第169回

第168回第170回

令和5年/2023年上半期 令和5年/2023年7月19日決定発表／『文藝春秋』令和5年/2023年9月号選評掲載

選考委員　 松浦寿輝 69歳 小川洋子 61歳 奥泉光 67歳 平野啓一郎 48歳 吉田修一 54歳 島田雅彦 62歳 山田詠美 64歳 川上弘美 65歳 堀江敏幸 59歳 選評総行数　 99 86 86 90 105 89 89 94 86 評 評 評 評 評 評 評 評 評 候補作 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 市川沙央　「ハンチバック」 90枚 43歳 評 □ 39 △ 26 □ 25 ◎ 32 ◎ 43 ○ 36 ◎ 20 ◎ 23 ○ 19 石田夏穂　「我が手の太陽」 167枚 31歳 評 ― 0 ○ 27 ○ 16 ○ 20 ■ 17 △ 17 ◎ 13 ■ 11 △ 17 児玉雨子　「##NAME##」 198枚 29歳 評 ◎ 36 ■ 13 △ 9 △ 15 ■ 10 △ 14 △ 15 △ 10 △ 15 千葉雅也　「エレクトリック」 220枚 44歳 評 ― 0 ■ 5 ● 7 ● 8 ■ 17 ■ 9 ● 18 ■ 9 ■ 14 乗代雄介　「それは誠」 291枚 37歳 評 □ 30 ■ 15 ○ 17 ● 15 △ 18 △ 13 ● 13 ◎ 22 □ 21                   年齢/枚数の説明   見方・注意点

松浦寿輝69歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題名前の物語　総行数99　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 □ 39 「わたしなどがこれまで遭遇したことも想像したこともなかった人生の姿がなまなましい文章で活写されており、読者の情動を激しく攪拌せずにおかない衝動的な内容になっている。」「ただ、フェラチオの挿話をはじめ、複雑な層をなしているはずの主人公の心象の、いちばん激しい部分を極端に誇張する露悪的な表現の連鎖には辟易としなくもない。この辟易感は文学的な感動とはやはり少々異質なものではないか。」「（引用者注：「それは誠」と共に）△――という判断で選考会に臨んだ。」 石田夏穂 31歳 全 ― 0   児玉雨子 29歳 全 ◎ 36 「候補作五篇のうち、（引用者中略）もっとも心惹かれた。」「児童ポルノや漫画の二次創作といったきわものめいた主題に依りながら、思春期から青春期に向かってどう離陸するかという意外に古風な成長物語の、新鮮な一変奏が篤実に追求されていると感じた。ただ、聡明な作者によって隅々まで知的に造形されているぶん、宇佐美りん「推し、燃ゆ」にあったような無意識的な欲動の奔騰の魅力は乏しいかもしれない。」「○（引用者中略）――という判断で選考会に臨んだ。」 千葉雅也 44歳 全 ― 0   乗代雄介 37歳 全 □ 30 「個人的にはわたしが好むジャンルのお話で、細部に至るまで考え抜かれ、作り込まれている印象があり、作為感の過剰が鼻につくのを我慢しさえすれば、平凡な美談と言えなくもない結末に爽快なカタルシスは一応ある。」「ただ、『スタンド・バイ・ミー』はともかく、『ライ麦畑でつかまえて』を否応なく思い起こさせてしまうのはこの作品の不運だろう。」「（引用者注：「ハンチバック」と共に）△――という判断で選考会に臨んだ。」

他の選考委員 小川洋子 奥泉光 平野啓一郎 吉田修一 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 堀江敏幸

小川洋子61歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題内なる他者　総行数86　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 △ 26 「釈華が妊娠と中絶を望むのは、（引用者中略）自分より貧乏で不幸で頭の悪い子たちのレベルに追いつき、彼女らを見下したいのだ。」「しかし、田中の精液を飲み込んで死にかける姿には、常に生死の境に立たされている彼女に堆積した、底知れない疲労が透けて見える。」「もう一人の紗花が現れ、釈華の像が奥行きを増すラストには、内なる他者が、書く自由を手に入れ、飛翔する瞬間が刻まれている。」 石田夏穂 31歳 全 ○ 27 「最も強く惹きつけられた。溶接の手順をただ説明しているだけのようでありながら、鉄鋼や火や溶接線といった無感情なものたちが、作業者の手と結びつき、人間の心をあぶり出してゆく。そこにダイナミックな運動を感じた。」「残酷な哀れみを描ききった石田さんの執念を称えたい。」 児玉雨子 29歳 全 ■ 13 「上手い小説である。」「ただ読み終えた時、虐待された子どもの問題をこんなふうに破綻なくまとめてしまっていいのだろうか、という不安がよぎった。」 千葉雅也 44歳 全 ■ 5 「ラストはずるいほどに鮮やかだった。だからこそ、そこへ至るまでの一文一文にもう少し緊張感がほしかった。」 乗代雄介 37歳 全 ■ 15 「忘れ難いのは、小さな女の子が投げ上げる落ち葉に、陽光が当たる場面だ。」「乗代さんの魅力は、理屈を超えた偶然の混沌を、独特の手つきですくい上げるところにあると思う。今回はその混沌を、上手く整理しすぎたのかもしれない。」

他の選考委員 松浦寿輝 奥泉光 平野啓一郎 吉田修一 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 堀江敏幸

奥泉光67歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題選評　総行数86　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 □ 25 「技術的配慮を超えたところで、力なるテクストとして屹立しているのはたしかで、本作の受賞には全く異論はない。」「たとえば、唐突に旧約聖書「エゼキエル書」からの引用が置かれて、これははずした方がよいのではと、テクストの均整の点からは考えられそうだけれど、作者には置くべきとの判断があったに違いなく、そうした直感に身を委ねて魅力あるテクストを紡ぎ出す作者の才には特別のものがあるのかもしれない。」 石田夏穂 31歳 全 ○ 16 「綿密な取材を重ねた上での、溶接作業の、それこそ職人技的描出の徹底が魅力あるテクストとなって結実した。主人公への視点の密着がやや息苦しく、かたりがもっと揺れ動くグルーヴが欲しいとも思ったが、それはまた別の作品になるだろう。」 児玉雨子 29歳 全 △ 9 「「ジュニアアイドル」である、あるいはかつてそうであった「私」を主人公に捉えた一篇で、その活動が児童ポルノとして消費される構造を描きながら、少女らの思いに寄り添う作者の姿勢には共感でき、力量を感じた。」 千葉雅也 44歳 全 ● 7 「前作同様「私小説」的な結構の一篇だが、なぜ「私小説」にこだわるのか、作者には探求すべき何かがおそらくあるのだろうが、いまのところ自分には見えない。」 乗代雄介 37歳 全 ○ 17 「（引用者注：「我が手の太陽」と共に）高く評価した。」「話の中身も、最初はばらばらだった人物らが、行為を通じて「結束」していく喜劇（ルビ：コメディ）の構造を踏襲して過不足ない。物語の持つ陳腐さを恐れず、エンターテインメントの技法を駆使してプロットを構成する技術は高い。」   「このところの東京の夏は異様に暑いわけで、選考会のあった日も朝から不快な蒸し暑さだった。」「小説作りの技術的配慮の点で優れたものをと思い選考会に臨んだ。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 平野啓一郎 吉田修一 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 堀江敏幸

平野啓一郎48歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題他者の捉え方の差　総行数90　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 ◎ 32 「高く評価した」「障害者の立場から社会の欺瞞を批評し、解体して、再構成を促すような挑発に満ちている。文体には知的な重層性があり、表現もよく練られていた。」「本書が突きつける問いの気魄は、読者に安易な返答を許さない。」 石田夏穂 31歳 全 ○ 20 「作者のフェティシズムの表現という意味では前候補作の同工異曲のようだが、工場建築の溶接工という設定により、社会的な広がりのある作品となった。」「綿密な調査に基づく正確な文体も、作者の個性として確立されており、受賞に値する水準の作品だった。但し、タイトルと終わり方には疑問がある。」 児玉雨子 29歳 全 △ 15 「アイドル活動に偽装した児童ポルノの被害者を主人公とし、その成長と共に芽生える当事者意識を、巧みな時間構成で描いている。」「「水の底のように冷房が効いた」などのいい加減な比喩が多出する点は残念だった。編集者の仕事も問いたい。」 千葉雅也 44歳 全 ● 8 「各要素が点景的に置き去りにされたまま、物語が、「野村さん」の謎めいた言動に焦点化されてゆく構成に、技術的な課題が残った。」 乗代雄介 37歳 全 ● 15 「すべてがあまりに作者の趣味的な作意通りに書かれており、それを揺るがす他者性の欠如故に小説としては深みがない。」「本作の完成度の高さを評価する意見には賛同できなかった。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 奥泉光 吉田修一 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 堀江敏幸

吉田修一54歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題選評　総行数105　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 ◎ 43 「とにかく小説が強い。一文が強いし、思いが強い。」「作者自身の人間的成熟が、この強さを、さらには毒気のあるユーモアを生んでいる。」「僕たち（私たち）は多様性をどこまで受け入れられるだろうか？　理解できるだろうか？　などとい昨今の生ぬるい上から目線の問題提起を「ハンチバック」は小気味よく一蹴してくれる。」 石田夏穂 31歳 全 ■ 17 「今この選評を書いているのが36℃を超える猛暑日だからというわけではないが、この作品の「現場」からは、その現場感というか、臭いというか、埃っぽさというか、そういった雑味がまったく伝わってこない。とても面白い「溶接工資格取得用テキスト」を読んでいるようだった。」 児玉雨子 29歳 全 ■ 10 「現代社会の恥部を描いた佳作であるが、文章やエピソードをもっと大胆に刈り込んだ方がさらにこの美点が生きてくると思う。」 千葉雅也 44歳 全 ■ 17 「この手の父子ものはすでに台湾のツァイミンリャンが色っぽく成し遂げているし、逆に最近ではロバート・デ・ニーロがゲイだった実父のドキュメンタリーを撮ったりと時代は進んでおり、本作のような仄めかしだけではちょっと弱いのかもしれない。」 乗代雄介 37歳 全 △ 18 「たとえば小説の技術を細分化して採点したら、ほぼ満点なのではないかと思う。ただ、これが選考会の場で「ハンチバック」のような作品と並んでしまうと力負けしてしまうのが小説の面白さなのだろう。」「とはいえ、特にラストの武蔵野線のシーンは素晴らしかった。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 奥泉光 平野啓一郎 島田雅彦 山田詠美 川上弘美 堀江敏幸

島田雅彦62歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題生存のための不服従　総行数89　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 ○ 36 「「私」が繰り出す悪態のカデンツァは露悪を突き抜け、独特のヒューモアを醸し出し、悟りの境地にさえ達している。コトバも骨も屈折しているが、心は不屈だ。自発的服従者ばかりのこの国で不服従を貫く「私」の矜持に敬意を払う。」「エピローグでは、一人の小説家の誕生が仄めかされている。こうなったら、開き直って書いていくしかないという決意の表明と受け止めた。」 石田夏穂 31歳 全 △ 17 「職人小説というジャンルがあるとすれば、彼女は紛れもなく第一人者だ。」「業界用語を散りばめ、リアリズムに徹した、まさに散文的な筆致ながら、火への畏敬、道具へのフェティシズムを追求してゆくので、自ずと神話的趣きを呈してくる。」 児玉雨子 29歳 全 △ 14 「一方的に性的対象として見られ、児童ポルノの領域に引き摺り込まれる酷薄な世界から自分を解放することができるのか？　同じ境遇の少女たちの共感が得られることはいうまでもないが、もう一歩踏み込めば、復讐劇になるのだが。」 千葉雅也 44歳 全 ■ 9 「地方都市に根ざした私的青春グラフィティーには一定のニーズがあるとはいえ、やはり過去作との比較に耐え、かつ新機軸を打ち出すことが求められる。」 乗代雄介 37歳 全 △ 13 「次点ということになったことが、過去三回の乗代氏の作品と比較すると、リーダビリティは向上しているのだが、それが逆に自在な語り芸のマンネリズムを引き寄せてしまった感がある。」「破綻や不気味さが影を潜めているのが残念。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 奥泉光 平野啓一郎 吉田修一 山田詠美 川上弘美 堀江敏幸

山田詠美64歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題「選評」　総行数89　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 ◎ 20 「文学的に稀有なＴＰＯに恵まれたのはもちろん、長いこと読み続け、そして書き続けて来た人だけが到達出来た傑作だと思う。文章（特に比喩）がソリッドで最高。このチャーミングな悪態をもっとずっと読んでいたかった。」 石田夏穂 31歳 全 ◎ 13 「私は、この種の仕事に関してまるで無知なのだが、作業する現場、集中する作業員の手許までが、はっきりと見える気がした。正確な描写で現実にないものを正確に浮き彫りにしたと感心した。」 児玉雨子 29歳 全 △ 15 「読んでいてとても楽しめた。ところが、新しいものに、これほど彩られたこの小説、何だか古い感じがするのである。この「古さ」は、本来、「普遍」に通じるもので、それはまた「不変」を勝ち得ることも出来る。そこに行くスキルを磨くには、紋切り型の言い回しを止めること。」 千葉雅也 44歳 全 ● 18 「この作者の良さは「知性と野性はあざなえる縄の如し」とでも形容したくなるような言葉から滲み出る冷気と熱気のもつれ具合にあったと思う。今回は、それらがほどけて点になってしまった印象。」「何か中途半端な感じがして、残念だった。」 乗代雄介 37歳 全 ● 13 「修学旅行のグループ編成ではじかれてしまった時の気分をいまだ持ち続けているいじけた私には、この作品の良さがどうしても解らないのである。吃音の扱いも気になったし。」   「このところ何度となく、「芥川賞選考会は、他のジャンルから出て来た候補者には授賞しないと決めたようだ」という当て推量めいた文言を目にしたのだが…いいえ、そんなこと全然ありません！　元来、この賞は、「若者」「よそ者」「バカ者」にたいそう優しい。でも、それだって、作品の出来次第……っていうか、はあ？　いったい誰に向かってモノ言ってんの？って感じ。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 奥泉光 平野啓一郎 吉田修一 島田雅彦 川上弘美 堀江敏幸

川上弘美65歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題知悉　総行数94　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 ◎ 23 「客観性ある描きよう、幾重にもおりたたまれているけれど確実に存在するユーモア、たくみな娯楽性。小説、というものの勘どころを、知悉している作者だと思いました。一番に推しました。」 石田夏穂 31歳 全 ■ 11 「「伊東」の、誇り高さと尊大さのあやういバランスが尊大さに傾いてゆく過程を描こうとしたことは、大いなる挑戦でした。ただ、わたしはその過程が腑に落ちなかったのです。」 児玉雨子 29歳 全 △ 10 「うまい小説だなあ、と思いました。表現しようとしていることが過不足なく表現されている。」 千葉雅也 44歳 全 ■ 9 「作者の、ある種の無防備な書きよう（むろんそれは意図された無防備さです）を、わたしは作者の美質だと思っているのですが、今回は、キーワードがキーワードのまま放り出されてしまっていたのではないか。」 乗代雄介 37歳 全 ◎ 22 「作者は、いつも「小説を書く」ことをたいへんに意識しているように感じられます。その意識が、今回の作品の中では、書かれていることとなめらかに溶けあっており、読んでいてなんと楽しい時間だったことか。」「（引用者注：「ハンチバック」と共に）強く推しました。」   「今まで知らなかったことを読むと、それで救われたりなぐさめられたりは必ずしもしないけれど、「ああ、まだ世界には自分の知らない空間があるのだから、行きづまっている今の自分にも、きっと楽に息ができる空間があるのではないか」と、思えるのです。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 奥泉光 平野啓一郎 吉田修一 島田雅彦 山田詠美 堀江敏幸

堀江敏幸59歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題加速度のある言葉の運び　総行数86　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 市川沙央 43歳 全 ○ 19 「常識的な思考をかきまわす加速度のある言葉の運びは、主人公が置かれている状態によってのみ生まれたのではなく、小説が小説として生み落としたものだ。結末は全体を相対化する重要な装置であると同時に、書かれた人物の思考から外へはみ出した意思の光だと受け取りたい。」 石田夏穂 31歳 全 △ 17 「世界を成り立たせている細部への向き合い方を、いま一度考えさせてくれる作品だ。しかし「無胴鋼状態」の危険を語る言葉には、まだ安全帯がついている。「端正な溶接線」の呪縛が溶けたときの炎の色を、作者はもう見すえているのではないか。」 児玉雨子 29歳 全 △ 15 「愛称や芸名を代入しても埋められない気持ちの空白に読み手を誘い込むリズムがいい。そのリズムが時々乱れるのは、大事な語り手の名を「雪がれる」という受け身で紐付けたせいかもしれない。」 千葉雅也 44歳 全 ■ 14 「過去の作品の、時期の異なる主人公の姿を穏やかに呼び寄せる。時代の意匠も懐かしく興味深いのだが、場面と場面の半田付けにやや粗い部分があって、アンプの火入れはこれからという気がする。」 乗代雄介 37歳 全 □ 21 「人物設定の巧みさ、張られた伏線を丁寧に回収してゆく技術の高さは練達の域に達している。」「一点、孤独という言葉の自注は控えてもよかったかもしれない。語り手が抱えている「誠」のさみしさは、隙のない展開と会話でもう十分に伝えられている。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 奥泉光 平野啓一郎 吉田修一 島田雅彦 山田詠美 川上弘美

市川沙央43歳×各選考委員　 「ハンチバック」 短篇 90枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 69歳 全 □ 39 「わたしなどがこれまで遭遇したことも想像したこともなかった人生の姿がなまなましい文章で活写されており、読者の情動を激しく攪拌せずにおかない衝動的な内容になっている。」「ただ、フェラチオの挿話をはじめ、複雑な層をなしているはずの主人公の心象の、いちばん激しい部分を極端に誇張する露悪的な表現の連鎖には辟易としなくもない。この辟易感は文学的な感動とはやはり少々異質なものではないか。」「（引用者注：「それは誠」と共に）△――という判断で選考会に臨んだ。」 小川洋子 61歳 全 △ 26 「釈華が妊娠と中絶を望むのは、（引用者中略）自分より貧乏で不幸で頭の悪い子たちのレベルに追いつき、彼女らを見下したいのだ。」「しかし、田中の精液を飲み込んで死にかける姿には、常に生死の境に立たされている彼女に堆積した、底知れない疲労が透けて見える。」「もう一人の紗花が現れ、釈華の像が奥行きを増すラストには、内なる他者が、書く自由を手に入れ、飛翔する瞬間が刻まれている。」 奥泉光 67歳 全 □ 25 「技術的配慮を超えたところで、力なるテクストとして屹立しているのはたしかで、本作の受賞には全く異論はない。」「たとえば、唐突に旧約聖書「エゼキエル書」からの引用が置かれて、これははずした方がよいのではと、テクストの均整の点からは考えられそうだけれど、作者には置くべきとの判断があったに違いなく、そうした直感に身を委ねて魅力あるテクストを紡ぎ出す作者の才には特別のものがあるのかもしれない。」 平野啓一郎 48歳 全 ◎ 32 「高く評価した」「障害者の立場から社会の欺瞞を批評し、解体して、再構成を促すような挑発に満ちている。文体には知的な重層性があり、表現もよく練られていた。」「本書が突きつける問いの気魄は、読者に安易な返答を許さない。」 吉田修一 54歳 全 ◎ 43 「とにかく小説が強い。一文が強いし、思いが強い。」「作者自身の人間的成熟が、この強さを、さらには毒気のあるユーモアを生んでいる。」「僕たち（私たち）は多様性をどこまで受け入れられるだろうか？　理解できるだろうか？　などとい昨今の生ぬるい上から目線の問題提起を「ハンチバック」は小気味よく一蹴してくれる。」 島田雅彦 62歳 全 ○ 36 「「私」が繰り出す悪態のカデンツァは露悪を突き抜け、独特のヒューモアを醸し出し、悟りの境地にさえ達している。コトバも骨も屈折しているが、心は不屈だ。自発的服従者ばかりのこの国で不服従を貫く「私」の矜持に敬意を払う。」「エピローグでは、一人の小説家の誕生が仄めかされている。こうなったら、開き直って書いていくしかないという決意の表明と受け止めた。」 山田詠美 64歳 全 ◎ 20 「文学的に稀有なＴＰＯに恵まれたのはもちろん、長いこと読み続け、そして書き続けて来た人だけが到達出来た傑作だと思う。文章（特に比喩）がソリッドで最高。このチャーミングな悪態をもっとずっと読んでいたかった。」 川上弘美 65歳 全 ◎ 23 「客観性ある描きよう、幾重にもおりたたまれているけれど確実に存在するユーモア、たくみな娯楽性。小説、というものの勘どころを、知悉している作者だと思いました。一番に推しました。」 堀江敏幸 59歳 全 ○ 19 「常識的な思考をかきまわす加速度のある言葉の運びは、主人公が置かれている状態によってのみ生まれたのではなく、小説が小説として生み落としたものだ。結末は全体を相対化する重要な装置であると同時に、書かれた人物の思考から外へはみ出した意思の光だと受け取りたい。」

他の候補作 石田夏穂 「我が手の太陽」 児玉雨子 「##NAME##」 千葉雅也 「エレクトリック」 乗代雄介 「それは誠」

石田夏穂31歳×各選考委員　 「我が手の太陽」 中篇 167枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 69歳 全 ― 0   小川洋子 61歳 全 ○ 27 「最も強く惹きつけられた。溶接の手順をただ説明しているだけのようでありながら、鉄鋼や火や溶接線といった無感情なものたちが、作業者の手と結びつき、人間の心をあぶり出してゆく。そこにダイナミックな運動を感じた。」「残酷な哀れみを描ききった石田さんの執念を称えたい。」 奥泉光 67歳 全 ○ 16 「綿密な取材を重ねた上での、溶接作業の、それこそ職人技的描出の徹底が魅力あるテクストとなって結実した。主人公への視点の密着がやや息苦しく、かたりがもっと揺れ動くグルーヴが欲しいとも思ったが、それはまた別の作品になるだろう。」 平野啓一郎 48歳 全 ○ 20 「作者のフェティシズムの表現という意味では前候補作の同工異曲のようだが、工場建築の溶接工という設定により、社会的な広がりのある作品となった。」「綿密な調査に基づく正確な文体も、作者の個性として確立されており、受賞に値する水準の作品だった。但し、タイトルと終わり方には疑問がある。」 吉田修一 54歳 全 ■ 17 「今この選評を書いているのが36℃を超える猛暑日だからというわけではないが、この作品の「現場」からは、その現場感というか、臭いというか、埃っぽさというか、そういった雑味がまったく伝わってこない。とても面白い「溶接工資格取得用テキスト」を読んでいるようだった。」 島田雅彦 62歳 全 △ 17 「職人小説というジャンルがあるとすれば、彼女は紛れもなく第一人者だ。」「業界用語を散りばめ、リアリズムに徹した、まさに散文的な筆致ながら、火への畏敬、道具へのフェティシズムを追求してゆくので、自ずと神話的趣きを呈してくる。」 山田詠美 64歳 全 ◎ 13 「私は、この種の仕事に関してまるで無知なのだが、作業する現場、集中する作業員の手許までが、はっきりと見える気がした。正確な描写で現実にないものを正確に浮き彫りにしたと感心した。」 川上弘美 65歳 全 ■ 11 「「伊東」の、誇り高さと尊大さのあやういバランスが尊大さに傾いてゆく過程を描こうとしたことは、大いなる挑戦でした。ただ、わたしはその過程が腑に落ちなかったのです。」 堀江敏幸 59歳 全 △ 17 「世界を成り立たせている細部への向き合い方を、いま一度考えさせてくれる作品だ。しかし「無胴鋼状態」の危険を語る言葉には、まだ安全帯がついている。「端正な溶接線」の呪縛が溶けたときの炎の色を、作者はもう見すえているのではないか。」

他の候補作 市川沙央 「ハンチバック」 児玉雨子 「##NAME##」 千葉雅也 「エレクトリック」 乗代雄介 「それは誠」

児玉雨子29歳×各選考委員　 「##NAME##」 中篇 198枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 69歳 全 ◎ 36 「候補作五篇のうち、（引用者中略）もっとも心惹かれた。」「児童ポルノや漫画の二次創作といったきわものめいた主題に依りながら、思春期から青春期に向かってどう離陸するかという意外に古風な成長物語の、新鮮な一変奏が篤実に追求されていると感じた。ただ、聡明な作者によって隅々まで知的に造形されているぶん、宇佐美りん「推し、燃ゆ」にあったような無意識的な欲動の奔騰の魅力は乏しいかもしれない。」「○（引用者中略）――という判断で選考会に臨んだ。」 小川洋子 61歳 全 ■ 13 「上手い小説である。」「ただ読み終えた時、虐待された子どもの問題をこんなふうに破綻なくまとめてしまっていいのだろうか、という不安がよぎった。」 奥泉光 67歳 全 △ 9 「「ジュニアアイドル」である、あるいはかつてそうであった「私」を主人公に捉えた一篇で、その活動が児童ポルノとして消費される構造を描きながら、少女らの思いに寄り添う作者の姿勢には共感でき、力量を感じた。」 平野啓一郎 48歳 全 △ 15 「アイドル活動に偽装した児童ポルノの被害者を主人公とし、その成長と共に芽生える当事者意識を、巧みな時間構成で描いている。」「「水の底のように冷房が効いた」などのいい加減な比喩が多出する点は残念だった。編集者の仕事も問いたい。」 吉田修一 54歳 全 ■ 10 「現代社会の恥部を描いた佳作であるが、文章やエピソードをもっと大胆に刈り込んだ方がさらにこの美点が生きてくると思う。」 島田雅彦 62歳 全 △ 14 「一方的に性的対象として見られ、児童ポルノの領域に引き摺り込まれる酷薄な世界から自分を解放することができるのか？　同じ境遇の少女たちの共感が得られることはいうまでもないが、もう一歩踏み込めば、復讐劇になるのだが。」 山田詠美 64歳 全 △ 15 「読んでいてとても楽しめた。ところが、新しいものに、これほど彩られたこの小説、何だか古い感じがするのである。この「古さ」は、本来、「普遍」に通じるもので、それはまた「不変」を勝ち得ることも出来る。そこに行くスキルを磨くには、紋切り型の言い回しを止めること。」 川上弘美 65歳 全 △ 10 「うまい小説だなあ、と思いました。表現しようとしていることが過不足なく表現されている。」 堀江敏幸 59歳 全 △ 15 「愛称や芸名を代入しても埋められない気持ちの空白に読み手を誘い込むリズムがいい。そのリズムが時々乱れるのは、大事な語り手の名を「雪がれる」という受け身で紐付けたせいかもしれない。」

他の候補作 市川沙央 「ハンチバック」 石田夏穂 「我が手の太陽」 千葉雅也 「エレクトリック」 乗代雄介 「それは誠」

千葉雅也44歳×各選考委員　 「エレクトリック」 中篇 220枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 69歳 全 ― 0   小川洋子 61歳 全 ■ 5 「ラストはずるいほどに鮮やかだった。だからこそ、そこへ至るまでの一文一文にもう少し緊張感がほしかった。」 奥泉光 67歳 全 ● 7 「前作同様「私小説」的な結構の一篇だが、なぜ「私小説」にこだわるのか、作者には探求すべき何かがおそらくあるのだろうが、いまのところ自分には見えない。」 平野啓一郎 48歳 全 ● 8 「各要素が点景的に置き去りにされたまま、物語が、「野村さん」の謎めいた言動に焦点化されてゆく構成に、技術的な課題が残った。」 吉田修一 54歳 全 ■ 17 「この手の父子ものはすでに台湾のツァイミンリャンが色っぽく成し遂げているし、逆に最近ではロバート・デ・ニーロがゲイだった実父のドキュメンタリーを撮ったりと時代は進んでおり、本作のような仄めかしだけではちょっと弱いのかもしれない。」 島田雅彦 62歳 全 ■ 9 「地方都市に根ざした私的青春グラフィティーには一定のニーズがあるとはいえ、やはり過去作との比較に耐え、かつ新機軸を打ち出すことが求められる。」 山田詠美 64歳 全 ● 18 「この作者の良さは「知性と野性はあざなえる縄の如し」とでも形容したくなるような言葉から滲み出る冷気と熱気のもつれ具合にあったと思う。今回は、それらがほどけて点になってしまった印象。」「何か中途半端な感じがして、残念だった。」 川上弘美 65歳 全 ■ 9 「作者の、ある種の無防備な書きよう（むろんそれは意図された無防備さです）を、わたしは作者の美質だと思っているのですが、今回は、キーワードがキーワードのまま放り出されてしまっていたのではないか。」 堀江敏幸 59歳 全 ■ 14 「過去の作品の、時期の異なる主人公の姿を穏やかに呼び寄せる。時代の意匠も懐かしく興味深いのだが、場面と場面の半田付けにやや粗い部分があって、アンプの火入れはこれからという気がする。」

他の候補作 市川沙央 「ハンチバック」 石田夏穂 「我が手の太陽」 児玉雨子 「##NAME##」 乗代雄介 「それは誠」

乗代雄介37歳×各選考委員　 「それは誠」 中篇 291枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 69歳 全 □ 30 「個人的にはわたしが好むジャンルのお話で、細部に至るまで考え抜かれ、作り込まれている印象があり、作為感の過剰が鼻につくのを我慢しさえすれば、平凡な美談と言えなくもない結末に爽快なカタルシスは一応ある。」「ただ、『スタンド・バイ・ミー』はともかく、『ライ麦畑でつかまえて』を否応なく思い起こさせてしまうのはこの作品の不運だろう。」「（引用者注：「ハンチバック」と共に）△――という判断で選考会に臨んだ。」 小川洋子 61歳 全 ■ 15 「忘れ難いのは、小さな女の子が投げ上げる落ち葉に、陽光が当たる場面だ。」「乗代さんの魅力は、理屈を超えた偶然の混沌を、独特の手つきですくい上げるところにあると思う。今回はその混沌を、上手く整理しすぎたのかもしれない。」 奥泉光 67歳 全 ○ 17 「（引用者注：「我が手の太陽」と共に）高く評価した。」「話の中身も、最初はばらばらだった人物らが、行為を通じて「結束」していく喜劇（ルビ：コメディ）の構造を踏襲して過不足ない。物語の持つ陳腐さを恐れず、エンターテインメントの技法を駆使してプロットを構成する技術は高い。」 平野啓一郎 48歳 全 ● 15 「すべてがあまりに作者の趣味的な作意通りに書かれており、それを揺るがす他者性の欠如故に小説としては深みがない。」「本作の完成度の高さを評価する意見には賛同できなかった。」 吉田修一 54歳 全 △ 18 「たとえば小説の技術を細分化して採点したら、ほぼ満点なのではないかと思う。ただ、これが選考会の場で「ハンチバック」のような作品と並んでしまうと力負けしてしまうのが小説の面白さなのだろう。」「とはいえ、特にラストの武蔵野線のシーンは素晴らしかった。」 島田雅彦 62歳 全 △ 13 「次点ということになったことが、過去三回の乗代氏の作品と比較すると、リーダビリティは向上しているのだが、それが逆に自在な語り芸のマンネリズムを引き寄せてしまった感がある。」「破綻や不気味さが影を潜めているのが残念。」 山田詠美 64歳 全 ● 13 「修学旅行のグループ編成ではじかれてしまった時の気分をいまだ持ち続けているいじけた私には、この作品の良さがどうしても解らないのである。吃音の扱いも気になったし。」 川上弘美 65歳 全 ◎ 22 「作者は、いつも「小説を書く」ことをたいへんに意識しているように感じられます。その意識が、今回の作品の中では、書かれていることとなめらかに溶けあっており、読んでいてなんと楽しい時間だったことか。」「（引用者注：「ハンチバック」と共に）強く推しました。」 堀江敏幸 59歳 全 □ 21 「人物設定の巧みさ、張られた伏線を丁寧に回収してゆく技術の高さは練達の域に達している。」「一点、孤独という言葉の自注は控えてもよかったかもしれない。語り手が抱えている「誠」のさみしさは、隙のない展開と会話でもう十分に伝えられている。」

他の候補作 市川沙央 「ハンチバック」 石田夏穂 「我が手の太陽」 児玉雨子 「##NAME##」 千葉雅也 「エレクトリック」