第173回

第172回

令和7年/2025年上半期 令和7年/2025年7月16日決定発表／『文藝春秋』令和7年/2025年9月号選評掲載

選考委員　 松浦寿輝 71歳 小川洋子 63歳 山田詠美 66歳 吉田修一 56歳 島田雅彦 64歳 平野啓一郎 50歳 奥泉光 69歳 川上弘美 67歳 川上未映子 48歳 選評総行数　 95 85 90 95 88 89 90 100 76 評 評 評 評 評 評 評 評 評 候補作 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 評価 行数 グレゴリー・ケズナジャット　「トラジェクトリー」 146枚 41歳 評 ◎ 29 ■ 14 ● 14 △ 28 ■ 28 △ 20 ■ 5 ■ 19 ○ 30 駒田隼也　「鳥の夢の場合」 200枚 30歳 評 ◎ 28 △ 16 △ 7 △ 20 ■ 11 ■ 22 △ 32 ■ 24 △ 17 向坂くじら　「踊れ、愛より痛いほうへ」 159枚 30歳 評 ■ 13 ■ 26 ■ 15 ■ 25 △ 11 ■ 26 □ 7 ■ 26 ■ 17 日比野コレコ　「たえまない光の足し算」 213枚 21歳 評 △ 28 △ 29 ○ 7 ■ 22 ◎ 19 ■ 35 △ 27 △ 34 ■ 15                   年齢/枚数の説明   見方・注意点

松浦寿輝71歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題静けさへの意志と人生の軌道　総行数95　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 ◎ 29 「（引用者注：「鳥の夢の場合」と共に）推した。」「自分の居場所を見つけられずに夜の住宅街をさまよい、そこに住む人々の気配に耳を澄ます主人公の孤独と寂寥が哀切だ。」「候補作四篇のうち、成熟した大人の知性と感性を貫徹した、いちばん「ふつう」の小説の形に近い作品が、日本語を母語としない作者によって書かれているという事実はアイロニカルと言うほかない。」 駒田隼也 30歳 全 ◎ 28 「（引用者注：「トラジェクトリー」と共に）推した。」「一種不思議な静けさと滑らかさが沁み渡った文章の、やや離人症的な透明感に独自の魅力を感じた。」「ただ、結末近く、「蓮見」の旧友の「葉澄」が河川敷で鹿を撫でていたり、その「葉澄」が空港で再登場し「初瀬」と出会ったりするあたりのご都合主義的展開は、物語の説得力を著しく削いでいる。」 向坂くじら 30歳 全 ■ 13 「作品の前半、母親との葛藤を軸に周囲の世界との齟齬が深まってゆく子供時代の部分は面白く読んだが、男友だちの祖母の「あーちゃん」との交流が語られる後半部分は作りものの印象があり、無用に冗漫と思われた。」 日比野コレコ 21歳 全 △ 28 「情報化時代の制度に亀裂を入れるにはもはや禁欲的な「断食」では足りず、猛烈なエネルギーによる「異食」が必要とされるのか。ただ、突拍子もない比喩をちりばめたけたたましい文体と寓話的趣向は、カフカというよりむしろ「新感覚派」ないしシュルレアリスムふうで、意外に古風な「前衛」作品なのかもしれない。」

他の選考委員 小川洋子 山田詠美 吉田修一 島田雅彦 平野啓一郎 奥泉光 川上弘美 川上未映子

小川洋子63歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題居場所はどこに　総行数85　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 ■ 14 「アポロ十一号の記録に対するカワムラさんの執着に、ブランドンはもっと辛抱強く付き合ってほしかった。次々通過してゆく大勢の人々の中に、いつの間にかカワムラさんは埋もれてしまった。」 駒田隼也 30歳 全 △ 16 「『鳥の夢の場合』に出てくるさまざまなイメージは、互いに重なり合い、何色とも断定できない、揺らめく世界を形作ってゆく。」「この見事な筆さばきは、間違いない才能だろう。だからこそ、書き手は自分の筆に安住してはいけない。書き手もまた、居場所を探し続けなければならないのだ。」 向坂くじら 30歳 全 ■ 26 「あーちゃんの持ついかがわしさの、何と心地よいことか。あーちゃんのいい加減な仕切りで、生まれなかったアンノの妹を弔う場面が、特に忘れがたい。」「ただ惜しいのは、踊りとアンノのつながりが中途半端なままで終わってしまった点だ。踊りがもたらす肉体の波動をもう少し丁寧に迫ってゆけば、彼女の居場所の空虚さが、より切実に伝わってきたのではないだろうか。」 日比野コレコ 21歳 全 △ 29 「いつ爆発するか分からない時計台、展望台の階段で商売をする少年少女、《痛くない出口》である池。こうした舞台設定は、読み手から「何故」という問いを奪うだけの、独特な迫力を持っている。」「しかし、軟派師が登場してきたあたりから、まがまがしいエネルギーが急速に衰え、ありふれた青春小説ふうになってしまった点が、残念でならない。」

他の選考委員 松浦寿輝 山田詠美 吉田修一 島田雅彦 平野啓一郎 奥泉光 川上弘美 川上未映子

山田詠美66歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題「選評」　総行数90　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 ● 14 「題名が不親切なのはどうなんだろう。」「日本語と英語の間を誠実に行き来しようとし過ぎたせいか、ここに出て来るアメリカ人たち、アメリカかぶれの日本人みたいに喋ってる。変。」 駒田隼也 30歳 全 △ 7 「チャレンジングな姿勢はとても良いが、思わせぶりなシーンが多くて疲れる。もっと整理してみてはどうか。」 向坂くじら 30歳 全 ■ 15 「「愛」が気恥ずかしい言葉だというのを久し振りに思い出した。」「だいたい「愛に似たもの」や「比喩としての死」の方向に逃げたがる書き手が多いのだが、ここには、真っ向勝負の「愛」や「死」があり、そこが評価出来る。しかし、もう一歩踏み込まないと小説内便利グッズのままになってしまう。」 日比野コレコ 21歳 全 ○ 7 「過剰な比喩が時々大失敗しながらも、きらきらしてる。この先、ブラッシュアップされて洗練に行き着くのか、饒舌を極めてキッチュの権化になるのか。楽しみでならない。」   「今回は、芥川賞直木賞ともに受賞作なしという結果になった。」「この賞は、選考委員が、批評家でもなく、書評家でもなく、書店員でもなく、読者でもない、小説の実作者たちである」「中には、何も解っていない選考委員たちのせいで、書店業界は大打撃だという意見もあったが、昨今の出版不況は、私たち選考委員だけのせいだろうか。だったら、本を売るために意に染まない候補作を何とか授賞に持って行けば喜んでもらえるのだろうか。でも、誰に？」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 吉田修一 島田雅彦 平野啓一郎 奥泉光 川上弘美 川上未映子

吉田修一56歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題選評　総行数95　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 △ 28 「ここには一人の青年の孤独が描かれている。それが全てであり、それ以上でもそれ以下でもない。」「退職後に英会話学校に通うカワムラさんが良かった。昨今、登場人物の個性はよく論じられるが、魅力はあまり議論の対象にならない。今回も他の三作が個性優先の中、本作だけがカワムラさんの、ひいては人の魅力に触れようとしているように見えた。」 駒田隼也 30歳 全 △ 20 「わりとオーソドックスな手法の小説で、ただ、この独特なリアリズムには中毒性があるし、読んでいて、こちらが何か理解しそうになると、ファンタジー要素と視点移動（魚や鳥にまで及ぶ）で、読者を煙に巻いてしまう手捌きも新人とは思えぬ手だれ感がある。結果、とてもいい意味で、よく分からない小説になっていて、読後ぽっかりと大きな穴があく。この穴に睡蓮でも咲けば、「日々の泡」の完成となるのだろうか。」 向坂くじら 30歳 全 ■ 25 「飽和状態にある（傑作も多い）母と娘の確執部門に、果敢にエントリーされた心意気は買う。母親の過干渉や支配、娘の反発や依存という規定要素もきちんと押さえられており、さあ、次の自由演技はいかに、と期待したのだが、残念ながら新味は感じられなかった。」 日比野コレコ 21歳 全 ■ 22 「実際に読んでみると、みなしご願望全開の身勝手な若さだけが後味として残ってしまった。とはいえ、美文ならぬ汚文（褒めてます）とでも呼びたくなるような、なかなか喉を通ってくれない独特な文章がこの作品世界を強くしているのだろうとも思った。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 山田詠美 島田雅彦 平野啓一郎 奥泉光 川上弘美 川上未映子

島田雅彦64歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題低調ではなかった　総行数88　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 ■ 28 「自ら異世界を映し出す鏡になる川端的な手法で書かれているためか、当事者の心理が見えにくい。」「本来のアメリカとはかけ離れ、標準化、無害化されたアメリカと主人公は向き合っているはずだが、それがほとんど意識されないし、カワムラとの交流も自然消滅してしまう。」「ケズナジャット氏は、日本との屈折した関係、アメリカとの違和、異世界に生きる孤独を深く掘り下げる第二章、第三章を書くべきだ」 駒田隼也 30歳 全 ■ 11 「現代の「夢の中での日常」として評価し得るが、ありふれた光景を異化することに熱心なあまり、情景が思い浮かべにくい。」「自分の言語モデルをリニューアルする試みだったのだろうと受け止めた。」 向坂くじら 30歳 全 △ 11 「家族との絆や理解を拒み、孤立を求めて、一種の「無駄な」抵抗運動を展開する話だが、親に反抗する子どもが押し入れに立て籠もるように、自分だけの居場所を作る示威行動が社会に向けられれば、即階級闘争に進化し得る。」 日比野コレコ 21歳 全 ◎ 19 「今回の私の一押し」「突飛なメタファーのコレクターである作者の言語実験に立ち会うのが楽しかった。」「仮想現実を生き抜くのに最適な自己像を仮構し、それぞれ異食の道化師、抱擁師、軟派師として、世界や他者との関わり方を実践する現代の青春群像となっている。」   「選考会でつけられた○の数が全体で四つだけ、しかも票が割れたので「該当作なし」はやむを得なかった。」「一九八〇年代に六回候補になり、そのうち五回該当作なしだったという苦い経験を持つ私は当時の選評を恨みとともに覚えている。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 山田詠美 吉田修一 平野啓一郎 奥泉光 川上弘美 川上未映子

平野啓一郎50歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題今後に期待する　総行数89　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 △ 20 「各登場人物の描き分けが巧みで、文体も落ち着いている。」「「カワムラさん」のような印象的な人物もいて（但し、日記はうまく書けすぎている）、佳作だったが、近年の芥川賞の高い水準、また他の候補作の野心的な試みと比して、物足らなさがあったのは否めない。」 駒田隼也 30歳 全 ■ 22 「シェアハウスの同居人の餓死と、刺すことで彼を二度殺すという主人公の妄想に、主題としての十分な強度があるが、それを掘り下げることに作者が集中しきれなかった。」「全体に、作者が日々、考えたこと、感じたことが、そのまま書かれている憾みがあり、それが原因して各登場人物の分離も悪かった。」 向坂くじら 30歳 全 ■ 26 「アンノと母親との関係は目立つ割に中途半端で、堕胎された子供との会話も生かされなかった。「あーちゃん」の遺言を聞いた後のアンノの自己分析が、作者の声となってしまっている点など、編集作業のあり方も気になった。」 日比野コレコ 21歳 全 ■ 35 「随所に独創的な認識、表現があり、文体も尻上がりに調子を上げている。問題は、寓話性とリアリズムとのバランスの悪さである。」「後段のマッチョな軟派師や盗撮動画の流出など、がっかりさせられる道具立てと相俟って、未整理な印象を与えている。「出口」という言葉に象徴される、一種、実存主義的な結末も、勢いと勢い任せの紙一重である。」   「受賞作が出なかったことは残念だが、いずれも、可能性に富んだ候補作であり、今後のキャリアを考えても、もう一段上の水準の作品で、近い将来に受賞した方が良いと思う。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 山田詠美 吉田修一 島田雅彦 奥泉光 川上弘美 川上未映子

奥泉光69歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題わが方針に殉じたかったが　総行数90　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 ■ 5 「気持ちよく読めたが、方法的な企みはさほどなく、自分には推しにくい作品だった。」 駒田隼也 30歳 全 △ 32 「人称や視点を自在に揺らがせることで、生と死、現と夢のあわいのごとき場所を作り出す意欲的な作品である。」「小説の展開に力動を与える中心を欠いたまま、言葉が気流のように世界に吹き込んでくる、とでも云おうか。」「（引用者注：「たえまない光の足し算」と共に）いわゆる完成度の点で、強くは押し切れぬ憾みが残った。」 向坂くじら 30歳 全 □ 7 「贔屓の作品ではなかった。が、選考の場では、これを消極的ながら推した。主人公の独特な孤独の相が小説世界に広がり染み渡る気配にしばし気を奪われた。」 日比野コレコ 21歳 全 △ 27 「描かれる世界に現実味と幻想性を同時に与えるべく、奇抜なレトリックを駆使し、また伝統的な「た体」の文章を連ねるなど、さまざまな工夫を凝らした、これも意欲と野心に満ちた作品だ。」「（引用者注：「鳥の夢の場合」と共に）いわゆる完成度の点で、強くは押し切れぬ憾みが残った。」   「表現に関わるジャンルはいずれも同様だろうが、小説の場合、複数の作品を並べて優劣をつけるのはそもそも無理があり、喩えて云うなら、犬猫羊猿兎と並べて、一番いいのを選ぶようなものである。しかしそんなことを云っていたら、選考などできない。そこで己が「好み」になるべく殉じようとの方針を立ててみた。」「ジャーナリスティックに考えたら、受賞作はでた方がいいに決まっている。しかし、選考委員はジャーナリスティックに振る舞わない方がいいと思う。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 山田詠美 吉田修一 島田雅彦 平野啓一郎 川上弘美 川上未映子

川上弘美67歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題ゆだねる　総行数100　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 ■ 19 「読者に作中の人々の感情への共感を要求しない書きように、親近感を覚えました。」「惹かれるところが多々あったのですが、最後のページの「そんな言葉の合間からまったく別のものが覗いていた」と視点人物がつぶやく、その「合間」から、物語はさらに奥深くなるだろうに、そこでおしまいが来てしまったことが残念だったのです。」 駒田隼也 30歳 全 ■ 24 「「初瀬」と「わたし」という三人称と一人称の視点を同時使用する部分と、「わたし」という一人称だけを使う部分の書き分けの意味が、もっと得心ゆくように届いてきてくれていたらと、惜しみます。「意味」を明確に示さずに読者にゆだねる、という方法はもちろん有効であり、むしろゆだねることのできた作品の方がよりよくなることも多いのですが、この作品に関しては、ぎりぎりのところで「ゆだねる」と「迷う」がバランスを失ってしまったように感じました。」 向坂くじら 30歳 全 ■ 26 「冒頭近くで、「アンノ」の「お母さん」が「アンノを信じる母親」を正しく演じていることに「アンノ」が怒る正当性も好きでしたし、何より、「あーちゃん」がよかった。」「この小説の表現として作者が選んだ「リアル」のありかたに、テント生活の部分の描写が追いついていないと感じました。」 日比野コレコ 21歳 全 △ 34 「なんと惜しみなく言葉が使われていることかと、「たえまない光の足し算」を読んで思いました。」「けれど、作者の膂力によって作りあげられた世界と、現実の世界が、不用意に接続されている、と感じてしまう瞬間が何回かあり、そのうえおそらく作者はそこに気がついているのかもしれない、とも感じたのです。」「よくここまで頑張ったな、と、応援したくなる作者でした。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 山田詠美 吉田修一 島田雅彦 平野啓一郎 奥泉光 川上未映子

川上未映子48歳×各候補作

年齢/枚数の説明 見方・注意点

題孤独のために　総行数76　（1行=13字） 候補 評価 行数 評言 グレゴリー・ケズナジャット 41歳 全 ○ 30 「アパートと月面、ありふれた街中と宇宙船の対比もよく、世界のどこでどんな言語を使おうが、人間には「今、ここ」しかなく、共感でも傍観でも訴えでもないこのような語られかたを必要とする孤独があるのだと思わされる。今回は相対評価で『トラジェクトリー』のみ受賞の水準に達しているのではないかと思い選考に臨んだ」 駒田隼也 30歳 全 △ 17 「人称を移動し、あたかもウイルスのように人の生活のなかに発現するそれらの営みともいえない現れの永劫性が、言葉をもたない文鳥に収斂されるイメージはうつくしい。主役にして動脈である異和と感覚の描写の反復に、そして語り全般にリズムがあればよかったのだが。」 向坂くじら 30歳 全 ■ 17 「冴えた描写や比喩もあるいっぽうで、小道具や場面や人間関係などにつよい既視感がある。また視点人物を一段低く設定し、そこに少々露悪的な感受性をかけあわせる幼さの演技的手法は、書き手にらくをさせ、また容易く何かを書けている気持ちにさせるので注意が必要だ。」 日比野コレコ 21歳 全 ■ 15 「若い人たちの葛藤や混沌を描くために必要な道具立てなのかもしれないが、どう親切に読んでも思いつきの連続でしかなく、文体にしろ構成にしろ人物造型にしろ、この寓話世界を成立させるための基盤がない。」「未知の様々をものしようとする野心は大いに買うが、まずは書けるものを書けるようになる訓練が必要だろう。」

他の選考委員 松浦寿輝 小川洋子 山田詠美 吉田修一 島田雅彦 平野啓一郎 奥泉光 川上弘美

グレゴリー・ケズナジャット41歳×各選考委員　 「トラジェクトリー」 短篇 146枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 71歳 全 ◎ 29 「（引用者注：「鳥の夢の場合」と共に）推した。」「自分の居場所を見つけられずに夜の住宅街をさまよい、そこに住む人々の気配に耳を澄ます主人公の孤独と寂寥が哀切だ。」「候補作四篇のうち、成熟した大人の知性と感性を貫徹した、いちばん「ふつう」の小説の形に近い作品が、日本語を母語としない作者によって書かれているという事実はアイロニカルと言うほかない。」 小川洋子 63歳 全 ■ 14 「アポロ十一号の記録に対するカワムラさんの執着に、ブランドンはもっと辛抱強く付き合ってほしかった。次々通過してゆく大勢の人々の中に、いつの間にかカワムラさんは埋もれてしまった。」 山田詠美 66歳 全 ● 14 「題名が不親切なのはどうなんだろう。」「日本語と英語の間を誠実に行き来しようとし過ぎたせいか、ここに出て来るアメリカ人たち、アメリカかぶれの日本人みたいに喋ってる。変。」 吉田修一 56歳 全 △ 28 「ここには一人の青年の孤独が描かれている。それが全てであり、それ以上でもそれ以下でもない。」「退職後に英会話学校に通うカワムラさんが良かった。昨今、登場人物の個性はよく論じられるが、魅力はあまり議論の対象にならない。今回も他の三作が個性優先の中、本作だけがカワムラさんの、ひいては人の魅力に触れようとしているように見えた。」 島田雅彦 64歳 全 ■ 28 「自ら異世界を映し出す鏡になる川端的な手法で書かれているためか、当事者の心理が見えにくい。」「本来のアメリカとはかけ離れ、標準化、無害化されたアメリカと主人公は向き合っているはずだが、それがほとんど意識されないし、カワムラとの交流も自然消滅してしまう。」「ケズナジャット氏は、日本との屈折した関係、アメリカとの違和、異世界に生きる孤独を深く掘り下げる第二章、第三章を書くべきだ」 平野啓一郎 50歳 全 △ 20 「各登場人物の描き分けが巧みで、文体も落ち着いている。」「「カワムラさん」のような印象的な人物もいて（但し、日記はうまく書けすぎている）、佳作だったが、近年の芥川賞の高い水準、また他の候補作の野心的な試みと比して、物足らなさがあったのは否めない。」 奥泉光 69歳 全 ■ 5 「気持ちよく読めたが、方法的な企みはさほどなく、自分には推しにくい作品だった。」 川上弘美 67歳 全 ■ 19 「読者に作中の人々の感情への共感を要求しない書きように、親近感を覚えました。」「惹かれるところが多々あったのですが、最後のページの「そんな言葉の合間からまったく別のものが覗いていた」と視点人物がつぶやく、その「合間」から、物語はさらに奥深くなるだろうに、そこでおしまいが来てしまったことが残念だったのです。」 川上未映子 48歳 全 ○ 30 「アパートと月面、ありふれた街中と宇宙船の対比もよく、世界のどこでどんな言語を使おうが、人間には「今、ここ」しかなく、共感でも傍観でも訴えでもないこのような語られかたを必要とする孤独があるのだと思わされる。今回は相対評価で『トラジェクトリー』のみ受賞の水準に達しているのではないかと思い選考に臨んだ」

他の候補作 駒田隼也 「鳥の夢の場合」 向坂くじら 「踊れ、愛より痛いほうへ」 日比野コレコ 「たえまない光の足し算」

駒田隼也30歳×各選考委員　 「鳥の夢の場合」 中篇 200枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 71歳 全 ◎ 28 「（引用者注：「トラジェクトリー」と共に）推した。」「一種不思議な静けさと滑らかさが沁み渡った文章の、やや離人症的な透明感に独自の魅力を感じた。」「ただ、結末近く、「蓮見」の旧友の「葉澄」が河川敷で鹿を撫でていたり、その「葉澄」が空港で再登場し「初瀬」と出会ったりするあたりのご都合主義的展開は、物語の説得力を著しく削いでいる。」 小川洋子 63歳 全 △ 16 「『鳥の夢の場合』に出てくるさまざまなイメージは、互いに重なり合い、何色とも断定できない、揺らめく世界を形作ってゆく。」「この見事な筆さばきは、間違いない才能だろう。だからこそ、書き手は自分の筆に安住してはいけない。書き手もまた、居場所を探し続けなければならないのだ。」 山田詠美 66歳 全 △ 7 「チャレンジングな姿勢はとても良いが、思わせぶりなシーンが多くて疲れる。もっと整理してみてはどうか。」 吉田修一 56歳 全 △ 20 「わりとオーソドックスな手法の小説で、ただ、この独特なリアリズムには中毒性があるし、読んでいて、こちらが何か理解しそうになると、ファンタジー要素と視点移動（魚や鳥にまで及ぶ）で、読者を煙に巻いてしまう手捌きも新人とは思えぬ手だれ感がある。結果、とてもいい意味で、よく分からない小説になっていて、読後ぽっかりと大きな穴があく。この穴に睡蓮でも咲けば、「日々の泡」の完成となるのだろうか。」 島田雅彦 64歳 全 ■ 11 「現代の「夢の中での日常」として評価し得るが、ありふれた光景を異化することに熱心なあまり、情景が思い浮かべにくい。」「自分の言語モデルをリニューアルする試みだったのだろうと受け止めた。」 平野啓一郎 50歳 全 ■ 22 「シェアハウスの同居人の餓死と、刺すことで彼を二度殺すという主人公の妄想に、主題としての十分な強度があるが、それを掘り下げることに作者が集中しきれなかった。」「全体に、作者が日々、考えたこと、感じたことが、そのまま書かれている憾みがあり、それが原因して各登場人物の分離も悪かった。」 奥泉光 69歳 全 △ 32 「人称や視点を自在に揺らがせることで、生と死、現と夢のあわいのごとき場所を作り出す意欲的な作品である。」「小説の展開に力動を与える中心を欠いたまま、言葉が気流のように世界に吹き込んでくる、とでも云おうか。」「（引用者注：「たえまない光の足し算」と共に）いわゆる完成度の点で、強くは押し切れぬ憾みが残った。」 川上弘美 67歳 全 ■ 24 「「初瀬」と「わたし」という三人称と一人称の視点を同時使用する部分と、「わたし」という一人称だけを使う部分の書き分けの意味が、もっと得心ゆくように届いてきてくれていたらと、惜しみます。「意味」を明確に示さずに読者にゆだねる、という方法はもちろん有効であり、むしろゆだねることのできた作品の方がよりよくなることも多いのですが、この作品に関しては、ぎりぎりのところで「ゆだねる」と「迷う」がバランスを失ってしまったように感じました。」 川上未映子 48歳 全 △ 17 「人称を移動し、あたかもウイルスのように人の生活のなかに発現するそれらの営みともいえない現れの永劫性が、言葉をもたない文鳥に収斂されるイメージはうつくしい。主役にして動脈である異和と感覚の描写の反復に、そして語り全般にリズムがあればよかったのだが。」

他の候補作 グレゴリー・ケズナジャット 「トラジェクトリー」 向坂くじら 「踊れ、愛より痛いほうへ」 日比野コレコ 「たえまない光の足し算」

向坂くじら30歳×各選考委員　 「踊れ、愛より痛いほうへ」 中篇 159枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 71歳 全 ■ 13 「作品の前半、母親との葛藤を軸に周囲の世界との齟齬が深まってゆく子供時代の部分は面白く読んだが、男友だちの祖母の「あーちゃん」との交流が語られる後半部分は作りものの印象があり、無用に冗漫と思われた。」 小川洋子 63歳 全 ■ 26 「あーちゃんの持ついかがわしさの、何と心地よいことか。あーちゃんのいい加減な仕切りで、生まれなかったアンノの妹を弔う場面が、特に忘れがたい。」「ただ惜しいのは、踊りとアンノのつながりが中途半端なままで終わってしまった点だ。踊りがもたらす肉体の波動をもう少し丁寧に迫ってゆけば、彼女の居場所の空虚さが、より切実に伝わってきたのではないだろうか。」 山田詠美 66歳 全 ■ 15 「「愛」が気恥ずかしい言葉だというのを久し振りに思い出した。」「だいたい「愛に似たもの」や「比喩としての死」の方向に逃げたがる書き手が多いのだが、ここには、真っ向勝負の「愛」や「死」があり、そこが評価出来る。しかし、もう一歩踏み込まないと小説内便利グッズのままになってしまう。」 吉田修一 56歳 全 ■ 25 「飽和状態にある（傑作も多い）母と娘の確執部門に、果敢にエントリーされた心意気は買う。母親の過干渉や支配、娘の反発や依存という規定要素もきちんと押さえられており、さあ、次の自由演技はいかに、と期待したのだが、残念ながら新味は感じられなかった。」 島田雅彦 64歳 全 △ 11 「家族との絆や理解を拒み、孤立を求めて、一種の「無駄な」抵抗運動を展開する話だが、親に反抗する子どもが押し入れに立て籠もるように、自分だけの居場所を作る示威行動が社会に向けられれば、即階級闘争に進化し得る。」 平野啓一郎 50歳 全 ■ 26 「アンノと母親との関係は目立つ割に中途半端で、堕胎された子供との会話も生かされなかった。「あーちゃん」の遺言を聞いた後のアンノの自己分析が、作者の声となってしまっている点など、編集作業のあり方も気になった。」 奥泉光 69歳 全 □ 7 「贔屓の作品ではなかった。が、選考の場では、これを消極的ながら推した。主人公の独特な孤独の相が小説世界に広がり染み渡る気配にしばし気を奪われた。」 川上弘美 67歳 全 ■ 26 「冒頭近くで、「アンノ」の「お母さん」が「アンノを信じる母親」を正しく演じていることに「アンノ」が怒る正当性も好きでしたし、何より、「あーちゃん」がよかった。」「この小説の表現として作者が選んだ「リアル」のありかたに、テント生活の部分の描写が追いついていないと感じました。」 川上未映子 48歳 全 ■ 17 「冴えた描写や比喩もあるいっぽうで、小道具や場面や人間関係などにつよい既視感がある。また視点人物を一段低く設定し、そこに少々露悪的な感受性をかけあわせる幼さの演技的手法は、書き手にらくをさせ、また容易く何かを書けている気持ちにさせるので注意が必要だ。」

他の候補作 グレゴリー・ケズナジャット 「トラジェクトリー」 駒田隼也 「鳥の夢の場合」 日比野コレコ 「たえまない光の足し算」

日比野コレコ21歳×各選考委員　 「たえまない光の足し算」 中篇 213枚

年齢/枚数の説明 見方・注意点

選考委員 評価 行数 評言 松浦寿輝 71歳 全 △ 28 「情報化時代の制度に亀裂を入れるにはもはや禁欲的な「断食」では足りず、猛烈なエネルギーによる「異食」が必要とされるのか。ただ、突拍子もない比喩をちりばめたけたたましい文体と寓話的趣向は、カフカというよりむしろ「新感覚派」ないしシュルレアリスムふうで、意外に古風な「前衛」作品なのかもしれない。」 小川洋子 63歳 全 △ 29 「いつ爆発するか分からない時計台、展望台の階段で商売をする少年少女、《痛くない出口》である池。こうした舞台設定は、読み手から「何故」という問いを奪うだけの、独特な迫力を持っている。」「しかし、軟派師が登場してきたあたりから、まがまがしいエネルギーが急速に衰え、ありふれた青春小説ふうになってしまった点が、残念でならない。」 山田詠美 66歳 全 ○ 7 「過剰な比喩が時々大失敗しながらも、きらきらしてる。この先、ブラッシュアップされて洗練に行き着くのか、饒舌を極めてキッチュの権化になるのか。楽しみでならない。」 吉田修一 56歳 全 ■ 22 「実際に読んでみると、みなしご願望全開の身勝手な若さだけが後味として残ってしまった。とはいえ、美文ならぬ汚文（褒めてます）とでも呼びたくなるような、なかなか喉を通ってくれない独特な文章がこの作品世界を強くしているのだろうとも思った。」 島田雅彦 64歳 全 ◎ 19 「今回の私の一押し」「突飛なメタファーのコレクターである作者の言語実験に立ち会うのが楽しかった。」「仮想現実を生き抜くのに最適な自己像を仮構し、それぞれ異食の道化師、抱擁師、軟派師として、世界や他者との関わり方を実践する現代の青春群像となっている。」 平野啓一郎 50歳 全 ■ 35 「随所に独創的な認識、表現があり、文体も尻上がりに調子を上げている。問題は、寓話性とリアリズムとのバランスの悪さである。」「後段のマッチョな軟派師や盗撮動画の流出など、がっかりさせられる道具立てと相俟って、未整理な印象を与えている。「出口」という言葉に象徴される、一種、実存主義的な結末も、勢いと勢い任せの紙一重である。」 奥泉光 69歳 全 △ 27 「描かれる世界に現実味と幻想性を同時に与えるべく、奇抜なレトリックを駆使し、また伝統的な「た体」の文章を連ねるなど、さまざまな工夫を凝らした、これも意欲と野心に満ちた作品だ。」「（引用者注：「鳥の夢の場合」と共に）いわゆる完成度の点で、強くは押し切れぬ憾みが残った。」 川上弘美 67歳 全 △ 34 「なんと惜しみなく言葉が使われていることかと、「たえまない光の足し算」を読んで思いました。」「けれど、作者の膂力によって作りあげられた世界と、現実の世界が、不用意に接続されている、と感じてしまう瞬間が何回かあり、そのうえおそらく作者はそこに気がついているのかもしれない、とも感じたのです。」「よくここまで頑張ったな、と、応援したくなる作者でした。」 川上未映子 48歳 全 ■ 15 「若い人たちの葛藤や混沌を描くために必要な道具立てなのかもしれないが、どう親切に読んでも思いつきの連続でしかなく、文体にしろ構成にしろ人物造型にしろ、この寓話世界を成立させるための基盤がない。」「未知の様々をものしようとする野心は大いに買うが、まずは書けるものを書けるようになる訓練が必要だろう。」

他の候補作 グレゴリー・ケズナジャット 「トラジェクトリー」 駒田隼也 「鳥の夢の場合」 向坂くじら 「踊れ、愛より痛いほうへ」