「ニッパチ説」の根拠って、何なのか
「ニッパチ説」は現在、さまざまなバリエーションがちまたに存在している。とりあえずここで取り上げるのは、以下のようなものだ。
上記の「ニッパチ説」は、作家や出版関係者、あるいは何の関係もない人まで、さまざまな立場の人によって語られているが、ひとつ共通することがある。だれも具体的な典拠を挙げていないことだ。多くの人は「~と言われている」と表現するか、「~と人から聞いた」としている。
じっさい、当「説」について、菊池寛自身や、周辺にいた関係者(佐佐木茂索、永井龍男、創設当時の選考委員など)が書き残した文献は、これまで発見されていない。もしご存じの方があれば、ぜひ教えてほしい。そうすれば、当「説」のたしかさを補強する重大な典拠となるはずだ。
要するに、裏づけとしてあるのは、伝聞情報のみである。しかも、「つくった菊池寛」本人から聞いたわけでもない、二次的、三次的、四次的……もう何次だかわからない、都市伝説か怪しげなウワサ話に近いもの、と言っていい。「わたしは文藝春秋の編集者から聞いた」という主張もよく目にするが、これも多少、信憑性が高まる程度のことで、とうてい決め手にはならない。伝聞は伝聞だ。
人の口から口へと伝わってきたウワサ。そして、ここ何十年間かの『文藝春秋』(芥川賞の発表誌)および『オール讀物』(直木賞の発表誌)の、両賞の発表号が2月売りと8月売りであって、たしかに他の月に比べて売れゆきがいい、という現象が、この「説」を支えている。はっきり言って、「ニッパチ対策のためにつくられた」証拠はない。
直木賞・芥川賞は、菊池寛が、宣伝のために、雑誌の売上の落ちるニッパチ(2月と8月)対策として、つくった
両賞の創設理由として、よく知られているのは「半分は芥川・直木の文名を顕彰しつつ新進作家の擡頭を助けるために、半分は雑誌の宣伝のために」つくった、というもの。これは菊池寛本人による文献が残されていて、数多く紹介されている。そのことはいい。ここで検証するのは「ニッパチ対策」だったのかどうか、である。上記の「ニッパチ説」は、作家や出版関係者、あるいは何の関係もない人まで、さまざまな立場の人によって語られているが、ひとつ共通することがある。だれも具体的な典拠を挙げていないことだ。多くの人は「~と言われている」と表現するか、「~と人から聞いた」としている。
じっさい、当「説」について、菊池寛自身や、周辺にいた関係者(佐佐木茂索、永井龍男、創設当時の選考委員など)が書き残した文献は、これまで発見されていない。もしご存じの方があれば、ぜひ教えてほしい。そうすれば、当「説」のたしかさを補強する重大な典拠となるはずだ。
要するに、裏づけとしてあるのは、伝聞情報のみである。しかも、「つくった菊池寛」本人から聞いたわけでもない、二次的、三次的、四次的……もう何次だかわからない、都市伝説か怪しげなウワサ話に近いもの、と言っていい。「わたしは文藝春秋の編集者から聞いた」という主張もよく目にするが、これも多少、信憑性が高まる程度のことで、とうてい決め手にはならない。伝聞は伝聞だ。
人の口から口へと伝わってきたウワサ。そして、ここ何十年間かの『文藝春秋』(芥川賞の発表誌)および『オール讀物』(直木賞の発表誌)の、両賞の発表号が2月売りと8月売りであって、たしかに他の月に比べて売れゆきがいい、という現象が、この「説」を支えている。はっきり言って、「ニッパチ対策のためにつくられた」証拠はない。
「ニッパチ対策だったはずがない」根拠の、いくつか
じゃあ「ニッパチ対策じゃなかった」証拠はあるのか。というと、こちらは「そうだったはずがない」と言えるぐらいの、いくつかの(状況)証拠が存在する。
ひとつは、当時の月刊雑誌が、各月どれだけ売上げていたか、という統計資料だ。残念ながら『文藝春秋』誌だけのものではないけれど、「政治経済文学雑誌(十二誌)」の売上動向について、大手取次だった東京堂によるデータが『出版年鑑』に載っている。両賞ができる直前、昭和8年/1933年、昭和9年/1934年の2年を見てみると、ざっと、ここに掲げたグラフのようになる。
見たところ、そもそもが、雑誌全般として「2月と8月に売上が落ち込んでいた」などという傾向がない。
ふたつめ。直木賞・芥川賞の創設が発表されたのは『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号だ。じつはそこに、第1回目の発表予定号が記載されている。
ひとつは、当時の月刊雑誌が、各月どれだけ売上げていたか、という統計資料だ。残念ながら『文藝春秋』誌だけのものではないけれど、「政治経済文学雑誌(十二誌)」の売上動向について、大手取次だった東京堂によるデータが『出版年鑑』に載っている。両賞ができる直前、昭和8年/1933年、昭和9年/1934年の2年を見てみると、ざっと、ここに掲げたグラフのようになる。
見たところ、そもそもが、雑誌全般として「2月と8月に売上が落ち込んでいた」などという傾向がない。
審査の結果発表は「文藝春秋」十月号及び「話」「オール讀物」の各十一月号誌上を以てす
『文藝春秋』10月号は9月売り(9月19日ごろ発売)である。これで「ニッパチのためにつくった」と言えるのか!? と疑うのが自然だろう。みっつめ。けっきょく第1回は『文藝春秋』9月号(8月19日ごろ発売)に発表された。ちなみに『オール讀物』は、発表が10月号(9月5日ごろ発売)だったから、こちらの雑誌に関してはニッパチ対策になっていない。そして第2回の発表は、『文藝春秋』4月号(3月19日ごろ発売)だった。2月じゃないのだ。
みっつめの補足。「ニッパチじゃなかった」例は第2回だけにかぎらない。戦後まもなくは、選考する時期も発表号の発売月も、けっこう遅かった(芥川賞発表の『文藝春秋』でいえば、第22回が4月号、第23回が10月号、第24回が4月号、第25回が10月号→21回~40回一覧)。そして「ニッパチ説」に言及したような文献は、(当然といおうか)戦前から昭和30年代、40年代ごろまでは一向に見当たらない。
だれが、どういう意味で言い出したのか
「ニッパチ」がうんぬん、というのは、どこから出てきたんだろう。
というところで、目に止まったのが安岡章太郎の回想だ。安岡は第66回(昭和46年/1971年下期)~第96回(昭和61年/1986年下期)まで芥川賞選考委員を務めて退任。そののち、インタビューでこんなことを言っている(『朝日新聞』昭和62年/1987年8月16日「わたしの言い分 文学賞の変質と今の文学」より)。
池島が『文藝春秋』の編集中枢に関わるようになったのは戦後のこと。そこから徐々に出世していって社長にまでなるわけだが、その過程で、2月と8月には物が売れない、という経験をしたのかもしれない。『文藝春秋』の場合は、たまたまその時期に、ちょうどよく固定的な企画がすでに存在していた。「菊池寛は(結果として)いいものを残しておいてくれた」というのは、そういう経験から生まれた表現ではなかったか。……「ニッパチ対策としてつくられた」ものではなく、あくまで「後世の自分たちが、2月と8月に恩恵を受けている」との意味合いで。
というところで、目に止まったのが安岡章太郎の回想だ。安岡は第66回(昭和46年/1971年下期)~第96回(昭和61年/1986年下期)まで芥川賞選考委員を務めて退任。そののち、インタビューでこんなことを言っている(『朝日新聞』昭和62年/1987年8月16日「わたしの言い分 文学賞の変質と今の文学」より)。
芥川賞の商業性? 池島信平さんがいっていたが、菊池寛は偉い人だと。2月と8月という雑誌の売れない時期のことを考えて賞を残しといてくれたというわけ。だから最初から半分はそういう商売を期待していた賞です。
あるいは、平成6年/1994年に『菊池寛全集第四巻』(高松市菊池寛記念館刊)に寄せた文章では、こうだ。
あれはまだ池島信平氏が文藝春秋本誌の編集長の頃であつたか、「やつぱり菊池さんはエラいな、二月、八月といふ雑誌の一番売れない月に、ちやーんと芥川賞・直木賞といふものを用意しておいてくれたんだから」と、感に堪へた声で言つたものだ。
池島信平から聞いた、という。池島といえば正真正銘、菊池寛から直接の薫陶を受けた編集者だ、ならば池島が菊池から「ニッパチ」のことを聞いたのか! と思いたいところだが、でも、安岡の文章をよく読んでほしい。かなり微妙である。池島は、菊池寛がニッパチ対策でつくったものだ、とは言っていない。「賞を残しといてくれた」とか「用意しておいてくれた」と表現されている。池島が『文藝春秋』の編集中枢に関わるようになったのは戦後のこと。そこから徐々に出世していって社長にまでなるわけだが、その過程で、2月と8月には物が売れない、という経験をしたのかもしれない。『文藝春秋』の場合は、たまたまその時期に、ちょうどよく固定的な企画がすでに存在していた。「菊池寛は(結果として)いいものを残しておいてくれた」というのは、そういう経験から生まれた表現ではなかったか。……「ニッパチ対策としてつくられた」ものではなく、あくまで「後世の自分たちが、2月と8月に恩恵を受けている」との意味合いで。
ワタクシも人に聞いてみた
と、過去の文献を積み重ねる方法をとりつづけていても、伝聞情報のほうを(なぜか)信用する「ニッパチ説」軍団は納得しないかもしれないなあ。そう思って、いちおうワタクシも文藝春秋の人に聞いてみた。
まずは、豊田健次さん。昭和34年/1959年に文藝春秋入社、以来40年間、両賞を支え、また支えられながら編集業務に従事し、賞の運営にも携わった方だ。ごぞんじ『それぞれの芥川賞 直木賞』(文春新書)の著書もある。
「在職中、ニッパチの話ってお聞きになったこと、ありますか?」と尋ねたところ、「聞いたことがあるかもしれない、でも、あくまで冗談のように言い合っていただけの覚えしかないです」とのことだった。「ニッパチ説」が事実として語られていた、というわけではないようだ。仲間内のなかで冗談として言い交わす「ウワサ話」。そういうものは、たしかによくある。
それと、両賞を主催する公益財団法人日本文学振興会にも取材してみた。こちらも大変丁寧な対応で、いろいろと過去の資料なども探してくださったのだが、回答は「ニッパチのためにつくった、ということはありえません」。振興会の方(つまり、文藝春秋で編集者として働いてきた方)は、雑誌の編集というのは目次づくりに苦慮するものですが、戦後、芥川賞が注目されて雑誌の大きな柱になってくれたおかげで、2月売りと8月売りの号は、この賞があって助かった、と感じた編集者がいたかもしれませんね、とも話してくれた。
まずは、豊田健次さん。昭和34年/1959年に文藝春秋入社、以来40年間、両賞を支え、また支えられながら編集業務に従事し、賞の運営にも携わった方だ。ごぞんじ『それぞれの芥川賞 直木賞』(文春新書)の著書もある。
「在職中、ニッパチの話ってお聞きになったこと、ありますか?」と尋ねたところ、「聞いたことがあるかもしれない、でも、あくまで冗談のように言い合っていただけの覚えしかないです」とのことだった。「ニッパチ説」が事実として語られていた、というわけではないようだ。仲間内のなかで冗談として言い交わす「ウワサ話」。そういうものは、たしかによくある。
それと、両賞を主催する公益財団法人日本文学振興会にも取材してみた。こちらも大変丁寧な対応で、いろいろと過去の資料なども探してくださったのだが、回答は「ニッパチのためにつくった、ということはありえません」。振興会の方(つまり、文藝春秋で編集者として働いてきた方)は、雑誌の編集というのは目次づくりに苦慮するものですが、戦後、芥川賞が注目されて雑誌の大きな柱になってくれたおかげで、2月売りと8月売りの号は、この賞があって助かった、と感じた編集者がいたかもしれませんね、とも話してくれた。
根拠のないデマを言い続けるのって、やっぱ恥ずかしい
『日本文学』掲載の小論には、そのほかにも「ニッパチ説」に関わるあれこれを書いたので、もうちょっと知りたい方は何とか入手して読んでいただければうれしいかぎり。いずれにせよ、「両賞の創設理由=ニッパチ」というのは、とうてい「説」とも呼べない「流言蜚語、デマ」の類いですね、というハナシである。
個人的には、「ニッパチのためにつくられた」というほうが、よくできた話で面白いと思う。できれば、根拠となりそうな事実や文献をだれかに教えてほしいのだ。
しかし、根拠がないのに、知ったかぶりをしたくてデマを言い続けるのは、恥ずかしいことだと思っている。そういう恥ずかしい人を見るのも、また恥ずかしい。なので、他人の受け売りじゃない「直木賞・芥川賞とニッパチ」に関する研究(のようなもの)が、もっと多くの人に広がってくれないかあ、と願っているわけです。
個人的には、「ニッパチのためにつくられた」というほうが、よくできた話で面白いと思う。できれば、根拠となりそうな事実や文献をだれかに教えてほしいのだ。
しかし、根拠がないのに、知ったかぶりをしたくてデマを言い続けるのは、恥ずかしいことだと思っている。そういう恥ずかしい人を見るのも、また恥ずかしい。なので、他人の受け売りじゃない「直木賞・芥川賞とニッパチ」に関する研究(のようなもの)が、もっと多くの人に広がってくれないかあ、と願っているわけです。
(平成27年/2015年8月12日記)