直木賞のすべて
徳川夢声氏の
直木賞候補作と言われてきた
「幽霊大歓迎」を追い求めて
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Last Update[H20]2008/6/8

徳川夢声氏といえば、
無声映画の時代から“カツドウ弁士”として活躍し、
戦後は、ラジオ・テレビの勃興期になくてはならないお茶の間の人気者となる一方、
雑誌の世界では座談会や対談にひっぱりだこ、
昭和26年/1951年から『週刊朝日』に連載された対談「問答有用」はその代表作です。

また、作家・随筆家としての顔もよく知られ、
戦前から軽妙なエッセイやユーモア小説を、かなりの数発表しています。
昭和24年/1949年7月、戦後復活第1回(通算第21回)直木賞では、候補に挙げられ、
強く推す委員もあったのですが、惜しくも受賞を逃しました。

で、このときの候補作は、長い間、短篇小説「幽霊大歓迎」だと言われ、
当ホームページでもそう記載してきたのですが、
この“定説”にあえて異をとなえたいと思うのです。

「幽霊大歓迎」大歓迎
 直木賞の過去の候補作を一覧にして紹介している文献は、受賞作のそれと比較して、そんなに多くない。
  • 『国文学 解釈と鑑賞 臨時増刊号 直木賞事典』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)
  • 永井龍男著『回想の芥川・直木賞』(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊、昭和57年/1982年7月・文藝春秋/文春文庫)
  • 『オール讀物』連載企画「オールabout直木賞」の「直木賞「全選評」」(文藝春秋刊 平成14年/2002年10月号、12月号、平成15年/2003年1月号、3月号)―第1回から第35回の分のみ
  • 豊田健次著『それぞれの芥川賞 直木賞』(平成16年/2004年2月・文藝春秋/文春新書)
 などが代表的なものだろう。そして、これらをもとに、さらに独自調査を加えていった(かつ現在も加えている途中)のが、当ホームページの「受賞作・候補作一覧」ページということになる。

 前出4点の候補作リストでは、いずれも第21回の徳川夢声氏の候補作は「幽霊大歓迎」となっている。しかし、残念ながらこの作品が、どの雑誌に載ったものなのか(あるいは、どの出版社から刊行されたものなのか)、短篇なのか長篇なのか、まったく説明はない。もちろんその辺の事情は、どの回の候補作にしても同じであって、はてさて、これら候補作がいつどこに載ったものなのかを調べることに、直木賞オタクのワタクシは情熱を燃やしてきたわけだ。しかし調べども調べども、たとえば同じ回の藤原審爾「秋津温泉」やら、中村八朗「桑門の街」やら、今日出海「山中放浪」やら、菊岡久利「怖るべき子供たち」やら、山田克郎「海は紅」やらは、苦労の末に突き止められたものの、どうしても「幽霊大歓迎」だけは、なかなか見当たらない。

 リストのかたちではないけれど、当時の文壇(とくに大衆文芸・中間小説に関する世界)の状況を、非常にくわしくわかりやすく教えてくれる大村彦次郎著『文壇栄華物語――中間小説とその時代――』(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊)でも、たしかに第21回の直木賞選考については触れられている。
 このとき受賞した富田(引用者注:富田常雄のこと)と最後まで争った有力作品は徳川夢声の「幽霊大歓迎」で、同時に夢声の一連の創作活動が選考の対象として問われた。

(引用者中略)

 直木賞の選考会席上では、委員の久米、大佛、獅子文六(岩田豊雄)らが富田の受賞作の他にもう一本、直木賞の幅を広くする意味で夢声を加えるべきだ、と主張し、議論は白熱した。最後にこれまでの直木賞の在り方を遵守すれば、富田一本に絞っておくのが妥当ではないか、という川口松太郎ら穏健派の委員の意見がわずかの差で上回って、夢声は次点にとどめられた。
 だめだ。当時の選考会の様子が書かれていて興味ぶかいし勉強になるけれども、「幽霊大歓迎」がどこに発表された小説なのかは、ここにも出ていない。

 ワタクシの手の出せる範囲で調べた結果、「幽霊大歓迎」の出典に関して目にとまった情報は、ただ二つ。『文藝年鑑』昭和二十五年度版(昭和25年/1950年6月・新潮社刊)の雑誌収録小説一覧と、『昭和文学年表 第三巻 昭和21年~昭和30年』(平成7年/1995年7月・明治書院刊)だけだった。これらによると、「幽霊大歓迎」は『文藝讀物』昭和24年/1949年9月号に掲載されたらしい。

 しかし、『文藝讀物』のこの号は、まさしく第21回直木賞の決定発表が載っている号そのものであって、仮にも「幽霊大歓迎」が候補作だとするならば、ここに載っているのが初出のはずはない。もちろん9月号だから、第21回の対象期間となった“戦後から昭和24年/1949年上半期”という範囲からも外れている。きっとこれより前に、どこかで一度、発表されているはずなのだ。

 「幽霊大歓迎」、おい、いったいどこにいるんだ。いるならワタクシの前に出てきてくれ。
『親馬鹿十年』がもたらす、さらなる謎
 そんなときに知ったのが、濱田研吾、という名前だった。インターネットで流布している情報をひっくり返して見てみると、なになに、昭和49年/1974年生まれにして徳川夢声の魅力に取りつかれ、夢声に関する充実したミニコミ誌を発行しているお方だという。さらにはその研究成果の一端が『徳川夢声と出会った』なる本にまとめられているというではないか。うおお、これだ。これになら、なにがしか有用な情報が出ているに違いない。勢い込んで入手した。

 濱田研吾著『徳川夢声と出会った』(平成15年/2003年12月・晶文社刊)では、「文学老年」と題した一章を割いて、夢声の作家としての側面に触れられていた。ここまで調べられた濱田氏の熱意と労力に惜しみない敬意を払いつつ、つまみ喰いのようで申し訳ないが、ちょっと引用させてもらう。
 そんな夢声に、直木賞を受賞させる話が持ち上がったこともある。戦前にも一度、候補(昭和十四年上半期)になっているけれど、選考委員会でとくに揉めたのが、第二十一回(昭和二十四年上半期)の選考会だった。候補作は、亡友の霊を心待ちにする自らの心境を綴った「幽霊大歓迎」(『随筆集 親馬鹿十年』創元社)という短篇である。
 『随筆集 親馬鹿十年』? そ、そんな本が出ていたのか。「幽霊大歓迎」を収録した単行本の書名に、生まれてはじめてお目にかかった。感謝感謝です、濱田さん。
 ちなみに、この章の最後には、著者・濱田氏が、『文藝春秋・臨時増刊』編集長の高橋一清氏に話を聞いたときの模様が載っている。そこにも、こんなやりとりがある。
 ――夢声は小説を書き、戦後に復活した第二十一回直木賞で候補になっています。編集者として夢声の作品をどうご覧になりますか?
 高橋 その候補になった作品の題名は、「幽霊大歓迎」というものでした。この題名が示すように、ユーモアとペーソスのある作品が夢声さんの作風です。
 ううむ。候補作の名前が、はっきりと「幽霊大歓迎」だと断言されている。こうなると、どうしても『親馬鹿十年』を見てみないわけにはいかなくなる。
 インターネットの古本屋で探して、これを買ってみた。直木賞研究をはじめて、十余年、ここにはじめて「幽霊大歓迎」と対面する日が来たのだ。どきどきしながらページをめくる。そして「幽霊大歓迎」を読んだ。

 ……しかし、である。『親馬鹿十年』は奥付によると「昭和二十五年十一月十日 初版発行」とあって、この本が第21回の候補になったわけではないようだ。さらに衝撃的なことに、「幽霊大歓迎」の末尾には「昭和二十五年七月一日作」と記してある。――え? 昭和25年/1950年? 7月? だって第21回直木賞の最終選考会は、その1年も前の昭和24年/1949年7月に行われているんだぞ。これはいったいどういうことだ。
 『親馬鹿十年』の「後記」には、「幽霊大歓迎」についてこんな記述があった。
 勿論、随筆集だから、フィクションものは一篇もない。全部、本当にあったことだ。中には、一応、“小説”などと銘うって雑誌に出したものもある。「幽霊大歓迎」「物騒時代白書」「親馬鹿十年」の三篇がそれだ。従って御読みになれば分るだろうが、まさに随筆である。
「幽霊大歓迎」は小説と名のっていたから、発表の時は“春山”と仮名だったが、本書では、“春田”と実名に直してある。これを読んだ某県の霊術者から、
 ――こちらで春山さんの霊を呼んで聞いて見たら、お宅には既に二度伺っているということです。
 と、その月日の時間まで知らせて来たにはいささか驚いた。
 昭和二十五年十一月十九日記
 11月10日刊行の本の後記が、11月19日に記された、というのも変な話だが、それはそれとして、「幽霊大歓迎」はこれより前にどこかの雑誌に載ったことが明らかにされている。となると、やはり『文藝讀物』昭和24年/1949年9月号、が怪しくなってくる。いや、それにしても、昭和25年/1950年7月1日作とはいったいどういうことだろう。謎は余計に深まってしまった。
いったいいつ書かれた作品なのか
 書いた当人が「本当にあったこと」というのだから、そこに書いてあることを信じてみよう。運よくも、「幽霊大歓迎」には年代を特定できそうな記述がいくつか出てくる。

 この小説(いや、随筆か)で語られる“幽霊”とは、語り手「私」の年の離れた友人で、肺結核で亡くなったユーモア探偵作家・春田武(筆名・東震太郎)のこと。春田君が健康を害して寝込んでしまったのが、「昭和二十三年の暮」。「昨年の末あたり」には、「私」の目からも、もうダメだなと察せられた。「過ぐる三月下旬」、「私」は見舞いに行く。「過ぐる五月廿五日」の「翌々日」に、「私」は見舞いに行った席で、春田君と、死んだらきっと家に訪問してくれと約束を交わす。「八日後の六月三日」、春田君逝去。「一日おいて六月五日」告別式。「六月廿五日」故海野十三氏の追悼会の席上、「私」は江戸川乱歩氏に、まだ春田君が現れないことを報告。「この原稿を書いてる今日は、まだ二十九日目である」。

 6月3日を1日目と数えれば、確かに7月1日が29日目だ。総合雑誌『新生活』の編集長だった春田武氏あるいはユーモア探偵作家・東震太郎氏の没年月日が、他の文献で確認できれば、この記載が正確かどうか判明するのだけれど、少し調べたかぎりでは、わからなかった。(※注)

 東震太郎よりは格段に有名な海野十三の没年月日なら、わかる。昭和24年/1949年5月17日だ。そこら辺の事情には皆目うといけれど、没後約1年ぐらいして(つまり昭和25年/1950年に)なお追悼会をやることもあるとは思うが、昭和24年/1949年6月にやっていたとしても全然おかしくない。となると『親馬鹿十年』に書いてある「幽霊大歓迎」の作年月日が丸1年間違えていて、本当は「昭和24年/1949年7月1日」だったんじゃなかろうか、という推測が成り立つわけだ。

 もうここまで来たら、毒を喰らわば何とやら、『文藝讀物』昭和24年/1949年9月号の実物を、どこかで確かめたいと思うのはオタクのサガ。神奈川近代文学館に所蔵されていると突き止めるや、ワタクシは横浜まですっとんでいった。
※注
 平成20年/2008年5月31日、当サイトをご覧いただいた春田武氏のご子息より、メールを頂戴しました。春田氏の没年月日は確かに「昭和24年/1949年6月3日」とのことです。
 ちなみに、徳川夢声の『夢声戦争日記』にも春田氏のことが綴られている、とも教えていただきました。ありがとうございます。たとえば、夢声―春田武の出会いとして、こんな記述がありました。

 九時頃、社団法人映画公社移動映写部計画課長春田武ナル名刺ノ人来ル、元文春西川光君ノ紹介。今度月二回ノ十六頁ノ雑誌ガ出ルニツキ、半年ノ間風俗時評ヲ受持テトイウ依頼。コノ人物中々佳キ人ト見エタレバ、引キ受ケル。文化時評ハ大仏次郎氏ナル由。(昭和52年/1977年11月・中央公論社/中公文庫『夢声戦争日記(七)』昭和20年9月15日の項より)

(平成20年/2008年6月8日記)
“幽霊”いよいよ出現
 『文藝讀物』。戦後復活した直木賞の発表媒体としての役割を、財団法人日本文学振興会から委託され、第21回・第22回とその責を果たした寿命短き小説誌。昭和24年/1949年9月号には、その第21回の受賞者発表と、選考経緯、選評、受賞作「面」が載っている。そして我らが「幽霊大歓迎」も、ここにあった。

 雑誌『文藝讀物』と単行本『親馬鹿十年』、それぞれに収録されている「幽霊大歓迎」を見比べてみて、内容に大きな違いはない。違いといえば、確かに雑誌のほうでは春田武が「春山竹志」、東震太郎が「西古太郎」と仮名になっている。そして小説の結びも、
 もしも、そのころに春田君の幽霊が出現したら、その記録を発表するつもりだ。――『親馬鹿十年』
 もしも、そのころに春山君の幽霊が出現したらこの雑誌の来月号に、その記録を発表するつもりだ。――『文藝讀物』
 と、若干の違いがある。ただし、先にこまごまと書いた日付の部分は『文藝讀物』でもまったく同じだ。この事実は何を意味するか。春田(春山)氏の没年は昭和25年/1950年などではなく、さらに海野十三の追悼会のくだりがあることから、昭和23年/1948年以前であることもなく、昭和24年/1949年だということが確定的になったわけだ。

 では、「7月1日作」の信憑性はどうか。可能性だけを考えれば、それより1か月程度早く書かれていて(海野十三の没月日が5月17日である以上、それよりさかのぼることは、ない)、作品内の日付の記述が全部(あるいは一部)間違っている、と考えられないこともないが、単行本の後記で作者は「フィクションではない」と断っているし、まあ、日付については疑う余地はかなり少ないと思える。

 さてさて、ようやく本題までたどりついた。徳川夢声の第21回候補作、の話である。実は『文藝讀物』昭和24年/1949年9月号のどこを見ても、徳川夢声の候補作が「幽霊大歓迎」とは書かれていないのだ。「直木賞受賞者発表」のところには、こうある。
 尚、最も有力な候補として徳川夢声氏が挙げられたが、残念ながら入賞はしなかった。その他としては藤原審爾「秋津温泉」、中村八朗「桑門の街」、今日出海「山中放浪」、菊岡久利「怖るべき子供たち」、山田克郎「海は紅」等があり、今後注目すべき人として、小山いと子、池田みち子、西川満、三橋一夫等が挙げられた。
 「注目すべき人」はともかくも候補者にはすべて候補作が併記してあるのに、徳川夢声のところだけ、それがない。
 あとに続く各委員の選評を読んでも、たしかに徳川夢声は、受賞者・富田常雄に次ぐ支持を集めている様子がわかるが、その候補作名は誰ひとり指摘していない。
 同誌に収められている「幽霊大歓迎」の掲載ページにも、別段「直木賞候補作」との断りはないし、過去のどこぞの雑誌の掲載作を再録した、といったような表示もない。
 もうひとつ言えば、「幽霊大歓迎」内の記述を信じるとして、これが書かれたのは昭和24年/1949年7月1日。そして直木賞の最終選考会は、なんと翌日の昭和24年/1949年7月2日。手書きの原稿の段階で選考会に諮られたとしなければ、とうてい間に合わないわけだけれど、直木賞の選考が雑誌・新聞等に発表された作品を対象にしている前提上、そんなことはまず考えにくい。

 これは、どうやら、アレだ。状況証拠は、確実に“クロ”だ。もはや何がクロで何がシロなんだか分からない話になってきたが、要は、第21回の徳川夢声の候補作を「幽霊大歓迎」とするのは、どう見ても無理があるのだ。
勘違いだって、立派な歴史
 さあ、こうなったら、そもそも冒頭に挙げた種々の候補作リストの記述がほんとうに正しいのか、と疑ってかかっても、バチは当たるまい。これらのリストをつくった人間が、いったい何を典拠にしたかを想像してみる。やはり『文藝讀物』昭和24年/1949年9月号に目を通したに違いない。先で指摘したように、『文藝讀物』では、第21回の受賞者・受賞作と、候補者・候補作のほとんどが特定できるように書いてあるが、ただひとり徳川夢声だけ、候補作名が抜けている。おや? と頭にハテナマークを掲げたまま、『文藝讀物』のページをめくっていくと、こんな順序で記事が続いていく。
  • 18ページ 上段=直木賞受賞者発表、下段=受賞者の言葉・過去の受賞者一覧
  • 19ページ 上段=芥川賞受賞者発表、下段=前ページ下段のつづき
  • 20~24ページ 直木三十五賞をめぐって(銓衡委員による選評)
  • 25~31ページ 幽霊大歓迎 徳川夢声
 選評のすぐ次のページから、徳川夢声の小説が掲載されている。「そうか、なるほど。これが候補作なのか」と勘違いしたと推察するのは、そんなに不自然じゃないだろう。

 では、実際には第21回の徳川夢声の候補作は何だったのか。選評から推し量るに、ちょっとあいまいな表現で、特定の作品名じゃないので気持ちよくないけれども、「業績全般」としておくのが、最も妥当だとワタクシは考える。ゆえに、当ホームページでは、平成19年/2007年1月8日より、「幽霊大歓迎」との表記をやめ、「業績全般」に訂正させていただいた。

 もちろん、ほんとうにこれが最終的な正解なのかと詰め寄られれば、「あくまで現在まででワタクシが調べ得た結果に過ぎないのであって、今後、これをくつがえす新事実が出てくるかもわかりませんよ」と答えなくてはならない自覚は、ワタクシにはある。まあ、文学研究なんておおむねそんなものだろうし。「「幽霊大歓迎」が、直木賞の候補作じゃないからといって、だから何なんだ。そんな昔のことを掘り返して、どうなる」と逆突っ込みを受けても、困るわけだし。世界中に他に何人いるか知らない直木賞研究者たちの、何かの参考になれば、これ幸い、と思うのみです。
(平成19年/2007年1月10日記)
追記 - 「九字を切る」の登場 平成19年/2007年8月4日記
 と、書いてから半年余り、徳川夢声の第21回候補作として具体的な作品名を挙げている文献を見つけたので、ご報告を。

 その文献とは『日本読書新聞』。当時のもので、『文藝讀物』誌以外で直木賞候補を紹介する媒体は、なかなか見当たらないんだが、『日本読書新聞』は偉い。候補者名、候補作名、そしてその発表誌と号数までもしっかりと書いてあって、まあ信用してもよかろうと思われるので、うちのサイトでもこれを採用させていただく。

 で、徳川夢声の候補作名は、「九字を切る」(『文藝讀物』昭和24年/1949年2月号)その他の作品、だそうだ。

 「今後、これをくつがえす新事実が出てくる」までは、まちで「徳川夢声の第21回直木賞候補作は?」と問われたら即座に「「九字を切る」その他!」と答えましょう。
(平成19年/2007年8月4日記)
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