このページの情報は「直木賞のすべて」内の「選考委員の群像 菊池寛」と同じものです。 | ||
生没年月日【注】 | 明治21年/1888年12月26日~昭和23年/1948年3月6日 | |
在任期間 | 第1回~第16回(通算8年・16回) | |
在任年齢 | 46歳6ヶ月~54歳0ヶ月 | |
経歴 | 本名=菊池寛(キクチ・ヒロシ)。 香川県生まれ。京都帝大文科大学英文科卒。 一高在学中に芥川龍之介らに接し、大正3年第3次『新思潮』、大正5年第4次『新思潮』に参加。 同誌に戯曲「屋上の狂人」「父帰る」などを発表した。 大学卒業後に、時事新報社入社。「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」などの小説で、作家として認められる。 大正12年/1923年、文藝春秋社を創立し『文藝春秋』創刊。 大正15年/1926年、劇作家協会と小説家協会を合併するかたちで日本文芸家協会を組織し、昭和11年/1936年に初代会長に就任した。 戦時中、日本文学報国会や大東亜文学者大会の役員を務め、戦後、公職追放をうけたまま逝去。 また、言うまでもないが、昭和10年/1935年の芥川龍之介賞・直木三十五賞両賞の創設者でもある。 |
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受賞歴・候補歴 | ||
サブサイトリンク | ||
個人全集 | 『菊池寛文学全集』全10巻(文藝春秋新社) | |
備考 | 菊池寛は、『文藝春秋』誌のなかに「話の屑籠」という 自分の考えを発表する欄を持っていたためか、 選評はほとんど書かず、受賞作品についての感想などを「話の屑籠」に書いている。 そこで、当サイトの「選評の概要」では、菊池寛に限って、 「話の屑籠」も参照にして引用している。 |
下記の選評の概要には、評価として◎か○をつけたもの(見方・注意点を参照)、または受賞作に対するもののみ抜粋しました。さらにくわしい情報は、各回の「この回の全概要」をクリックしてご覧ください。
選考委員 菊池寛 47歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
34歳 |
◎ | 8 | 「一番「コシャマイン記」に感心した。」「古いとか新しいとか云う事を離れて、立派な文学的作品であると思った。」「殆んど満場一致で入選したことは、嬉しかった。」 | |
高木卓 | 29歳 |
○ | 3 | 「(引用者注:一番感心した「コシャマイン記」の)その次は、「遣唐船」」「テーマが雄大で、書き足りていないが、しかし相当の力作で、あると思った。」 |
36歳 |
□ | 4 | 「第三(引用者注:に感心したの)は「城外」であった。」「現代物の中では、一番自分の心に残った。」 | |
「第二回の芥川賞銓衡に、僕は一篇も読んでいなかったので、終始黙っていたが、今度はその償いで候補に上ったものは、全部眼を通した。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第一巻』昭和57年/1982年2月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和11年/1936年9月号) |
選考委員 菊池寛 51歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
高木卓 | 33歳 |
○ | 「今度は、授賞中止説が多かったが、自分は高木卓氏の前作「遣唐船」が授賞に値したものであったと思うので、今度の作品は不十分であるが、歴史小説として「遣唐船」と共に上古日本の世界に取材してある点を買って、授賞を主張したのである。審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負うべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人にまかすべきで、褒められて困るようなら、初めから発表しない方がいいと思う。」 | |
「受賞者に擬せられた高木卓氏が受賞を辞退したので、中止することにした。」「ことに芥川賞などは、授賞が内定した以上その受くる名誉は同じで、あとは賞金だけの問題である。辞退して謙譲の徳を発揮したつもりでも、受くるものはちゃんと受けているのである。」「こんなものは素直に受けてくれないと、審査をするものは迷惑である。受賞者の辞退によって、審査貝が鼎の軽重などを問われてはやり切れない。」 | ||||
「話の屑籠」出典:昭和35年/1960年4月・文藝春秋新社刊『菊池寛文學全集 第七巻』(初出:『文藝春秋』昭和15年/1940年9月号) |