直木賞のすべて
幻の直木賞
戦後復活選考会
(戦後~昭和22年/1947年12月)
小研究 トップページ
受賞作・候補作一覧
受賞作家の群像
候補作家の群像
選考委員の群像
選評の概要
大衆選考会
リンク集
マップ

小研究のメニューへ

ページの最後へ
Last Update[H19]2007/3/10

昭和20年/1945年2月、第20回直木賞は受賞作なしと決まりました。
その後、終戦を迎えるわけですが、
主催者の日本文学振興会も、文藝春秋社も、賞どころではなくなり、
約3年間、直木賞も芥川賞も選考会が開かれませんでした。
戦後復活第1回(通算第21回)の直木賞が決まったのは、昭和24年/1949年7月。
空白の4年半のあいだ、
直木賞復活の動きがなかったのかといえば、そうではありません。
昭和24年/1949年7月よりさかのぼること約1年半前、
一度、直木賞は復活しかかりました。

幻の直木賞選考委員、石川達三。
 『文藝讀物』昭和23年/1948年1月号に、「直木三十五賞復活発表」が掲載された。以下、重要な資料なので全文引用させてもらう。
 直木三十五賞復活発表

 直木賞復活に就て

財団法人日本文学振興会は、今回直木三十五賞を復活することゝした。故直木三十五氏の文名を記念し、 健全なる大衆文芸の興隆と新人の発見を目的として、昭和十年設立を見た同賞はいささか我が文学に新風を導入する実を 挙げたが、昭和二十年上半期(第二十回)以降戦争のため中絶、今日に到った。今度び直木賞を復活し、 大衆文芸に対して一の寄与を加え得たことは欣びに堪えない。大方の御援助をねがうこと勿論である。 授賞銓衡委員は近く確定の筈である。尚発表機関としては「文芸読物」に委嘱し協力を得ることとなった。 復活第一回の銓衡規定その他は下記の通りである。
 直木三十五賞 金五万円
 銓衡方法 復活第一回に限り、終戦後より昭和二十二年十二月号までに発表された作品とするが、以後は、年二回の授賞とする。 一年を上下の二期にわかち、自一月号至六月号を上半期、自七月号至十二月号を下半期とし、年二回銓衡。
 昭和二十二年十一月
 財団法人 日本文学振興会
 銓衡資料としての、雑誌単行本を東京都港区芝今入町八(城南ビル)本会宛御寄贈を得ば幸甚である。
 昔の資料にツッコミを入れるのも大人げないが、一点訂正するとしたら、第20回は昭和19年/1944年下半期である。戦後復活の対象を「終戦後から」と打ち出した瞬間に、昭和20年/1945年1月~終戦まで(つまり昭和20年/1945年上半期)は、永遠に直木賞の選考対象から外された“空白の期間”となったのだ。

 それはそれとして、戦後第1回目の選考委員会はそれから5か月後の昭和23年/1948年4月に開かれた。本来は3月に予定されていたのだが、直前に菊池寛の訃報に接したため1か月延期されたらしい。委員は、久米正雄、大佛次郎、小島政二郎、石川達三、川口松太郎、井伏鱒二、木々高太郎の7氏。そこに日本文学振興会理事の永井龍男も参加した。しかし、その日は授賞決定に至らず、次回まで持ち越しとなった。そのときの経緯は『文藝讀物』昭和23年/1948年6月号に載っている。
 で、次回っていったいいつだ。その後、継続して選考会が開かれた記録が見つからないぞ。次に直木賞のハナシがお目見えするのは1年近くも経った『文藝讀物』昭和24年/1949年5月号で、いよいよ復活第1回の受賞決定をその年の9月号に発表するむね報告している。そして9月号に富田常雄受賞の報が出た。昭和23年/1948年4月に一度、復活選考会が開かれていたことには触れることなく。

 果たして昭和23年/1948年4月の選考会は、日本文学振興会には公式には認められていないのか、昭和24年/1949年7月になぜか芥川賞の選考委員に鞍替えした石川達三は、直木賞の歴代選考委員には数えられていない。それでもたしかに、少なくとも一度は石川は直木賞選考会に参加していたのだ。“幻の直木賞選考委員”である。
太宰治の直木賞受賞は、あながち夢ではなかった。
 『文藝讀物』昭和23年/1948年6月号に載った、選評がわりの「直木賞を繞って…」をもとに、このとき名前の挙がった作家および作品名を列挙してみる。
  • 久生十蘭
  • 富田常雄
  • 南川 潤 「悪魔の弟子」(『小説と讀物』昭和22年/1947年2月号)「仮装行列」(『ホープ』昭和21年/1946年7月号~12月号)「紳士北へ行く」(『新讀物』昭和22年/1947年10月号)その他
  • 長谷川幸延
  • 梅崎春生 「日の果て」(『思索』昭和22年/1947年秋季号[9月])
  • 太宰 治 「斜陽」(『新潮』昭和22年/1947年7月号~10月号)
  • 山本周五郎 「覆面騎士」(『新青年』)
  • 山手樹一郎
  • 添田知道 『どん底の顔』(昭和23年/1948年1月・興栄社刊)
 久生、富田、南川、長谷川などは複数の選考委員に取り上げられていて、有力どころだったと思われる。久生と富田はのちに受賞するから、まあいいが、長谷川幸延がここでも小島政二郎に推挙され、ここでも受賞見送りになっているのは、もう「直木賞ほぼ受賞作家」の不運ぶり面目躍如たるものがある。

 南川潤は、戦前の第11回の折り、『オール讀物』に発表した「春の俘虜」その他が参考候補として選考の俎上に載せられているが、この人もまた、文春系の資料では最終候補者としては認められていない。直木賞とは無関係の作家かと思いきや、こんなところで名前が挙がっていた。“幻の直木賞候補者”と言えるだろうか。

 “うっかり癖”のある川口松太郎は、山本周五郎の『新青年』に載った作品名を「覆面騎士」と書いていて、これが面白いと言っている。それってひょっとして、周五郎が「覆面作家」として発表した「寝ぼけ署長」シリーズと、「黒林騎士」と名乗って書いた「失恋五番街」「失恋六番街」のことを指しているんでしょうかね。これを「覆面騎士」と言うのは、いかにも乱暴すぎると思うわけだが、なんにせよ、仮に山本周五郎が推されて、授賞決定にまで至ったとしても、周五郎さんは今度もきっと断っただろう。

 その川口松太郎が、こっそり触れているのが太宰治のこと。梅崎春生の「日の果て」を「これなどは、純文芸であると同時に大変な通俗作品です。」と褒めたあと、「そういう点で、太宰治の「斜陽」も面白いです。」と一言、加えている。実際、純文芸畑と思われていた梅崎春生がこの7年後に、なんとびっくり直木賞をとったし、太宰が第1回芥川賞で落選して落ち込んでいたときそれを慰めた文友・檀一雄が3年後に、これまたびっくり直木賞をとっていることを思えば、昭和23年/1948年6月に自殺などせずにあと数年生き延びて活躍していれば、太宰治もまた、直木賞をとっていたとしてもおかしくない。まあ、本人にしてみれば、賞の冠が芥川龍之介じゃなくて直木三十五じゃ不服だったかもしれないが。
復活まで1年余もかけ、末にやや保守的な決着を見せたところ、いかにも“直木賞らしい”。
 さらにこの「直木賞を繞って…」では、末尾に「葉書回答」として、
 尚、日本文学振興会より文壇諸家に葉書回答を求めました。次に、その葉書の一部を紹介します。
 と、8氏の回答を掲載していて面白い。戦前戦後を通じて、選考会の参考とするために文壇人にアンケートをとるのは通例化していたが、こうして内容を知ることができるのは、この選考会のときだけである。

 以下、全文引用したいところだが、著作権の関係があるやもしれないので、回答者と、その推薦作家・作品を書き残すにとどめる。
  • 舟橋聖一 … 竹越和夫「ゆくへも知らず」(『太陽』昭和22年/1947年10月号)
  • 河上徹太郎 … 林房雄
  • 藤沢桓夫 … 長沖一「大阪の女」(『主婦之友』昭和22年/1947年1月号)「女主人」(『文明』昭和22年/1947年4月特集号)
  • 村松梢風 … 小杉天外
  • 濱本 浩 … なし
  • 坂口安吾 … 横溝正史「蝶々殺人事件」(『ロック』昭和21年/1946年5月号~昭和22年/1947年4月号)
  • 大下宇陀児 … 山田風太郎「みさゝぎ盗賊」(『ロック』昭和22年/1947年10月号)、山本周五郎「寝ぼけ署長」(『新青年』昭和21年/1946年12月号~昭和22年/1947年11・12月号)
  • 長谷川 伸 … 西川満、梶野悳三「鰊漁場」(『大衆文藝』昭和22年/1947年5・6月号)
 明治期に活躍した小杉天外は別格として、その他に挙げられた名前を見ても、みなその後にきちんと名を残す作家となっていて、さすが回答者たちの眼は鋭い。個人的には、直木賞とは結局無縁だった横溝正史とか山田風太郎とかが、戦後復活の直木賞を受賞していたら受賞者リストも一層華やかになったろうになあ、と悔やまれるところではある。

 昭和23年/1948年の選考会は、けっして直木賞史の表舞台に出ることはない、隠れた事実だけれども、それから1年あまりの時間を要してようやく第21回の直木賞は決まった。そこでは結局、新人作家ではなくて力量の信頼できる既成の作家に贈ろうという流れで落ち着いた。やや保守的でとっぴな冒険を好まない直木賞の性格が、こんな戦後の復活劇にもかいま見えるようだ。
(平成19年/2007年3月10日記)
ページの先頭へ