は誰にも書かなかった。ドミイの見るところでは、日増しに日本が英国、米国、支那からも押えられている時であった。天神下の先生は、人間いつも、大きく啖呵が切れるようでなくっちゃ不可ないといっていたが、日本は何一つ、外国へ向けて啖呵が切れなかった。支那人から馬鹿にされても、黙っていた。そんな、旗色の悪い日本の知合いへ、わざ/\手紙を出すこともなかった。
(おさき婆さんは又縁日へ坐るだろう。お時は牛屋の女中になればいゝ。子供は……。子供だってどうにかなるだろう。俺だってナ、十一から独り立ちだ。まして彼奴あいつらはお節介せっかいな、あまおのが国日本にくらしているんだ。世間が何とかしてくれるだろう……)
 日本に残して来た家族のことも、そんな風に考えていた。

 そのドミイに、はじめて「日本」の分るときが来た。昭和十二年八月十三日、支那側の挑戦により、日本の陸戦隊が、火蓋を切ったときであった。
 何処に一体そんな力があったのだろう。何処にそんな強さがあったのであろう。日本はアッという間に上海を抑え、その年の暮には南京をさえ陥した。
 甘いとみていた日本が、ポーン、ガーンと、砲弾つ一発毎に、日本をあなどり、恥しめていたものの一切を打ちくだく、強い音を虹口できいていて、
「すみません、すみません」
 ドミイは、心から謝っていた。
 それは、お時、おさき、先生、親分、天神下の近所の人達、住駒の身内、広小路のバナナのお客が今こそ立上がっている音であった。
 あの人達は、日本は、甘いのではなかった。弱いのでもなかった。弱いどころか、こんなにも強いのだった。強い日本が、強いあの人達が、何故自分をあんな風に、勝手気儘にさせてくれたのであろう。
 ドミイは、戦火の下で反省した。
 甘やかしてくれていたのだ。他国から来た一印度人を可愛がっていてくれたのだ。大目にみてくれていたのだ。
 ドミイには、はじめて日本の人の、日本の「寛容かんよう」が分った。
 日本の寛容が分ったとき、はじめて日本人の親切が沁々有難いものに思われた。自分に関する限り、忍ぶだけは忍んで、相手のためを考えてくれる。母親のおさき、女房のお時、近所の人、先生、親分……横浜まで、送って来てくれた住駒の身内の人達の気持まで、よく分った。
 その人達に、自分は何をしたろう。何と思って来ただろう。
「すみません、すみません」
 坐りなおしてあやまらないではいられなかった。
 昭和十三年三月十日、上海では日本陸軍の観兵式が挙行された。三四日来降りつゞいた上海でも珍しい大雪が、その日になってパタッとやんだ。大場鎮だいじょうちんを攻略し、蘇州河そしゅうがの敵前渡河を敢行し、杭州を占領、浦東ほとうを掃蕩した殊勲の津田、福井、八隅、鳥海、山田の諸部隊が、畑最高指揮官の前を、雪を踏んで、張りきった糸のように、何本もの糸のように、整然と、堂々と、来ては去り、去っては進んで来た。
「何だ、べらぼうめえ」
 見ていたドミイはじっとしていられなかった。
花魁おいらんだ、胴らんだ、印伝いんでん巾着きんちゃくだ」
 強いが、余りにも無口すぎる日木のために、ドミイが代って啖呵を切っているのであった。
 日本が恋しくて堪らないドミイは、先生や親分に手紙を出して、それから間もなく、長男の隆夫を、上海へよこして貰った。
 お時に負けない愛情で、隆夫を一人前に育てあげるつもりであった。
 日本では、誰も彼も、ドミイの知っている限りの人々は、みんな、いま一生懸命だということであった。
「そうだろうとも、そうだろうとも……」
 心の中でドミイは「すみません、すみません」とくり返した。
 天神下、広小路の通り、不忍の池、上野の山のあたりのことを、ドミイはうるさく隆夫にきいた。追われて十年にもなるが、己がほんとの故郷のようになつかしまれた。
 色の黒い親子二人が、仲よく時計の修繕をしているところへ、隆夫に招集が来た。
 飛びあがって喜んだのはドミイだった。ドミイはわざ/\先生から貰った絣の衣物を着て言った。
「隆夫、お父っさん、こんな嬉しいことはないぞ。頼むから、お父っさんが手をついて頼むから、しっかりやって来てくれよ。お前がしっかりやってくれゝばそれでお父っさんの、みんなへのお詫びが、少しは届くんだ」
 夜、招集令状が来て、その翌朝、隆夫は日本へ立って行った。
 ドミイには我が子の隆夫が羨しかった。母親の籍へ入っているから、隆夫は日本人だが、ドミイはいくら日本を恋しく思ってもやっぱり印度人であった。それが、ドミイには悲しかった。
 然し、その悲しさも、僅かの間であった。
 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争がはじまった。
「何だ、べらぼうめえ。英国だ、米国だ、御大層ごたいそうもないことかすない。からす、かんがらす、ひょう/\ぐりのぢだんぼう、本郷、神田、下谷切ってのいろ男、印度人のドミイさんを知らないか」
 はじめてドミイにも、大きく啖呵をきるときが廻って来た。なつかしい日本と、いとしいわが子と、同じ戦線につくことが出来るのだ。
 上海シャンハイ新亜しんあホテルに於ける、第一回印度人大会の指導者の中に、ドミイもみられた。それから後、ドミイの姿は、上海の何処にも見えないが、飛行機に乗って、南へ飛んでいったという人もある。





底本:平成元年3月15日 文藝春秋刊『オール讀物 平成元年3月臨時増刊号 直木賞受賞傑作短篇35』
入力日:平成13年11月25日
入力責任:WEBサイト「直木賞のすべて」
URL https://prizesworld.com/naoki/
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●底本との表記の違い