第170回

第169回第171回

令和5年/2023年下半期 令和6年/2024年1月17日決定発表／『文藝春秋』令和6年/2024年3月号選評掲載

選考委員　 小川洋子 61歳 島田雅彦 62歳 松浦寿輝 69歳 山田詠美 64歳 平野啓一郎 48歳 奥泉光 67歳 吉田修一 55歳 川上弘美 65歳 堀江敏幸 60歳 選評総行数　 84 88 99 83 90 90 93 95 86 評 評 評 評 評 評 評 評 評 候補作 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 九段理江　「東京都同情塔」 216枚 33歳 評 ■ 33 △ 25 ○ 50 ◎ 12 ◎ 31 ○ 29 ○ 34 ◎ 22 △ 17 安堂ホセ　「迷彩色の男」 206枚 29歳 評 ◎ 13 △ 18 ■ 14 ■ 19 △ 24 ■ 21 ■ 13 ■ 9 △ 16 川野芽生　「Blue」 200枚 32歳 評 ■ 9 ■ 14 ● 7 ● 18 ● 10 ■ 12 ■ 5 ■ 8 △ 20 小砂川チト　「猿の戴冠式」 202枚 33歳 評 △ 15 ■ 18 △ 31 △ 17 ■ 13 ■ 18 ■ 14 ■ 9 △ 17 三木三奈　「アイスネルワイゼン」 219枚 32歳 評 ■ 14 ■ 11 ■ 10 ● 17 ■ 12 ■ 10 △ 27 ■ 13 △ 16                   年齢/枚数の説明   見方・注意点

小川洋子61歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題「迷彩色の男」を推す　総行数84　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 ■ 33 「どうしても私は、建築家の牧名沙羅にも、塔で働く拓人にも人間的な息遣いを感じることができなかった。思考のための言葉ではなく、心からにじみ出てくる声なき声を聞きたかった。」「九段さんが小説の可能性を押し広げてゆく書き手であるのは間違いない。そのエネルギーに敬意を表したい。」 安堂ホセ 29歳 全 ◎ 13 「一行一行に込められた緊張感に圧倒された。血や汗や皮膚やあばらや精液の前では、愛も差別も無意味になる。暴力に理由などなくなる。理由がないことの不気味さをあぶり出した迫力は、受賞にふさわしいと今でも信じている。」 川野芽生 32歳 全 ■ 9 「書きたい目的がはっきり見えていた。そのために「人魚姫」やアンデルセンや性別適合手術や名前の変遷や、さまざまな要素を取り入れ、それらを上手く組み立てた。しかし小説はもっと不安定でいいのではないか、と思わされた。」 小砂川チト 33歳 全 △ 15 「「猿の戴冠式」のしふみは、とうとう歩き疲れてしまい、ばったり倒れ、熱帯雨林の中のフカフカした時代にもどりたいと熱望する。人間とボノボ、二つの種が絡み合ってしまう滑稽さは、小砂川さんにしか出せない味わいだろう。」 三木三奈 32歳 全 ■ 14 「「アイスネルワイゼン」の琴音は、当たり障りなく生きることができない人だ。」「ただ一生懸命生きているだけだ。この行き場のなさに、作者が溺れるのではなく、もっと冷徹な視点を持つことができたら、思いも寄らない風景が現れたかもしれない。」

他の選考委員 島田雅彦 松浦寿輝 山田詠美 平野啓一郎 奥泉光 吉田修一 川上弘美 堀江敏幸

島田雅彦62歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題レミゼラブル２・０？　総行数88　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 △ 25 「作者は実際に生成ＡＩを創作に活用したそうだが、ＡＩにユニークなコマンドを出しさえすれば、生成されたテキストは人並みになる。ただ、私が思うに、このディストピアに生きる当事者たちの狂気や抵抗をもっとアクションとして作品に盛り込んでいたら、より多くの読者のシンパシーを獲得できたはず。」 安堂ホセ 29歳 全 △ 18 「ブラックミックスとゲイのダブルマイノリティ問題を扱いながら、ポリコレに走り過ぎず、ハードボイルド・タッチでフィジカル・コンタクトを詩情たっぷりに描いている。」「何処か、北野武の映画手法にも似た即物的リアリズムとスピーディな展開が魅力的だが、前作の『ジャクソンひとり』の連作の第二話のようにも読めてしまったのは惜しい。」 川野芽生 32歳 全 ■ 14 「差別と偏見の名残をとどめる童話や伝説をキャンセルし、現代に即した換骨奪胎を行うことは映画やアニメの世界でも盛んだが、文学ではもっと古くから人々の無意識に刷り込まれた元型的物語の克服を行ってきたので、射程をもっと遠くに延ばすべきかと思う。」 小砂川チト 33歳 全 ■ 18 「霊長類学や動物言語学の知見を援用しつつ、猿から癒しと救済を得る方法を詳細に報告しており、この作者の奇想天外には一目置く。」「もっとバディの心奥に入り込み、猿の無意識まで描くことができれば、画期的な動物文学の誕生に立ち会えたのだが。」 三木三奈 32歳 全 ■ 11 「何をやってもうまくいかない、そのつもりはないのに、自分から世界を狭めてしまう経験は誰にでもあるものだが、それがフィクションである以上、負の連鎖の果てに予想外の境地に達して欲しかった。」

他の選考委員 小川洋子 松浦寿輝 山田詠美 平野啓一郎 奥泉光 吉田修一 川上弘美 堀江敏幸

松浦寿輝69歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題「人間性」の外部　総行数99　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 ○ 50 「（引用者注：「猿の戴冠式」とともに）一種の綺想小説でもあり、フィクションの物語を思考実験の器として利用している作品とも言える」「「東京都同情塔」に出てくる生成ＡＩの言語には、徹頭徹尾「人間そっくり」だが、同時に徹頭徹尾「非人間的」でもあるという怖さがある。」「フーコーが分析した「一望監視システム」の刑務所は中央に監視塔がそそり立ち、周縁に囚人房が配されていたが、作者はその真逆の異常空間を構想し、現代社会を諷刺的に撃とうとしている。」 安堂ホセ 29歳 全 ■ 14 「セクシュアリティの描出には迫力がある。」「赤、青、黒という色彩への執着も面白い。しかしその割りには「迷彩色」というきわめて魅力的な主題の追求は中途半端なままで、また結末の刃傷沙汰へ向けての唐突な展開には説得力がない。」 川野芽生 32歳 全 ● 7 「戯曲仕立ての会話や「人魚姫」の物語への重ね合わせなど、様々な趣向を凝らしているが、意外におとなしい「爽やかな青春小説」の埒内に収まってしまったのではないか。」 小砂川チト 33歳 全 △ 31 「（引用者注：「東京都同情塔」とともに）一種の綺想小説でもあり、フィクションの物語を思考実験の器として利用している作品とも言える」「しかし、高度な知能を持つ猿の内面が、「擬人化」された心理と感情の域を出ておらず、真の他者性の凄みが十分に表出されているとは言えない。猿の「シネノ」と人間の「しふみ」との間に、「わたしは／例外」という感動的な意思疎通がいきなり成立してしまうのは安直ではないか。」 三木三奈 32歳 全 ■ 10 「主人公の女性の人物像はきわめて魅力的で、その奇矯さや逸脱ぶり、抗いようもなく下降してゆく無力感を、さりげない会話のなかから浮かび上がらせてゆく手際が巧みである。しかしこれもまた、案外ふつうの風俗心理小説を越えていない。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 山田詠美 平野啓一郎 奥泉光 吉田修一 川上弘美 堀江敏幸

山田詠美64歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題「選評」　総行数83　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 ◎ 12 「硬質でＡＩっぽい文章が続く中、時折、叙情的なパートが魅力的に浮き上がる。」「世界的建築家のサラ・マキナさん、哀しくて憐れでチャーミング。東京都知事にも読んでもらいたいこの発想。同情塔へのパス、欲しいです。」 安堂ホセ 29歳 全 ■ 19 「一行ごとの改行。数行ごとの行間アキ。この種のスタイルが効果的に働くのは、その余白を言葉で埋め尽くす気概があってこそ。雰囲気作りや、イン・ザ・ムードの演出のために空白を利用してはならない。行間を生かすためには、高度な技巧がいるのだ。」 川野芽生 32歳 全 ● 18 「時々、どうにもこうにも我慢出来ないムズムズする文章が出現して、うわーっと叫び出したくなる。」「時々、会話の中で発言の主が誰が誰だか解らなくなる。他者との差異をまずジェンダーありきでとらえ過ぎて、登場人物それぞれの個別の本質をつかんで書き分けていないからではないか。」 小砂川チト 33歳 全 △ 17 「この作者独得の変なセンスに満ちていて、おもしろかった。スピード感もあるし……と思っていたら、後半、そのスピードが出過ぎたのか、ランナーズハイ状態になってしまった。」「〈ありがとう〉〈どういたしまして〉とうなり合う瞬間は快感だったが。」 三木三奈 32歳 全 ● 17 「一読して、うわーっ、もう、どいつもこいつも！　とぼやきたくなった。主人公は、三十二才。この子供っぽさは、病んでいるせいなのか。ピュアだからなのか。美容院の予約を取るより、病院の予約を取った方がいいよ（はっ、意図せず駄洒落に!?）。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 松浦寿輝 平野啓一郎 奥泉光 吉田修一 川上弘美 堀江敏幸

平野啓一郎48歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題幻惑的な構造計算　総行数90　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 ◎ 31 「私が推したのは、『東京都同情塔』だった。」「前回候補作が太宰作品を更新したように、本作は三島由紀夫の『金閣寺』の影響が顕著で、しかもそれをほとんど感じさせないほど、荒唐無稽ながら力強い斬新な世界を構築している。」「すべてが現実にはアンビルトである三つの建築が、この虚構世界を支えている光景には、幻惑的な構造計算がある。」 安堂ホセ 29歳 全 △ 24 「一見淡泊だが、生々しくも繊細な文体が魅力的であり、殊に複数人が、交換可能性と不可能性のあわいで肉体的に交わり合う場面は特筆すべきである。しかし、そこから対象が主要人物との関係に絞り込まれると、急に熱量と密度が低下してしまう。」「インターセクショナリティが主題であったはずだが、「ヘイトクライム」の犯人が無差別的で、反社会性人格障害のように設定されている点も疑問が残った。」 川野芽生 32歳 全 ● 10 「性自認の「揺らぎ」というセンシティヴな問題に取り組んでいるが、各登場人物が思索の擬人化以上の存在感に達しておらず、小説という形式としては未熟だった。」 小砂川チト 33歳 全 ■ 13 「前回候補作同様、作者の独特な発想と言葉のセンスに注目したが、「猿」の内面まで描いてしまうことで、人形の「ツトム」に対する勝手な思い入れとドタバタにあったユーモアが失われ、後半の長すぎるモノローグと相俟って、作者の思いの強引な表現となってしまった。」 三木三奈 32歳 全 ■ 12 「破綻のない作品だが、コミュニケーション障害の通念に過不足なく収まり過ぎており、小説体験としては、そのフレームを揺さぶるものが、もう一つ不足していた。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 松浦寿輝 山田詠美 奥泉光 吉田修一 川上弘美 堀江敏幸

奥泉光67歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題選評　総行数90　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 ○ 29 「東京都同情塔に象徴されるこの日本では、生成ＡＩがなすような言語の平準化が押し広がり、人間は対話性を失い、まさに世界がばらばらになりつつある。これは現実に起こっている事柄であり、作者の批評性が光る。」「犯罪者が「幸福に」暮らすという塔の具体的な成り立ち、仕組についても描いてほしいとの、些かないものねだり的な感想を抱いたものの、受賞作にふさわしい緊密な質感を備えた作品だと評価した。」 安堂ホセ 29歳 全 ■ 21 「ことに色彩表現に独特の感覚があって、「文」の斬新さ、鮮烈さでは五作のなかで出色であった。ただしイメージが焦点を結びにくい表現もときに散見され、多用される一行空けも、対象を描き尽くすべき粘りを欠いたと印象される場合があり、興趣を削ぐのが残念だった。」 川野芽生 32歳 全 ■ 12 「どこかアニメーションフィルムを思わせるものがあって――というより、アニメーションだったらよりよかったのではとの感想が抱かれたのは、小説ならではの描写や表現を欠いたせいかもしれない。もっと「文」の力を！」 小砂川チト 33歳 全 ■ 18 「天才的なボノボと、まさに「二足歩行」の競技である競歩選手の「交流」を、ボノボの視点、人間の視点双方から描くという、奇想の光る一篇である。」「ただボノボと人間の関係の謎――幼児に遡るらしい――が構築の柱に据えられているのだが、そこは功を奏していない。」 三木三奈 32歳 全 ■ 10 「切実な問題が描かれているのは理解でき、よくできた一篇だと評価できた。が、台詞鉤括弧の多用を含め、「文」の魅力に乏しい感は否めず、自分には推しにくい作品だった。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 松浦寿輝 山田詠美 平野啓一郎 吉田修一 川上弘美 堀江敏幸

吉田修一55歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題選評　総行数93　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 ○ 34 「キャッチ―な舞台設定や登場人物たちといったエンターテイメント性と批評性とのバランスが大変良く、作品の中に読者の遊び場がきちんと用意されている。おそらくこれは作者と登場人物（特に主人公の建築家）との距離感のバランスがよいためで、何かを押しつけられるような感覚なく、読者は自身の思いや声が作品の中にも届くような気がするのだと思う。」「今後もさまざまな題材を貪欲に吸収して、多様な世界を書いていける作家だと思う。」 安堂ホセ 29歳 全 ■ 13 「とても好きな作品だったのだが、前作のマイノリティが増殖していくという斬新さを超えてくる凄みはなかった。もしアドバイスできるとすれば、ホセくん、一回ハッテンバから出てみようか、だろうか。」 川野芽生 32歳 全 ■ 5 「さほど新味のない脚本を、癖の強い役者たちが熱演しているような印象だった。」 小砂川チト 33歳 全 ■ 14 「簡単に言ってしまえば、自信喪失したアスリートが立ち直るまでの話である。それをここまで深遠な世界に仕立て上げた作者の手腕は見事である。ボノボや猿のエピソードや描写に関してはどこを読んでも哀切極まりないのだが、そのボノボが逃亡する後半から急に作者の筆に抑制が利かなくなったように思う。」 三木三奈 32歳 全 △ 27 「他の候補作に比べるとまさに半径五メートルのとても小さな世界の話で、主人公は読んでいて虫唾が走るほど嫌な人間である。」「他の作者たちは人間の好き嫌いがはっきりしているように読めるのに対して、この作者はその辺りが曖昧で、主人公も含め登場人物たち全てが、好きじゃないのに嫌いになれない人であり、嫌いじゃないのに好きになれない人たちである。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 松浦寿輝 山田詠美 平野啓一郎 奥泉光 川上弘美 堀江敏幸

川上弘美65歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題耐える　総行数95　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 ◎ 22 「書きながら、いろいろ、考えたのだろうな、と思いました。なぜなら、小説の言葉が、文章が、読者であるわたしに、よかったらいろいろ考えてみて、と語りかけてくるからです。」「作者はたぶん、ただ、考えてほしいのです。」「すっきりしない時間に耐えて、この小説を結実させた、作者の小説完成欲の強さに、たいへんに惹かれました。一番に推しました。」 安堂ホセ 29歳 全 ■ 9 「疾走しながら小説世界の隅々までを凝視し、かつ読者を見知らぬところまで連れてゆこうとする作者の意欲や良し、です。それにしても、疾走することと静かな客観性をもつことのバランスは、ほんとうに難しい。」 川野芽生 32歳 全 ■ 8 「名づけのされていないことを書こうとする意欲をかいつつ、その方法として、すでに名づけられているシステムを時おり不用意に選んでしまっているところが、惜しかったのです。」 小砂川チト 33歳 全 ■ 9 「書きながらいろいろ考えたのだろうな、と思いました。なべての小説は作者の思うようには進んでくれないわけですが、そのことをもう少し慈しむことができた時の、この作者の小説に、期待します。」 三木三奈 32歳 全 ■ 13 「視点人物である「琴音」のこの状況、いやすぎる……でも、どこかでこういう状況に、自分も入りこんでしまった記憶がある……と感じさせるところが面白い小説でした。ただ、琴音の陥っている理不尽な状況は、少しだけ、ほんの少しだけ、出来すぎなのではないか。」   「選考をおこなう時に、この作者は小説を書きつづけてくれるだろうか、ということを、いつも考えます。」「ずっと書きつづけている身近な作家たちを見ると、どうしてもこうしても小説を書くのだ、書きあげるのだ、という欲望にまみれている、ような気がします。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 松浦寿輝 山田詠美 平野啓一郎 奥泉光 吉田修一 堀江敏幸

堀江敏幸60歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題なにかがはみ出してくる　総行数86　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 九段理江 33歳 全 △ 17 「紋切り型の言葉の牢獄を前に、「私自身が外部と内部を形成する建築」だとする建築家の自己認識が鈍い光を放つ。近未来ではなく、現代日本を地上百数十メートルから見下ろした虚ろな緊張感が読後に残る。」 安堂ホセ 29歳 全 △ 16 「心の内側にある迷彩の意味を教えてくれる。」「記述の断片化は、血と肉をそなえた影絵という語義矛盾を貫くための一時的な手法として有効だ。怒りの屈折も追うことができている。しかし本作が捉えようとしているのは、屈折しない裸形の怒りではないか。」 川野芽生 32歳 全 △ 20 「下敷きとなったアンデルセンの「人魚姫」の読解も一定の効果を挙げている。とはいえ、こうした仕掛に頼らなくても、登場人物たちの現在は、性の移動の結果ではなく、月下の黒が青であるような移動を内包した状態として保たれており、この不安定さを失わないことに対する信頼と愛おしさは、細工なしでもくっきりと描かれているのではないか。」 小砂川チト 33歳 全 △ 17 「冒頭で示される二足歩行の生き物の、迫り来る骨盤の動きと、後半のなしくずしに近いリズムの野放図さに惹かれた。」「ボノボやチンパンジーの扱いに対する倫理的な側面や、他者なくしていきなり自分の「例外」性を認識しうる飛躍に引っかかりはするものの、なにかがはみ出してくる奇妙な勢いは捨てがたい。」 三木三奈 32歳 全 △ 16 「目の不自由な友人宅での会話と、そのさなかに受ける電話のやりとりを頂点として全体に流れているのは、鍵盤ではなく弦、それも琴の十三弦ではなく、少し湿った三弦の音だ。結末に用意された涙を受け入れられるのはそのせいかもしれない。」

他の選考委員 小川洋子 島田雅彦 松浦寿輝 山田詠美 平野啓一郎 奥泉光 吉田修一 川上弘美

九段理江33歳×各選考委員　 「東京都同情塔」 中篇 216枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 61歳 全 ■ 33 「どうしても私は、建築家の牧名沙羅にも、塔で働く拓人にも人間的な息遣いを感じることができなかった。思考のための言葉ではなく、心からにじみ出てくる声なき声を聞きたかった。」「九段さんが小説の可能性を押し広げてゆく書き手であるのは間違いない。そのエネルギーに敬意を表したい。」 島田雅彦 62歳 全 △ 25 「作者は実際に生成ＡＩを創作に活用したそうだが、ＡＩにユニークなコマンドを出しさえすれば、生成されたテキストは人並みになる。ただ、私が思うに、このディストピアに生きる当事者たちの狂気や抵抗をもっとアクションとして作品に盛り込んでいたら、より多くの読者のシンパシーを獲得できたはず。」 松浦寿輝 69歳 全 ○ 50 「（引用者注：「猿の戴冠式」とともに）一種の綺想小説でもあり、フィクションの物語を思考実験の器として利用している作品とも言える」「「東京都同情塔」に出てくる生成ＡＩの言語には、徹頭徹尾「人間そっくり」だが、同時に徹頭徹尾「非人間的」でもあるという怖さがある。」「フーコーが分析した「一望監視システム」の刑務所は中央に監視塔がそそり立ち、周縁に囚人房が配されていたが、作者はその真逆の異常空間を構想し、現代社会を諷刺的に撃とうとしている。」 山田詠美 64歳 全 ◎ 12 「硬質でＡＩっぽい文章が続く中、時折、叙情的なパートが魅力的に浮き上がる。」「世界的建築家のサラ・マキナさん、哀しくて憐れでチャーミング。東京都知事にも読んでもらいたいこの発想。同情塔へのパス、欲しいです。」 平野啓一郎 48歳 全 ◎ 31 「私が推したのは、『東京都同情塔』だった。」「前回候補作が太宰作品を更新したように、本作は三島由紀夫の『金閣寺』の影響が顕著で、しかもそれをほとんど感じさせないほど、荒唐無稽ながら力強い斬新な世界を構築している。」「すべてが現実にはアンビルトである三つの建築が、この虚構世界を支えている光景には、幻惑的な構造計算がある。」 奥泉光 67歳 全 ○ 29 「東京都同情塔に象徴されるこの日本では、生成ＡＩがなすような言語の平準化が押し広がり、人間は対話性を失い、まさに世界がばらばらになりつつある。これは現実に起こっている事柄であり、作者の批評性が光る。」「犯罪者が「幸福に」暮らすという塔の具体的な成り立ち、仕組についても描いてほしいとの、些かないものねだり的な感想を抱いたものの、受賞作にふさわしい緊密な質感を備えた作品だと評価した。」 吉田修一 55歳 全 ○ 34 「キャッチ―な舞台設定や登場人物たちといったエンターテイメント性と批評性とのバランスが大変良く、作品の中に読者の遊び場がきちんと用意されている。おそらくこれは作者と登場人物（特に主人公の建築家）との距離感のバランスがよいためで、何かを押しつけられるような感覚なく、読者は自身の思いや声が作品の中にも届くような気がするのだと思う。」「今後もさまざまな題材を貪欲に吸収して、多様な世界を書いていける作家だと思う。」 川上弘美 65歳 全 ◎ 22 「書きながら、いろいろ、考えたのだろうな、と思いました。なぜなら、小説の言葉が、文章が、読者であるわたしに、よかったらいろいろ考えてみて、と語りかけてくるからです。」「作者はたぶん、ただ、考えてほしいのです。」「すっきりしない時間に耐えて、この小説を結実させた、作者の小説完成欲の強さに、たいへんに惹かれました。一番に推しました。」 堀江敏幸 60歳 全 △ 17 「紋切り型の言葉の牢獄を前に、「私自身が外部と内部を形成する建築」だとする建築家の自己認識が鈍い光を放つ。近未来ではなく、現代日本を地上百数十メートルから見下ろした虚ろな緊張感が読後に残る。」

他の候補作 安堂ホセ 「迷彩色の男」 川野芽生 「Blue」 小砂川チト 「猿の戴冠式」 三木三奈 「アイスネルワイゼン」

安堂ホセ29歳×各選考委員　 「迷彩色の男」 中篇 206枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 61歳 全 ◎ 13 「一行一行に込められた緊張感に圧倒された。血や汗や皮膚やあばらや精液の前では、愛も差別も無意味になる。暴力に理由などなくなる。理由がないことの不気味さをあぶり出した迫力は、受賞にふさわしいと今でも信じている。」 島田雅彦 62歳 全 △ 18 「ブラックミックスとゲイのダブルマイノリティ問題を扱いながら、ポリコレに走り過ぎず、ハードボイルド・タッチでフィジカル・コンタクトを詩情たっぷりに描いている。」「何処か、北野武の映画手法にも似た即物的リアリズムとスピーディな展開が魅力的だが、前作の『ジャクソンひとり』の連作の第二話のようにも読めてしまったのは惜しい。」 松浦寿輝 69歳 全 ■ 14 「セクシュアリティの描出には迫力がある。」「赤、青、黒という色彩への執着も面白い。しかしその割りには「迷彩色」というきわめて魅力的な主題の追求は中途半端なままで、また結末の刃傷沙汰へ向けての唐突な展開には説得力がない。」 山田詠美 64歳 全 ■ 19 「一行ごとの改行。数行ごとの行間アキ。この種のスタイルが効果的に働くのは、その余白を言葉で埋め尽くす気概があってこそ。雰囲気作りや、イン・ザ・ムードの演出のために空白を利用してはならない。行間を生かすためには、高度な技巧がいるのだ。」 平野啓一郎 48歳 全 △ 24 「一見淡泊だが、生々しくも繊細な文体が魅力的であり、殊に複数人が、交換可能性と不可能性のあわいで肉体的に交わり合う場面は特筆すべきである。しかし、そこから対象が主要人物との関係に絞り込まれると、急に熱量と密度が低下してしまう。」「インターセクショナリティが主題であったはずだが、「ヘイトクライム」の犯人が無差別的で、反社会性人格障害のように設定されている点も疑問が残った。」 奥泉光 67歳 全 ■ 21 「ことに色彩表現に独特の感覚があって、「文」の斬新さ、鮮烈さでは五作のなかで出色であった。ただしイメージが焦点を結びにくい表現もときに散見され、多用される一行空けも、対象を描き尽くすべき粘りを欠いたと印象される場合があり、興趣を削ぐのが残念だった。」 吉田修一 55歳 全 ■ 13 「とても好きな作品だったのだが、前作のマイノリティが増殖していくという斬新さを超えてくる凄みはなかった。もしアドバイスできるとすれば、ホセくん、一回ハッテンバから出てみようか、だろうか。」 川上弘美 65歳 全 ■ 9 「疾走しながら小説世界の隅々までを凝視し、かつ読者を見知らぬところまで連れてゆこうとする作者の意欲や良し、です。それにしても、疾走することと静かな客観性をもつことのバランスは、ほんとうに難しい。」 堀江敏幸 60歳 全 △ 16 「心の内側にある迷彩の意味を教えてくれる。」「記述の断片化は、血と肉をそなえた影絵という語義矛盾を貫くための一時的な手法として有効だ。怒りの屈折も追うことができている。しかし本作が捉えようとしているのは、屈折しない裸形の怒りではないか。」

他の候補作 九段理江 「東京都同情塔」 川野芽生 「Blue」 小砂川チト 「猿の戴冠式」 三木三奈 「アイスネルワイゼン」

川野芽生32歳×各選考委員　 「Blue」 中篇 200枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 61歳 全 ■ 9 「書きたい目的がはっきり見えていた。そのために「人魚姫」やアンデルセンや性別適合手術や名前の変遷や、さまざまな要素を取り入れ、それらを上手く組み立てた。しかし小説はもっと不安定でいいのではないか、と思わされた。」 島田雅彦 62歳 全 ■ 14 「差別と偏見の名残をとどめる童話や伝説をキャンセルし、現代に即した換骨奪胎を行うことは映画やアニメの世界でも盛んだが、文学ではもっと古くから人々の無意識に刷り込まれた元型的物語の克服を行ってきたので、射程をもっと遠くに延ばすべきかと思う。」 松浦寿輝 69歳 全 ● 7 「戯曲仕立ての会話や「人魚姫」の物語への重ね合わせなど、様々な趣向を凝らしているが、意外におとなしい「爽やかな青春小説」の埒内に収まってしまったのではないか。」 山田詠美 64歳 全 ● 18 「時々、どうにもこうにも我慢出来ないムズムズする文章が出現して、うわーっと叫び出したくなる。」「時々、会話の中で発言の主が誰が誰だか解らなくなる。他者との差異をまずジェンダーありきでとらえ過ぎて、登場人物それぞれの個別の本質をつかんで書き分けていないからではないか。」 平野啓一郎 48歳 全 ● 10 「性自認の「揺らぎ」というセンシティヴな問題に取り組んでいるが、各登場人物が思索の擬人化以上の存在感に達しておらず、小説という形式としては未熟だった。」 奥泉光 67歳 全 ■ 12 「どこかアニメーションフィルムを思わせるものがあって――というより、アニメーションだったらよりよかったのではとの感想が抱かれたのは、小説ならではの描写や表現を欠いたせいかもしれない。もっと「文」の力を！」 吉田修一 55歳 全 ■ 5 「さほど新味のない脚本を、癖の強い役者たちが熱演しているような印象だった。」 川上弘美 65歳 全 ■ 8 「名づけのされていないことを書こうとする意欲をかいつつ、その方法として、すでに名づけられているシステムを時おり不用意に選んでしまっているところが、惜しかったのです。」 堀江敏幸 60歳 全 △ 20 「下敷きとなったアンデルセンの「人魚姫」の読解も一定の効果を挙げている。とはいえ、こうした仕掛に頼らなくても、登場人物たちの現在は、性の移動の結果ではなく、月下の黒が青であるような移動を内包した状態として保たれており、この不安定さを失わないことに対する信頼と愛おしさは、細工なしでもくっきりと描かれているのではないか。」

他の候補作 九段理江 「東京都同情塔」 安堂ホセ 「迷彩色の男」 小砂川チト 「猿の戴冠式」 三木三奈 「アイスネルワイゼン」

小砂川チト33歳×各選考委員　 「猿の戴冠式」 中篇 202枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 61歳 全 △ 15 「「猿の戴冠式」のしふみは、とうとう歩き疲れてしまい、ばったり倒れ、熱帯雨林の中のフカフカした時代にもどりたいと熱望する。人間とボノボ、二つの種が絡み合ってしまう滑稽さは、小砂川さんにしか出せない味わいだろう。」 島田雅彦 62歳 全 ■ 18 「霊長類学や動物言語学の知見を援用しつつ、猿から癒しと救済を得る方法を詳細に報告しており、この作者の奇想天外には一目置く。」「もっとバディの心奥に入り込み、猿の無意識まで描くことができれば、画期的な動物文学の誕生に立ち会えたのだが。」 松浦寿輝 69歳 全 △ 31 「（引用者注：「東京都同情塔」とともに）一種の綺想小説でもあり、フィクションの物語を思考実験の器として利用している作品とも言える」「しかし、高度な知能を持つ猿の内面が、「擬人化」された心理と感情の域を出ておらず、真の他者性の凄みが十分に表出されているとは言えない。猿の「シネノ」と人間の「しふみ」との間に、「わたしは／例外」という感動的な意思疎通がいきなり成立してしまうのは安直ではないか。」 山田詠美 64歳 全 △ 17 「この作者独得の変なセンスに満ちていて、おもしろかった。スピード感もあるし……と思っていたら、後半、そのスピードが出過ぎたのか、ランナーズハイ状態になってしまった。」「〈ありがとう〉〈どういたしまして〉とうなり合う瞬間は快感だったが。」 平野啓一郎 48歳 全 ■ 13 「前回候補作同様、作者の独特な発想と言葉のセンスに注目したが、「猿」の内面まで描いてしまうことで、人形の「ツトム」に対する勝手な思い入れとドタバタにあったユーモアが失われ、後半の長すぎるモノローグと相俟って、作者の思いの強引な表現となってしまった。」 奥泉光 67歳 全 ■ 18 「天才的なボノボと、まさに「二足歩行」の競技である競歩選手の「交流」を、ボノボの視点、人間の視点双方から描くという、奇想の光る一篇である。」「ただボノボと人間の関係の謎――幼児に遡るらしい――が構築の柱に据えられているのだが、そこは功を奏していない。」 吉田修一 55歳 全 ■ 14 「簡単に言ってしまえば、自信喪失したアスリートが立ち直るまでの話である。それをここまで深遠な世界に仕立て上げた作者の手腕は見事である。ボノボや猿のエピソードや描写に関してはどこを読んでも哀切極まりないのだが、そのボノボが逃亡する後半から急に作者の筆に抑制が利かなくなったように思う。」 川上弘美 65歳 全 ■ 9 「書きながらいろいろ考えたのだろうな、と思いました。なべての小説は作者の思うようには進んでくれないわけですが、そのことをもう少し慈しむことができた時の、この作者の小説に、期待します。」 堀江敏幸 60歳 全 △ 17 「冒頭で示される二足歩行の生き物の、迫り来る骨盤の動きと、後半のなしくずしに近いリズムの野放図さに惹かれた。」「ボノボやチンパンジーの扱いに対する倫理的な側面や、他者なくしていきなり自分の「例外」性を認識しうる飛躍に引っかかりはするものの、なにかがはみ出してくる奇妙な勢いは捨てがたい。」

他の候補作 九段理江 「東京都同情塔」 安堂ホセ 「迷彩色の男」 川野芽生 「Blue」 三木三奈 「アイスネルワイゼン」

三木三奈32歳×各選考委員　 「アイスネルワイゼン」 中篇 219枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 小川洋子 61歳 全 ■ 14 「「アイスネルワイゼン」の琴音は、当たり障りなく生きることができない人だ。」「ただ一生懸命生きているだけだ。この行き場のなさに、作者が溺れるのではなく、もっと冷徹な視点を持つことができたら、思いも寄らない風景が現れたかもしれない。」 島田雅彦 62歳 全 ■ 11 「何をやってもうまくいかない、そのつもりはないのに、自分から世界を狭めてしまう経験は誰にでもあるものだが、それがフィクションである以上、負の連鎖の果てに予想外の境地に達して欲しかった。」 松浦寿輝 69歳 全 ■ 10 「主人公の女性の人物像はきわめて魅力的で、その奇矯さや逸脱ぶり、抗いようもなく下降してゆく無力感を、さりげない会話のなかから浮かび上がらせてゆく手際が巧みである。しかしこれもまた、案外ふつうの風俗心理小説を越えていない。」 山田詠美 64歳 全 ● 17 「一読して、うわーっ、もう、どいつもこいつも！　とぼやきたくなった。主人公は、三十二才。この子供っぽさは、病んでいるせいなのか。ピュアだからなのか。美容院の予約を取るより、病院の予約を取った方がいいよ（はっ、意図せず駄洒落に!?）。」 平野啓一郎 48歳 全 ■ 12 「破綻のない作品だが、コミュニケーション障害の通念に過不足なく収まり過ぎており、小説体験としては、そのフレームを揺さぶるものが、もう一つ不足していた。」 奥泉光 67歳 全 ■ 10 「切実な問題が描かれているのは理解でき、よくできた一篇だと評価できた。が、台詞鉤括弧の多用を含め、「文」の魅力に乏しい感は否めず、自分には推しにくい作品だった。」 吉田修一 55歳 全 △ 27 「他の候補作に比べるとまさに半径五メートルのとても小さな世界の話で、主人公は読んでいて虫唾が走るほど嫌な人間である。」「他の作者たちは人間の好き嫌いがはっきりしているように読めるのに対して、この作者はその辺りが曖昧で、主人公も含め登場人物たち全てが、好きじゃないのに嫌いになれない人であり、嫌いじゃないのに好きになれない人たちである。」 川上弘美 65歳 全 ■ 13 「視点人物である「琴音」のこの状況、いやすぎる……でも、どこかでこういう状況に、自分も入りこんでしまった記憶がある……と感じさせるところが面白い小説でした。ただ、琴音の陥っている理不尽な状況は、少しだけ、ほんの少しだけ、出来すぎなのではないか。」 堀江敏幸 60歳 全 △ 16 「目の不自由な友人宅での会話と、そのさなかに受ける電話のやりとりを頂点として全体に流れているのは、鍵盤ではなく弦、それも琴の十三弦ではなく、少し湿った三弦の音だ。結末に用意された涙を受け入れられるのはそのせいかもしれない。」

他の候補作 九段理江 「東京都同情塔」 安堂ホセ 「迷彩色の男」 川野芽生 「Blue」 小砂川チト 「猿の戴冠式」