このページの情報は「直木賞のすべて」内の「選考委員の群像 久米正雄」と同じものです。 | ||
生没年月日【注】 | 明治24年/1891年11月23日~昭和27年/1952年3月1日 | |
在任期間 | 第1回~第16回(通算8年・16回) | |
在任年齢 | 43歳7ヶ月~51歳1ヶ月 | |
経歴 | 長野県生まれ。東京帝大英文科卒。 第三次『新思潮』に参加、大正4年/1915年に漱石の門下生になる。 次第に新聞、婦人雑誌に多くの通俗的な作品を連載、流行作家となる。 戦後、川端康成たちと鎌倉文庫をはじめ、社長就任。 代表作に小説では「受験生の手記」「螢草」「破船」、戯曲に「牛乳屋の兄弟」などがある。 |
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下記の選評の概要には、評価として◎か○をつけたもの(見方・注意点を参照)、または受賞作に対するもののみ抜粋しました。さらにくわしい情報は、各回の「この回の全概要」をクリックしてご覧ください。
選考委員 久米正雄 48歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
32歳 |
◎ | 24 | 「私はゆくりなくも、二十五年前芥川龍之介が「鼻」をひっさげて、夏目先生に見えた時分の事を思い出した。」「文壇出世作の興奮、それを感じさせた濃度では、芥川賞第一回受賞作「蒼氓」以上であり、「コシャマイン記」を抜く。」「仕立は所謂冒険小説に近いが、その通俗の領域を突き抜けて、どうやら、高級な浪曼派作品に迫っている」「此の力勁い「新時代の跫音」が、どんな反響を呼ぶかは、非常な興味である。」 | |
金史良 | 25歳 |
◎ | 10 | 「是(引用者注:「密猟者」)に比べると、候補第二席作品「光の中に」は、実はもって私の肌合に近く、親しみを感じ、且つ又朝鮮人問題を捉えて、其示唆は寧ろ国家的重大性を持つ点で、尤に授賞に価するものと思われ、私は極力、此の二作に、それぞれ違った意味での、推薦をすべきだと思ったが、不幸なるかな、此の沁々とした作品は、「密猟者」の雄勁さに圧倒され、又、成るべくならば其期の優秀作家一人と云う建前から、授賞に洩れて了った。」 |
「今度の芥川賞候補作品は、近来にない佳作揃いで、銓衡委員たるの欣びを、久しぶりで満喫し得た。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第二巻』昭和57年/1982年3月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号) |
選考委員 久米正雄 51歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
34歳 |
○ | 「新聞記録文学から出発した中間読物に終っていない点だけを、私は力説すれば足りる。作の背後にある開戦当初の事実も、割合に正確である。稍ニュース映画の解説口調が気にはなるが、巧みに捌いたと云うべきだと思う。」 | ||
金原健児 | (37歳) |
○ | 「少し古いかも知れないが、小説道の本格的な作品として、「連絡員」に劣らず買う」「適度な時局性と、愛すべき人間描写に、私は尠からず感心した。」 | |
「今期の芥川賞候補作品は、近来に無く充実しているような気がした。」「日本文学報国会常務理事として一言御報告して置きたいが、日本文学報国会は、正式に会の名に於て、芥川賞直木賞の在来の実績と、財団法人日本文学振興会の公共性を認め、選定委員を信頼して、――一応は此方の審査機関の査定をも経るが、――此の賞を公認する意味から、略賞金と同額の副賞を呈する事に決定した。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第三巻』昭和57年/1982年4月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和18年/1943年3月号) |