第168回

第167回第169回

令和4年/2022年下半期 令和5年/2023年1月19日決定発表／『文藝春秋』令和5年/2023年3月号選評掲載

選考委員　 小川洋子 60歳 平野啓一郎 47歳 島田雅彦 61歳 山田詠美 63歳 川上弘美 64歳 吉田修一 54歳 奥泉光 66歳 松浦寿輝 68歳 堀江敏幸 59歳 選評総行数　 85 88 88 88 93 111 88 96 86 評 評 評 評 評 評 評 評 評 候補作 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 井戸川射子　「この世の喜びよ」 114枚 35歳 評 ○ 40 △ 23 ○ 13 ○ 17 ◎ 58 △ 26 ◎ 18 △ 17 ○ 21 佐藤厚志　「荒地の家族」 212枚 40歳 評 ○ 34 □ 10 △ 14 ◎ 14 △ 9 ◎ 41 □ 16 △ 22 ○ 19 安堂ホセ　「ジャクソンひとり」 180枚 28歳 評 ■ 7 ◎ 28 ◎ 30 ■ 19 △ 7 ■ 27 ■ 13 △ 15 △ 14 グレゴリー・ケズナジャット　「開墾地」 102枚 38歳 評 △ 7 ■ 13 ■ 14 ■ 13 △ 7 ■ 7 ■ 15 ■ 18 △ 16 鈴木涼美　「グレイスレス」 143枚 39歳 評 ■ 5 ● 14 △ 17 ■ 25 △ 10 ■ 10 ■ 14 ■ 18 △ 16                   年齢/枚数の説明   見方・注意点

小川洋子60歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題肉体と言葉　総行数85　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 ○ 40 「（引用者注：「荒地の家族」と共に）丸をつけた。」「特異なのは、何も書かないままに、何かを書くという矛盾が、難なく成り立っている点にある。」「ごく当たり前に、“あなた”の過去と現在は一つに溶け合う。」「状況設定の特別さに頼らず、平凡を描写する言葉そのものの力で小説を成り立たせる。タイトルとは裏腹に、これは凄まじいことをやり遂げた作品ではないだろうか。」 佐藤厚志 40歳 全 ○ 34 「（引用者注：「この世の喜びよ」と共に）丸をつけた。」「主人公は家を出て行った元妻に執着し続け、友人の明夫は密漁に手を染め、自殺する。危うい境界線から、狂気の側に落ちてしまわないよう、どうにか日常にしがみついている人々の姿が、荒地の中に浮かび上がってくる。」「この小説は、東日本大震災を文学として記すためにはどうしたらいいか、一つの道筋を明示している。」 安堂ホセ 28歳 全 ■ 7 「社会的に重要なテーマと、リズミカルな展開の調和に、かつて味わったことのない奇妙な興奮を覚えた。その興奮が、ラストシーンで萎んでしまったのは残念でならない。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 △ 7 「母語と離れざるを得なかった人間の苦悩が、この（引用者注：作品に登場する）お父さんに凝縮されている。」 鈴木涼美 39歳 全 ■ 5 「もっと執念深く、化粧師の仕事を描写してほしかった。」

他の選考委員 平野啓一郎 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 吉田修一 奥泉光 松浦寿輝 堀江敏幸

平野啓一郎47歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題実力伯仲の難しい選考　総行数88　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 △ 23 「V・ウルフ風の「意識の流れ」を二人称で描くという難しい挑戦が成功している。」「「あなた」という穂賀への語りかけは、ヤング・ケアラーの少女への「あなた」へと転ずる最後の場面で、彼女の子育てを否定する、唯一の真の他者へと開かれる筈だったが、その対立性は曖昧に呑み込まれ、結局、全篇を貫く自己承認回路へと吸収されてしまう。」 佐藤厚志 40歳 全 □ 10 「候補作中、最も深い感銘を受けた。復興から零れ落ちた人々の生死を誠実なリアリズムで描く反面、スタイル的な新鮮さには乏しく、受賞に賛同したが、本作を第一には推さなかった。」 安堂ホセ 28歳 全 ◎ 28 「脱帽した」「ポルノという、社会正義とは相性が悪そうな題材を扱いながら、「ポリティカル・コレクトネス」が、現にマイノリティとして生きる人々にとっていかに痛切に必要かを、社会との距離感がそのまま反映されたような、微かに遅いテンポ感の文体で語ってゆく。」「疵はあるものの、本作が切り拓いた日本語文学の新しい可能性をこそ、私は評価したい。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 ■ 13 「「葛／kudzu」という魅力的な象徴と、主題との嚙み合わせが微妙に甘く、全体の印象を薄めてしまった。」 鈴木涼美 39歳 全 ● 14 「労働者としてのセックス・ワーカーを豊富なディテールで描きつつ、物語の重心は家族問題にあるが、両者の対比の効果が十分に上がらなかった。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 吉田修一 奥泉光 松浦寿輝 堀江敏幸

島田雅彦61歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題正攻法か、ゲリラ戦か　総行数88　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 ○ 13 「何処か心地よい室内での日常的営みを大胆な筆致で描いたフェルメールを思い出させるが、技法は正攻法なので、完成度の高いエチュードという印象。」 佐藤厚志 40歳 全 △ 14 「人は己が無力を感じながらも、絶望的状況にひたすら耐え、誠実を尽くそうとするその態度によって救われることもある。それを態度価値というのだが、本作のテーマはこれに尽きる。ただ、美談はしばしば、現実のネガティブな部分を隠してしまう。」 安堂ホセ 28歳 全 ◎ 30 「「ブラックミックス」に対するステレオタイプと偏見に対し、ゲリラ戦を仕掛けたような作品である。」「奇想天外なドタバタ劇の中で、増殖するジャクソンたちの意識の流れがリズムよく絡み、ドライブ感を高めてゆく。」「荒削りで、破格だが、新たなウェーブをもたらしそうな気配が濃厚なので先物買いしたが、受賞には至らず残念。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 ■ 14 「二つの言語と文化の狭間に生きる者の心象をメタフォリカルに描くのだが、父のケースと重ね合わせつつ、それを自己確認したに過ぎない。」 鈴木涼美 39歳 全 △ 17 「ヒロインは、ＡＶ業界で化粧師として働く猥雑な世界と郊外の瀟洒な邸宅で、母方の祖母と営む優雅で文化的な日常という、二つの異世界のあいだを淡々と往復している。」「（引用者注：二つの世界が）もっと相互干渉し合い、ブニュエルの『昼顔』や『小間使の日記』のような展開があってもよかったかも。」

他の選考委員 小川洋子 平野啓一郎 山田詠美 川上弘美 吉田修一 奥泉光 松浦寿輝 堀江敏幸

山田詠美63歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題「選評」　総行数88　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 ○ 17 「私は、この作品に、そこはかとない恐ろしさを感じたのだった。喪中の女の喪がようやく明けて、そこに福音が待ち受ける。けれど、それを一方的に伝えられるフードコートの少女は、どんな気持なんだろう。平易でありながら選び抜かれた言葉が、いっきに不穏さを増す瞬間。狭い世界。逃げ場はもうない。ねえ、これ「喜びホラー」とでも言うべき作品なんじゃない？」 佐藤厚志 40歳 全 ◎ 14 「震災を便利づかいしていない誠実さを感じた。そして、同時に、小説のセオリーを知り尽くした書き手だと思った。」「悲痛な日常を書いてなお、小説としておもしろいのである。頭、まっ白になった「逆」浦島太郎に幸あれ、と心から思った。」 安堂ホセ 28歳 全 ■ 19 「文章と構成が恐ろしいほど荒けずり。「荒けずり」は、若いほんの一時期だけに与えられる誉め言葉。これからは、細心の注意を払って、吟味された野蛮さを獲得して行って欲しい。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 ■ 13 「大長編の導入部で終わっている気がした。この作品の向こう側に一歩踏み出せば、言語と言語の間にある言葉にならないものの深みある世界が広がっている筈だ。」 鈴木涼美 39歳 全 ■ 25 「ブルジョア的な祖母と母の描写とＡＶ業界の人々のありようとが上手くつながっていないし、そのせいか、主人公を始めとした登場人物の女たちが、くすんでしまって背景から浮き上がって来ない。どんなに長いセンテンスで主人公の「化粧師」が語っても、ドラマ「全裸監督」の伊藤沙莉演じるヘアメイクの女の魅力全開の五分間には及ばない。」

他の選考委員 小川洋子 平野啓一郎 島田雅彦 川上弘美 吉田修一 奥泉光 松浦寿輝 堀江敏幸

川上弘美64歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題意味ではなく　総行数93　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 ◎ 58 「あらすじを説明しても、すぐには「すばらしい作品」とは予想できないような気がします。」「ところが、いったん読み始めるや、わたしはこの小説の只事の中に引きこまれ、快楽をおぼえ、いつまでも読み終えたくなくなってしまったのです。」「作品の持つメッセージ性や物語性などよりも、言葉が組み合わされることによって生まれる何か。（引用者中略）意味ではなく感情や感覚。それらを味わわせてくれるのが、井戸川射子の小説なのだと思います。第一に、強く推しました。」 佐藤厚志 40歳 全 △ 9 「正視するとつらいさまざまな事々を、つらさの強調にも安易な解決にも向かわせず、公正に描ききるという、胆力の必要な作業を経た作品だと思いました。」 安堂ホセ 28歳 全 △ 7 「リズムが素晴らしいです。幾重にもしたたかな、設定もよかった。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 △ 7 「小説を書くための描写ではなく、この作者自身にとって切実だろう描写が、いくつもありました。」 鈴木涼美 39歳 全 △ 10 「魅力的な小説を恒常的に書くことのできる力量をもつ作家だと思います。「私」の心情を語る言葉が、時にからまってしまったことが少し残念でした。」   「みんないい小説を書くなあ。今回残念ながら受賞しなかった三人も、どうぞ書き続けてくださいね。」

他の選考委員 小川洋子 平野啓一郎 島田雅彦 山田詠美 吉田修一 奥泉光 松浦寿輝 堀江敏幸

吉田修一54歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題選評　総行数111　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 △ 26 「ショッピングセンターなどどこも似たようなものだと言われる。とすれば、全国に何千とあるその場所にも、きっと彼女や彼らがいる。と気づいた瞬間、日本のどこか特定の場所だと思っていた世界が細胞分裂するように数を増し、何千の主人公たちが立ち現れてくる。このマルチバースを平和な風景と見るべきか、そこに虚無を感じ取るべきか。」 佐藤厚志 40歳 全 ◎ 41 「読後、胸に熱いものが込み上げてきた。フィクション／嘘が必死にもがいて掴みとった本当がここにはあった。」「誰も悪くない。主人公は思う。あの天災も、その後の苦労続きの人生も、誰が悪いわけじゃないと。ただ、口にするのは簡単なこの言葉を真の意味で受け入れることの苦しさ、悔しさ、寂しさが、本作からは真っ直ぐに伝わってくる。」 安堂ホセ 28歳 全 ■ 27 「×はつけたが、実は今回一番好きな作品だった。」「守られるべきマイノリティーに対する世間の鬱積に、作者が挑戦状を突きつけるようにも読めた。」「ラストのドタバタ劇での失速にはその世間への遠慮を感じてしまった。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 ■ 7 「良くも悪くも模範的な小説」「葛に侵食される田舎町のイメージ等々、壮大な叙事詩になる萌芽がある。」 鈴木涼美 39歳 全 ■ 10 「ベテラン照明技師のような達者な書き手で、何と何を並べれば主題のコントラストが浮かび上がるかをよく知っている。ただ、その達者さが今回は裏目に出たか？」

他の選考委員 小川洋子 平野啓一郎 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 奥泉光 松浦寿輝 堀江敏幸

奥泉光66歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題whatとhow　総行数88　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 ◎ 18 「how（引用者注：どう書かれているのか）への意識と工夫の点で傑出していた。」「技法の洗練はともすれば世界を狭くしてしまう弊があると、自戒を込めつつ助言もしたいところだけれど、まずは受賞作たるに十分な技術の練磨があると考えた。」 佐藤厚志 40歳 全 □ 16 「リアリズムの技法を徹底することで成功した。」「リアリズムの技法は、物語というものが必然的に身に纏う陳腐さを際立たせてしまう危険があって、本作もその難を免れていない憾みはあるとは思ったけれど、受賞には賛成した。」 安堂ホセ 28歳 全 ■ 13 「もっと切れ味の良い、軽妙な、ないし重厚な――と、どんな方向でもよいのだけれど、魅力ある文章で綴られたならと思わされた。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 ■ 15 「ひとつの言語への習熟が必然的にあるイデオロギーの支配下に置かれることになるとの機構が示されるが、それをwhat（引用者注：何が書かれているのか）だけでなく、むしろhow（引用者注：どう書かれているのか）において、つまり日本語で書きながら日本語の外が絶えず示唆されるような書き方がなされたならば、傑作が出現することになっただろう。」 鈴木涼美 39歳 全 ■ 14 「主人公の鎌倉での祖母との落ち着いた暮らしぶりと、ＡＶ業界での化粧師としての生業という、ふたつの局面がうまく噛み合わぬ印象を持った。」   「何が書かれているのか（what）。どう書かれているのか（how）。（引用者中略）もちろん両者は不可分であるが、whatの方はルポルタージュなどにもあるわけで、つまりhowこそが小説を小説たらしめるといいうるだろう。」

他の選考委員 小川洋子 平野啓一郎 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 吉田修一 松浦寿輝 堀江敏幸

松浦寿輝68歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題突出した作品はなかった　総行数96　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 △ 17 「常同的な人物、常同的な場所、常同的な日々。それにこれほどの言葉を費やしてみせるミニマリズムの趣向をどう評価するか。最後の段落で甦ってくる風と光と水音の記憶にはうたれないでもないが、そこに「この世の喜び」というほど大仰なものが漲っているのかどうか。」 佐藤厚志 40歳 全 △ 22 「過去の挿話の断片が間歇的かつ反復的に甦ってくる書きぶりが非常に巧みで説得力がある。とはいえ、本作をめぐって「真っ直ぐ」「真面目」「真剣」「真正面から」「ど真ん中の直球勝負」などという言葉が飛び交ったものだが、そのどの評言にも含まれる「真」の一字に対する違和感を、わたしは払拭し去ることができなかった。」 安堂ホセ 28歳 全 △ 15 「差別のテーマを思いがけない笑劇として描いていて痛快きわまりない。」「しかし、ステレオタイプ化の心性への批判を主題化するというのなら、それを物語る文章のほうはステレオタイプから思いきり懸け離れた文体が模索されるべきではなかったか。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 ■ 18 「三つの言語のはざまに生きる主人公が、その環境の複雑さや屈曲ぶりをあたかも最初から恬淡と受け入れているかのごとく、自分自身から距離を取りつつ理知的に語ってゆく安定感が、むしろわたしには物足りなかった。」 鈴木涼美 39歳 全 ■ 18 「演者の女性の顔から精液を拭い取るような「グレイスレス」な現場と、「文化資本」の厚みを感じさせるハイブルジョワジーの優雅な私生活との、極端な対照に、この一篇の興趣があるはずだが、両者のあいだを淡々と行き来する「私」の人物像は終始稀薄でとりとめがない。」   「今回、どれもそれなりに面白く読ませる候補作五篇が並んだものの、文学の未来を拓く野心作としてわたしが積極的に推したい突出した作品は、残念ながらなかった。」

他の選考委員 小川洋子 平野啓一郎 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 吉田修一 奥泉光 堀江敏幸

堀江敏幸59歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題恩寵はどこにあるのか　総行数86　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 井戸川射子 35歳 全 ○ 21 「大学生と社会人の娘を持つ主人公が、十五歳の少女との交流を通じて脈絡なくたどり直す記憶は、いつのまにか「あなた」だけのものでなくなっている。「あなた」が「あなた」に話すために思い出したという最後の情景は、いずれマスクを外して次の時代に向かう少女だけでなく、現在を生きるしかないすべての「あなた」に向けた、ささやかな光の希望になりえていると私は読んだ。」 佐藤厚志 40歳 全 ○ 19 「一人息子を遺して逝った妻、流産ののち家を飛び出した二度目の妻、因縁のある同級生や周囲の人々の交わりを経て、彼（引用者注：主人公）はようやく忌まわしい竜宮城から持ち帰った筐を開ける。出てきたのは煙ではなく、知らぬ間に大きくなった息子の笑いである。笑いに宿った喜びを、読者も分かち合う。」 安堂ホセ 28歳 全 △ 14 「共闘に至ったジャクソンは、やがて「四人でいるときの雰囲気に飢えているサイン」を感じる。不毛の地を耕す合図を受け取ったあとの、最後の鋤の入れ方がやや畝から逸れたとはいえ、得がたい勢いがある。」 グレゴリー・ケズナジャット 38歳 全 △ 16 「英語と日本語の間に「辛うじてできていた隙間」に一方の言語を用いて残り続けるためには、知的な省察や丁寧な描写を超える、しぶとい葛の蔓を焼き払うような言葉が必要かもしれない。」 鈴木涼美 39歳 全 △ 16 「名前に聖の文字を含む女優が癌で引退を決め、死化粧に等しいメイクを語り手は引き受ける」「約束が恩寵に至らず、当座の贖罪のようにも見えてしまうのは、皮膚の下にまで及ぶ化粧師の眼差しの力が少しずつ減じていくからだろうか。」

他の選考委員 小川洋子 平野啓一郎 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 吉田修一 奥泉光 松浦寿輝

井戸川射子35歳×各選考委員　 「この世の喜びよ」 短篇 114枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 60歳 全 ○ 40 「（引用者注：「荒地の家族」と共に）丸をつけた。」「特異なのは、何も書かないままに、何かを書くという矛盾が、難なく成り立っている点にある。」「ごく当たり前に、“あなた”の過去と現在は一つに溶け合う。」「状況設定の特別さに頼らず、平凡を描写する言葉そのものの力で小説を成り立たせる。タイトルとは裏腹に、これは凄まじいことをやり遂げた作品ではないだろうか。」 平野啓一郎 47歳 全 △ 23 「V・ウルフ風の「意識の流れ」を二人称で描くという難しい挑戦が成功している。」「「あなた」という穂賀への語りかけは、ヤング・ケアラーの少女への「あなた」へと転ずる最後の場面で、彼女の子育てを否定する、唯一の真の他者へと開かれる筈だったが、その対立性は曖昧に呑み込まれ、結局、全篇を貫く自己承認回路へと吸収されてしまう。」 島田雅彦 61歳 全 ○ 13 「何処か心地よい室内での日常的営みを大胆な筆致で描いたフェルメールを思い出させるが、技法は正攻法なので、完成度の高いエチュードという印象。」 山田詠美 63歳 全 ○ 17 「私は、この作品に、そこはかとない恐ろしさを感じたのだった。喪中の女の喪がようやく明けて、そこに福音が待ち受ける。けれど、それを一方的に伝えられるフードコートの少女は、どんな気持なんだろう。平易でありながら選び抜かれた言葉が、いっきに不穏さを増す瞬間。狭い世界。逃げ場はもうない。ねえ、これ「喜びホラー」とでも言うべき作品なんじゃない？」 川上弘美 64歳 全 ◎ 58 「あらすじを説明しても、すぐには「すばらしい作品」とは予想できないような気がします。」「ところが、いったん読み始めるや、わたしはこの小説の只事の中に引きこまれ、快楽をおぼえ、いつまでも読み終えたくなくなってしまったのです。」「作品の持つメッセージ性や物語性などよりも、言葉が組み合わされることによって生まれる何か。（引用者中略）意味ではなく感情や感覚。それらを味わわせてくれるのが、井戸川射子の小説なのだと思います。第一に、強く推しました。」 吉田修一 54歳 全 △ 26 「ショッピングセンターなどどこも似たようなものだと言われる。とすれば、全国に何千とあるその場所にも、きっと彼女や彼らがいる。と気づいた瞬間、日本のどこか特定の場所だと思っていた世界が細胞分裂するように数を増し、何千の主人公たちが立ち現れてくる。このマルチバースを平和な風景と見るべきか、そこに虚無を感じ取るべきか。」 奥泉光 66歳 全 ◎ 18 「how（引用者注：どう書かれているのか）への意識と工夫の点で傑出していた。」「技法の洗練はともすれば世界を狭くしてしまう弊があると、自戒を込めつつ助言もしたいところだけれど、まずは受賞作たるに十分な技術の練磨があると考えた。」 松浦寿輝 68歳 全 △ 17 「常同的な人物、常同的な場所、常同的な日々。それにこれほどの言葉を費やしてみせるミニマリズムの趣向をどう評価するか。最後の段落で甦ってくる風と光と水音の記憶にはうたれないでもないが、そこに「この世の喜び」というほど大仰なものが漲っているのかどうか。」 堀江敏幸 59歳 全 ○ 21 「大学生と社会人の娘を持つ主人公が、十五歳の少女との交流を通じて脈絡なくたどり直す記憶は、いつのまにか「あなた」だけのものでなくなっている。「あなた」が「あなた」に話すために思い出したという最後の情景は、いずれマスクを外して次の時代に向かう少女だけでなく、現在を生きるしかないすべての「あなた」に向けた、ささやかな光の希望になりえていると私は読んだ。」

他の候補作 佐藤厚志 「荒地の家族」 安堂ホセ 「ジャクソンひとり」 グレゴリー・ケズナジャット 「開墾地」 鈴木涼美 「グレイスレス」

佐藤厚志40歳×各選考委員　 「荒地の家族」 中篇 212枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 60歳 全 ○ 34 「（引用者注：「この世の喜びよ」と共に）丸をつけた。」「主人公は家を出て行った元妻に執着し続け、友人の明夫は密漁に手を染め、自殺する。危うい境界線から、狂気の側に落ちてしまわないよう、どうにか日常にしがみついている人々の姿が、荒地の中に浮かび上がってくる。」「この小説は、東日本大震災を文学として記すためにはどうしたらいいか、一つの道筋を明示している。」 平野啓一郎 47歳 全 □ 10 「候補作中、最も深い感銘を受けた。復興から零れ落ちた人々の生死を誠実なリアリズムで描く反面、スタイル的な新鮮さには乏しく、受賞に賛同したが、本作を第一には推さなかった。」 島田雅彦 61歳 全 △ 14 「人は己が無力を感じながらも、絶望的状況にひたすら耐え、誠実を尽くそうとするその態度によって救われることもある。それを態度価値というのだが、本作のテーマはこれに尽きる。ただ、美談はしばしば、現実のネガティブな部分を隠してしまう。」 山田詠美 63歳 全 ◎ 14 「震災を便利づかいしていない誠実さを感じた。そして、同時に、小説のセオリーを知り尽くした書き手だと思った。」「悲痛な日常を書いてなお、小説としておもしろいのである。頭、まっ白になった「逆」浦島太郎に幸あれ、と心から思った。」 川上弘美 64歳 全 △ 9 「正視するとつらいさまざまな事々を、つらさの強調にも安易な解決にも向かわせず、公正に描ききるという、胆力の必要な作業を経た作品だと思いました。」 吉田修一 54歳 全 ◎ 41 「読後、胸に熱いものが込み上げてきた。フィクション／嘘が必死にもがいて掴みとった本当がここにはあった。」「誰も悪くない。主人公は思う。あの天災も、その後の苦労続きの人生も、誰が悪いわけじゃないと。ただ、口にするのは簡単なこの言葉を真の意味で受け入れることの苦しさ、悔しさ、寂しさが、本作からは真っ直ぐに伝わってくる。」 奥泉光 66歳 全 □ 16 「リアリズムの技法を徹底することで成功した。」「リアリズムの技法は、物語というものが必然的に身に纏う陳腐さを際立たせてしまう危険があって、本作もその難を免れていない憾みはあるとは思ったけれど、受賞には賛成した。」 松浦寿輝 68歳 全 △ 22 「過去の挿話の断片が間歇的かつ反復的に甦ってくる書きぶりが非常に巧みで説得力がある。とはいえ、本作をめぐって「真っ直ぐ」「真面目」「真剣」「真正面から」「ど真ん中の直球勝負」などという言葉が飛び交ったものだが、そのどの評言にも含まれる「真」の一字に対する違和感を、わたしは払拭し去ることができなかった。」 堀江敏幸 59歳 全 ○ 19 「一人息子を遺して逝った妻、流産ののち家を飛び出した二度目の妻、因縁のある同級生や周囲の人々の交わりを経て、彼（引用者注：主人公）はようやく忌まわしい竜宮城から持ち帰った筐を開ける。出てきたのは煙ではなく、知らぬ間に大きくなった息子の笑いである。笑いに宿った喜びを、読者も分かち合う。」

他の候補作 井戸川射子 「この世の喜びよ」 安堂ホセ 「ジャクソンひとり」 グレゴリー・ケズナジャット 「開墾地」 鈴木涼美 「グレイスレス」

安堂ホセ28歳×各選考委員　 「ジャクソンひとり」 中篇 180枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 60歳 全 ■ 7 「社会的に重要なテーマと、リズミカルな展開の調和に、かつて味わったことのない奇妙な興奮を覚えた。その興奮が、ラストシーンで萎んでしまったのは残念でならない。」 平野啓一郎 47歳 全 ◎ 28 「脱帽した」「ポルノという、社会正義とは相性が悪そうな題材を扱いながら、「ポリティカル・コレクトネス」が、現にマイノリティとして生きる人々にとっていかに痛切に必要かを、社会との距離感がそのまま反映されたような、微かに遅いテンポ感の文体で語ってゆく。」「疵はあるものの、本作が切り拓いた日本語文学の新しい可能性をこそ、私は評価したい。」 島田雅彦 61歳 全 ◎ 30 「「ブラックミックス」に対するステレオタイプと偏見に対し、ゲリラ戦を仕掛けたような作品である。」「奇想天外なドタバタ劇の中で、増殖するジャクソンたちの意識の流れがリズムよく絡み、ドライブ感を高めてゆく。」「荒削りで、破格だが、新たなウェーブをもたらしそうな気配が濃厚なので先物買いしたが、受賞には至らず残念。」 山田詠美 63歳 全 ■ 19 「文章と構成が恐ろしいほど荒けずり。「荒けずり」は、若いほんの一時期だけに与えられる誉め言葉。これからは、細心の注意を払って、吟味された野蛮さを獲得して行って欲しい。」 川上弘美 64歳 全 △ 7 「リズムが素晴らしいです。幾重にもしたたかな、設定もよかった。」 吉田修一 54歳 全 ■ 27 「×はつけたが、実は今回一番好きな作品だった。」「守られるべきマイノリティーに対する世間の鬱積に、作者が挑戦状を突きつけるようにも読めた。」「ラストのドタバタ劇での失速にはその世間への遠慮を感じてしまった。」 奥泉光 66歳 全 ■ 13 「もっと切れ味の良い、軽妙な、ないし重厚な――と、どんな方向でもよいのだけれど、魅力ある文章で綴られたならと思わされた。」 松浦寿輝 68歳 全 △ 15 「差別のテーマを思いがけない笑劇として描いていて痛快きわまりない。」「しかし、ステレオタイプ化の心性への批判を主題化するというのなら、それを物語る文章のほうはステレオタイプから思いきり懸け離れた文体が模索されるべきではなかったか。」 堀江敏幸 59歳 全 △ 14 「共闘に至ったジャクソンは、やがて「四人でいるときの雰囲気に飢えているサイン」を感じる。不毛の地を耕す合図を受け取ったあとの、最後の鋤の入れ方がやや畝から逸れたとはいえ、得がたい勢いがある。」

他の候補作 井戸川射子 「この世の喜びよ」 佐藤厚志 「荒地の家族」 グレゴリー・ケズナジャット 「開墾地」 鈴木涼美 「グレイスレス」

グレゴリー・ケズナジャット38歳×各選考委員　 「開墾地」 短篇 102枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 60歳 全 △ 7 「母語と離れざるを得なかった人間の苦悩が、この（引用者注：作品に登場する）お父さんに凝縮されている。」 平野啓一郎 47歳 全 ■ 13 「「葛／kudzu」という魅力的な象徴と、主題との嚙み合わせが微妙に甘く、全体の印象を薄めてしまった。」 島田雅彦 61歳 全 ■ 14 「二つの言語と文化の狭間に生きる者の心象をメタフォリカルに描くのだが、父のケースと重ね合わせつつ、それを自己確認したに過ぎない。」 山田詠美 63歳 全 ■ 13 「大長編の導入部で終わっている気がした。この作品の向こう側に一歩踏み出せば、言語と言語の間にある言葉にならないものの深みある世界が広がっている筈だ。」 川上弘美 64歳 全 △ 7 「小説を書くための描写ではなく、この作者自身にとって切実だろう描写が、いくつもありました。」 吉田修一 54歳 全 ■ 7 「良くも悪くも模範的な小説」「葛に侵食される田舎町のイメージ等々、壮大な叙事詩になる萌芽がある。」 奥泉光 66歳 全 ■ 15 「ひとつの言語への習熟が必然的にあるイデオロギーの支配下に置かれることになるとの機構が示されるが、それをwhat（引用者注：何が書かれているのか）だけでなく、むしろhow（引用者注：どう書かれているのか）において、つまり日本語で書きながら日本語の外が絶えず示唆されるような書き方がなされたならば、傑作が出現することになっただろう。」 松浦寿輝 68歳 全 ■ 18 「三つの言語のはざまに生きる主人公が、その環境の複雑さや屈曲ぶりをあたかも最初から恬淡と受け入れているかのごとく、自分自身から距離を取りつつ理知的に語ってゆく安定感が、むしろわたしには物足りなかった。」 堀江敏幸 59歳 全 △ 16 「英語と日本語の間に「辛うじてできていた隙間」に一方の言語を用いて残り続けるためには、知的な省察や丁寧な描写を超える、しぶとい葛の蔓を焼き払うような言葉が必要かもしれない。」

他の候補作 井戸川射子 「この世の喜びよ」 佐藤厚志 「荒地の家族」 安堂ホセ 「ジャクソンひとり」 鈴木涼美 「グレイスレス」

鈴木涼美39歳×各選考委員　 「グレイスレス」 短篇 143枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 60歳 全 ■ 5 「もっと執念深く、化粧師の仕事を描写してほしかった。」 平野啓一郎 47歳 全 ● 14 「労働者としてのセックス・ワーカーを豊富なディテールで描きつつ、物語の重心は家族問題にあるが、両者の対比の効果が十分に上がらなかった。」 島田雅彦 61歳 全 △ 17 「ヒロインは、ＡＶ業界で化粧師として働く猥雑な世界と郊外の瀟洒な邸宅で、母方の祖母と営む優雅で文化的な日常という、二つの異世界のあいだを淡々と往復している。」「（引用者注：二つの世界が）もっと相互干渉し合い、ブニュエルの『昼顔』や『小間使の日記』のような展開があってもよかったかも。」 山田詠美 63歳 全 ■ 25 「ブルジョア的な祖母と母の描写とＡＶ業界の人々のありようとが上手くつながっていないし、そのせいか、主人公を始めとした登場人物の女たちが、くすんでしまって背景から浮き上がって来ない。どんなに長いセンテンスで主人公の「化粧師」が語っても、ドラマ「全裸監督」の伊藤沙莉演じるヘアメイクの女の魅力全開の五分間には及ばない。」 川上弘美 64歳 全 △ 10 「魅力的な小説を恒常的に書くことのできる力量をもつ作家だと思います。「私」の心情を語る言葉が、時にからまってしまったことが少し残念でした。」 吉田修一 54歳 全 ■ 10 「ベテラン照明技師のような達者な書き手で、何と何を並べれば主題のコントラストが浮かび上がるかをよく知っている。ただ、その達者さが今回は裏目に出たか？」 奥泉光 66歳 全 ■ 14 「主人公の鎌倉での祖母との落ち着いた暮らしぶりと、ＡＶ業界での化粧師としての生業という、ふたつの局面がうまく噛み合わぬ印象を持った。」 松浦寿輝 68歳 全 ■ 18 「演者の女性の顔から精液を拭い取るような「グレイスレス」な現場と、「文化資本」の厚みを感じさせるハイブルジョワジーの優雅な私生活との、極端な対照に、この一篇の興趣があるはずだが、両者のあいだを淡々と行き来する「私」の人物像は終始稀薄でとりとめがない。」 堀江敏幸 59歳 全 △ 16 「名前に聖の文字を含む女優が癌で引退を決め、死化粧に等しいメイクを語り手は引き受ける」「約束が恩寵に至らず、当座の贖罪のようにも見えてしまうのは、皮膚の下にまで及ぶ化粧師の眼差しの力が少しずつ減じていくからだろうか。」

他の候補作 井戸川射子 「この世の喜びよ」 佐藤厚志 「荒地の家族」 安堂ホセ 「ジャクソンひとり」 グレゴリー・ケズナジャット 「開墾地」