直木賞のすべて
菊池寛
「話の屑籠」より
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Last Update[H13]2001/11/26

直木賞の創設者・菊池寛氏は、
作家であり雑誌編集長であり出版社社長であり政治家であり、
その他多種多様な顔を持っていました。
その多様ぶりが顕著に現れているのが、菊池氏が
自ら発行する『文藝春秋』誌に毎月書いた「話の屑籠」です。

Web上には、その全文を読むことができる
「菊池寛アーカイブ」http://www.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/
という有り難いページがあるのですが、

その中でも特に、直木賞や、直木賞受賞者・候補者に関連した部分だけを抽出し、
ここにまとめてみました。

話の屑籠
菊池寛

底本 昭和35年/1960年4月20日・文藝春秋新社刊『菊池寛文學全集 第七巻』
入力日 平成13年/2001年11月25日
※以下、水色の帯の部分は、当サイト管理人P.L.B.が、文の内容がひとめでわかるように独自に付けた題で、原本には存在しません。
※底本どおりに表現できない箇所については赤字で示しました。また、ルビは《》でくくりました。
徳川夢声のユーモア作家たる資格について
 徳川夢声は、映画界の人として、気品稟質の見るべきあり。予もそのつっぱなしたる如き漫談振を愛する一人なるが、此の頃「夢声軟尖集」なる本を出す。ユーモア文学として推称するに足るべし。カツベンとして失業せば、ユーモア作家たるの資格なしとせず。勉むれば、佐々木邦位のユーモア小説は、きっとかけると思う。
(昭和6年/1931年8月)
直木三十五の執筆時間帯について
 直木三十五と云う男は、不思議な男である。木挽町の文藝春秋社クラブなるものに起居しているが、毎晩十一時か十二時頃までは、麻雀をやっている。それが了ってから原稿をかくらしいが、それで新聞を三、四種、雑誌を三、四種かいているのだから、駭《おどろ》く外はない。恐らく、十二時頃から明け方の六時頃までかくのだろうが、あきれたものである。僕などは、夜は一行だって書かない。まして徹夜などしては一行だって書こうとは思わない。
(昭和6年/1931年9月)
井伏鱒二の告白について
 井伏鱒二君が、少年時代鴎外博士にウソの手紙をかいたことを時事新報に告白している。少年時代のいたずらはよいが、それを今更告白することが、いけないと思ったので、大いにやっつけてやろうと思っていると、丁度同君から、「仕事部屋」と云う創作集を送ってよこしたので、つい気の毒になって、やっつけることはよすことにした。
(昭和6年/1931年9月)
直木三十五「南国太平記」についての弁護
 正宗白鳥氏が「改造」十月号で、「南国太平記」のことをけなして居られる。自分は、あの作を二、三度推賞した責任上一言したいと思う。尤も、正宗氏のわるくかゝれている直ぐその次ぎで宇野浩二君が、「南国太平記」の立ち廻りを大に認めているので、自然の反駁になっているわけである。
 正宗氏は、呪咀調伏など馬鹿々々しいと云われるが、しかしそんな馬鹿々々しいことをかいて、しかもあの程度の凄味を出していることを、自分は認めるのである。最初、首のない犬の死体を出し、その次ぎにその犬の飼主の猟師が斬られる悲鳴を聞かせてから、調伏の行われた場所を描写している順序などうまいものだと思うのである。つまらなくてよしたくなったと云う正宗氏の気持は、自分には、到底分らない。夏目さんは、「俺には芝居はつまらない」と云って居られたそうだが、幻覚を持てない人には、芝居はどこまで行ってもウソなのである。正宗さんなども、大衆文芸的幻覚には、陶酔出来ないのではないかと思われる。宇野君が賞めている高野山の乱闘の所などでも、何とか云う浪士が小太郎に「斬られるまゝに斬られていた」光景などは一読しただけで、今でもほうふつとしているほど、感心している。正宗氏が「南国太平記」の引合に賞めて居る「赤穂浪士」など、自分はつまらないと思う。僕は、あの作品を読んで、作家としての大仏氏を大に認めたが、あの作品はつまらなかった。当時、正宗氏が、あの作品を批評して居られたのが、おかしい位だった。自分は、直木が友達だから弁護するのではないが、自分のよんだ「南国太平記」上巻は、大衆文芸として傑作だと思っている。
(昭和6年/1931年11月)
直木三十五の情景人物の活写について
 正月元旦の「東京日日」に自分の談話筆記が載っている。他の点は、よく書いてくれてあるが、ただ一個所たいへんな間違があった。それは、島崎さんの「夜明け前」と直木の「南国太平記」とを比べて「夜明け前」は奇術で「南国太平記」は描写だとかいてあることである。頭のいゝ読者には、奇術が、記述の間違いであることが、すぐ分ってくれるだろうと思う。情景人物を活写している点に於て「南国太平記」の方が勝っている点を云いたかったのである。情景殊に人物を活写《ヴィジュアライズ》し得る点に於て、直木は全文壇を通じて、屈指の人であると信じている。
 情景人物を活写し得る作家と云うのは極めて少い。泉鏡花、里見[扁は弓+旁は享]、直木三十五と挙げて、他は指を何人に屈していゝか分らない位である。こうした手腕は、作家として第一義ではないにしても、最も尊むべき才能であるに違いない。
(昭和7年/1932年2月)
直木三十五のファシズム宣言と、プロレタリヤ文学について
 直木が「読売」にファシズム宣言と云うのをかいて、彼がスターリンになぜ左傾しないかと訊かれたとき、自分が左傾すると左翼の作家が失業するからと答えている。しかし、既成作家の細田民樹、中条百合子、片岡鉄兵を初め超既成作家の江口渙などまでが、転換すると忽ち、左翼で幅を利かすところを見ると、直木にそんなヨタを飛ばされても仕方がないところがある。旧貴族が、ソヴェートで冷遇されるように、転換した既成作家など、左翼では、洟も、ひっかけられないと云うような状勢にならなければ、プロレタリヤ文学などダメである。古手の既成作家などをかつぎ上げて、陣容を整えるなどプロレタリヤ文学の無為無力を暴露している。
(昭和7年/1932年2月)
徳川夢声などの喜劇団について
 今度、徳川夢声、大辻司郎、古川緑波等が一団となって、喜劇団をこしらえることになった。自分も出来るだけ、尽力するつもりでいる。新しい喜劇は、ぜひ必要である。九月頃から、やるつもりでいるから、大方の御後援をねがって置く。
(昭和7年/1932年8月)
直木三十五の宮本武蔵論について
 直木三十五氏が、先日ラジオで宮本武蔵をケナしつけた。自分は宮本武蔵の崇拝者として一言弁じて置く。
 いつの時代にも、偉大なる人間に対してはカゲ口があるのであって、そのカゲ口が、徳川時代に伝わり、それがまた直木君に伝わっているわけである。
 武蔵は、一生のうちに、六十三人と真剣同様の仕合をして一度も負けたことがない。(その当時の一刀流の元祖伊東景久は、三十何回で武蔵の半分位である)しかし直木君は、それは強者を避け、弱い者ばかりとやったと云うのである。それも当時のカゲ口であると思うが、しかし直木君が武蔵以上だと云う徳川時代の某々剣客の中に、弱い相手とでもいゝから、五回でも十回でもいゝ、真剣同様の仕合をやった人がいるかと云うのである。武蔵時代の仕合は、名は仕合でも果し合である。竹刀だけで叩き合った徳川時代の剣客などと強弱を比較しても結局紙上論であって、実際六十三回実戦をして、一度も負けない武蔵が日本の剣客中一番強味を発揮したと云って少しも差し支えがないと思う。武蔵の剣名を知りながら向って来るのだから、そんなに弱い奴ばかりである筈はないのである。
 荒木又右衛門などは、タッタ一度だけ実戦をやり、しかも敵の仲間か何かに一太刀切られたのが鞘に当ったため、やっと無事だったと云うだけでも、武蔵と同程度に剣名を走せているのである。とにかく、真に剣を取っての強弱は、実戦の成績に依る外はないと思う。
 その上武蔵が偉いのは剣ばかりでなく、人間としては日本古来の政治家、軍人、芸術家を、ひっくるめて、五指の中に、はいる人だと思っている。自分は武蔵の独行道十八カ条の中(我事に於て後悔をせず)と云う文句を常に借用しているが、僕が甘んじて借用するほどの文句を、外の誰がかいていると云うのであるか。
 その上、武蔵は種々の余技に通じていたが、その画に至っては、当時の巨匠と比肩して少しも遜色がない。読売の名宝展で、光悦、宗達などの傑作と一室に並べられて、独特の境地を持っているのである。武蔵がヘッポコの剣術使いなら、その剣名よりも画名が伝っている筈である。しかも、武蔵が画をかくなど云うことを誰も知らないほど、その剣名は画名を圧して、いるのである。当時、いかに武蔵の剣名が一代を風靡していたかが分ると思う。
 その上、剣客の強弱比較については、直木君の説も聴かないことはないが、それと同時に高野斎村と云った斯道の大家の説も傾聴しなければならぬ。斎村五郎氏など武蔵第一人者説について自分と全然同意見であった。
(昭和7年/1932年10月)
直木三十五の宮本武蔵論について・再
 直木君と宮本武蔵の議論をいくらやっても信念の相違だから、果しがつかないだろうから、これで打切りにするが、武蔵の逸話に対する直木君の非難など考え方の相違である。卜伝(木伝ともかく。その方が本当かもしれん。こう云う風に物識り振るところは直木君に一寸真似たのである)が、荒馬の尻を遠く避けて歩いたことや、無手勝流の話や、直木君の例証する上泉某が一人の敵を倒すために坊主になった話なども、考え方に依っては、武士の風上にも置けない卑怯千万な話だと云える。とにかく、僕は信じている、上泉某を初め直木君の推称する如何なる剣客も、時処を異にしたため、武蔵と立ち合わなかったのは彼等にとってもっけの幸いである。もし立ち合ったら、みんな手もなく肋骨の二、三枚はやられたであろうと。それから、武蔵が独行道十八カ条を六十近くになって書いたことなどと云うのは間違いで、例の吉岡一族と一乗寺下り松で仕合をするとき、道で神社の前を通り、今日の仕合の大事を思うて、危く神前で祈ろうとし鈴の紐に手をかけたが、平素のモットーたる(神仏を尊んで頼まず)を思い出し、ハッとして中止したが、このときの事を思うと冷汗が出ると後年述懐しているから、独行道十八カ条は、三、四十歳にして、既に武蔵の心胸に形作られているのである。それを人にかいて示したのは、何時の事かそんなことは問題でない。この(神仏を尊んで頼まず)など云う言葉だって、日本人などには、そうザラには云えない。前項にかいたゴルズワアジイの短詩に(われ夕暮の行きずりに神に逢わばかくは祈らむ、われに神を頼まざるが如き強き力を与えたまえ)と云うのがある。武蔵の心境は、二十世紀のノーベル賞金受領文学者(そうエライかどうかは前に云った通り)とも、同じレベルに達しているのである。こんな剣客がほかにいるか。その他直木君が親切にも前号に紹介してくれた独行道十八カ条を味ってくれると、こんな気のきいた事を書いた日本人が、政治家の中に、武将の中に、学者の中に何人いるかと云うのである。自分は、剣客として武蔵は日本第一であるばかりでなく、人物としても日本人の中では、屈指の人であると思う。武蔵は剣聖であり哲人であり、しかも彩管をとらしては、斯道の大家と角逐する芸術家である。日本の国宝的人物の一人である。武蔵には月桂を捧げよ、上泉某などには、しゅろの葉っぱでも被せて置くといゝ。
(昭和7年/1932年12月)
直木三十五の全集刊行について
 直木三十五の全集が、改造社から出た。「日本の戦慄」を十二日間に、書き上げた直木の事だから、書おろしと云うような途方もないことを、やってのけるのだと思う。先に直木の所へ某銀行の店員が預金の勧誘に来ていた。全集が出るので、金が残るだろうと云うのでやって来たので、笑わせられた。三万や、四万出たとて金が残る直木でないが、十万位出たら残るかも知れない。十万位出て、直木が銀行へ預金するのを見たいと思っている。
(昭和8年/1933年6月)
直木三十五の肝煎りによる警保局長との会合について
 直木の肝煎で、松本警保局長と我々とが逢って話をした。検閲問題では当局者との意志も可なり疏通したから、今後は今までのような不安も、多少薄らぐだろうと思う。また同じ時に出た文芸院云々の話が、そう簡単に実現するかは疑問だが、しかし政府当局が文芸に対し注意と考慮とを払い、多少の金でも出してくれようと云うのならいゝことである。今までの文芸家は、継子扱いをされ、多少ともひがんでいたのだが、そのひがみ根性を無くしてくれればけっこうである。
(昭和9年/1934年3月)
直木賞金の制定について
 池谷、佐々木、直木など、親しい連中が、相次いで死んだ。身辺うたゝ荒涼たる思いである。直木を記念するために、社で直木賞金と云うようなものを制定し、大衆文芸の新進作家に贈ろうかと思っている。それと同時に芥川賞金と云うものを制定し、純文芸の新進作家に贈ろうかと思っている。これは、その賞金に依って、亡友を記念すると云う意味よりも、芥川直木を失った本誌の賑やかしに、亡友の名前を使おうと云うのである。もっとも、まだ定まってはいないが。
(昭和9年/1934年4月)
直木三十五亡き後の警保局長との会合について
 警保局長と我々一部の文士との会合は、直木が死んだ後も続けられることになった。この会合を、文芸院にむすびつけて、勲章がどうのなんて云うのは気が早い。勲章など、いくら貰いたくっても、まだ四、五十年は、呉れそうにもないではないか。
(昭和9年/1934年4月)
直木追悼号値上げについて
 本号は、直木追悼号であるが、普通四月号は五十銭であるのを六十銭にした。アトの十銭値上げから生ずる利益は、直木のために使おうと思っている。読者各位も、直木のために十銭だけ、香奠を出したと思って頂きたい。彼は(生きている内に、一つ香奠を集めて見ようか。いくら集るだろうか)などと云っていたから、沢山売れれば、地下の彼も喜ぶだろうと思う。
(昭和9年/1934年4月)
直木三十五ほかの全集刊行について
 直木、佐々木、池谷と三人の全集が出ることになった。直木は、生前わがまゝもぜいたくもしたが、佐々木味津三など、家兄の借金を払うために、苦しんでやっと楽になった時に死んだので、気の毒である。その全集が、遺族のために、一部でも沢山売れればいゝと思う。池谷君の「望郷」は、日本の芸術的長篇小説としては、屈指のものであると思う。これも、ゼヒ座右に備えてほしい。
(昭和9年/1934年5月)
直木三十五の碁力について
 直木が死の直前、村松梢風君と、碁力がどちらが上かと云うので、喧嘩をした。あの文章は、直木の絶筆である。だから村松君と会ったら、手合をして直木の修羅の亡執を晴してやろうと思っていたが、日本ラインへ行く電車の中で、対局した。直木には、前月号に書いた通り、三、四目の手合にある。だから、村松君にも、三目を置いて対局した。直木の亡霊が手伝ったのか、幸いにして七目勝った。尤も危い勝方であったが、この結果で見ると、直木と村松君は、川端君の云う通り、互角と云った方が、花であろう。
(昭和9年/1934年5月)
新進大衆作家・海音寺潮五郎について
 今年の初頃、海音寺潮五郎と云う人が、僕の家にいないかと云って訊き合せの手紙が、よく来たり、最後にわざわざ(原本では踊り字)訊ねて来たりする人がいた。
 何人かが、海音寺君の名前を偽って、悪事をしていたらしい。本当の海音寺君は、以前中学の先生をしていたことなどもあり、真面目な新進大衆作家である。僕とは何の関係もない。今度、「オール讀物」に出た「転変」と云う作品を初めて、読んだ位である。筆致に、直木三十五を思わせるような溌溂なところがあり、構想も相当しっかりとしていると思った。
(昭和9年/1934年7月)
直木三十五と議論した宮本武蔵第一人者論について
 自分が、直木と議論をした「宮本武蔵第一人者論」は、直木の死後、彼是云うのは卑怯だが、その後現在の剣道の大家連中が大抵は武蔵研究者であることを知って、大に意を強うした。府県選士の優勝者である野間恒君なども、「この頃、ようやく武蔵の云った言葉の意味が分るようになった」と、云っていた。
(昭和9年/1934年7月)
直木追悼号の成功について
 四月号の直木追悼号は、可なりの成功であった。あつく読者諸君に、お礼を申しあげて置く。之で彼の墓地その他の費用が出来たわけである。
(昭和9年/1934年8月)
川口松太郎「鶴八鶴次郎」に感心すること
 本社の「オール讀物」十月号に出た川口松太郎の「鶴八鶴次郎」と云うのは、なかなか(原本では踊り字)いゝ物であった。大衆文学中稀に見るよき世話物だ。川口は、元は下手であったが、この頃は一作々々腕を上げている。新聞のつゞき物を、どっかで思い切って書かしてやれば立派な一流の作家になれるであろう。
(昭和9年/1934年10月)
直木三十五が貶していた加藤清正築の熊本城について
 熊本城は、想像していたのとは、まるで違っていた。私は、樹木のない平城を想像した。しかし実際は、可なり小高い山上にあり、なるほど天下の名城だと思った。直木三十五は、加藤清正をケナしていたが、しかしあれだけの城を築き得る人は、相当の人物に違いないと思った。
(昭和9年/1934年12月)
直木三十五ほかの一周忌を控えて
 池谷信三郎の一周忌は、我々が旅行中の十二月二十二日だし、佐々木味津三、直木三十五の一周忌も、もう直ぐだ。三人一しょにまとめて、追悼会のようなものをやろうと思っている。
 直木と池谷は、平生親しく交際していただけに、まだ時々淋しさを感じていけない。別に死んだからと云って、困っているわけではないが、やはりレインボーのホールへ姿を現わしてくれている方がいゝ。
(昭和10年/1935年1月)
芥川賞・直木賞が日本に於ける文学賞金の先駆けとなれば幸い
「芥川賞」「直木賞」の事は、別に云った通りだが、あるフランス人の話では、フランスなどには、二百いくつかの文学賞金があるそうである。偉大なる作家の記念賞金を初、出版書店で出している賞金、変っているのでは葡萄酒製造業者が出しているのなどがある。それは、葡萄園や葡萄酒製造の実際などがよく描かれている作品に、贈られているとの事である。「芥川賞」「直木賞」も、金額は少いが、日本に於ける文学賞金の先駆となれば、幸いであると思っている。
 内務省などでも最も健全な日本文学に賞金でも与えることにすれば、思想善導の一助になるだろうと思う。その方が、先日「東京日日」で、一寸報道された計画などよりも、数等勝っていると思う。
(昭和10年/1935年1月)
芥川賞・直木賞宣言に対する反響について
 芥川賞、直木賞は割合、各方面の歓迎を受けたようで満足である。たゞ、芥川賞の委員が偏していると云う非難をした人がいるが、あれはあれでいゝと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少くとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である。その方が、所を得ているのである。プロレタリヤ文学の傑作のためには小林多喜二賞と云ったようなものが、創設されてよいのである。
(昭和10年/1935年2月)
直木三十五の遺児・老父について
 直木三十五が死んでから、もう一年になる。その遺児は、充分世話したいつもりでいたが、その親権者が、此方の云う事を、全然聴かない人なので、今の所、どうすることも出来ないのである。直木の老父は、今尚元気で、先日も大阪の新聞で(直木位、エライ奴はなかった。軍部に対しても、いろいろ進言して容られた)などと、大気[扁は火+旁は餡の旁]を吐いていた。この老父に対して、その余生を安からしめるため、相当な事をしているつもりである。
(昭和10年/1935年2月)
芥川賞・直木賞の授与式を文壇行事の一にしたいこと
 芥川賞に就て「新潮」のスポット・ライトで僕と同じ意見を述べていてくれたのは、意を強くした。とにかく、芥川賞直木賞は、相当の反響があってうれしかった。金額が少いようだが、年額総計二千円で、「朝日賞」の副賞の金額と、そんなに大差がないのは微々たる文藝春秋社の催しとしては、努めていると見てくれてもいゝと思う。若し、幸いにして、よい作品が見つかったら、授与式は出来るだけ盛大にして、文壇行事の一としたいと思う。
(昭和10年/1935年3月)
直木三十五の記念碑竣工予定について
 直木三十五の墓は、直木の本籍が、大阪にあるために、多磨墓地に立てることが、どうにもむずかしいので、同墓地内に記念碑を立てることにした。命日である二月二十四日までには、間に合わないが、三月中には竣工する筈だ。志ある方にして今後同墓地へ行かれたついであらば、一寸立ち寄って頂きたい。
(昭和10年/1935年3月)
第1回芥川賞・直木賞の選考を控えて
 芥川賞、直木賞の銓衡も近づいて来たが、芥川賞の候補者は、あるようだが、直木賞は甚だ見つけにくいようだ。もし、直木賞がなかったら、今回に限り、それに充てた賞金は、芥川賞の次席者数名に贈ることにするかも知れない。銓衡の方法も、委員以外広く一般の人々にも意見を聴いて、衆評の帰するところへ贈りたいと思っている。
(昭和10年/1935年6月)
直木三十五記念碑の竣成について
 多磨墓地の直木の記念碑が竣成した。あまり用事のない場所であるが、大方の諸君ももし何かの折、一覧して頂けば嬉しいと思う。
(昭和10年/1935年7月)
直木三十五の死後、新人作家の不作について
 佐々木、直木、牧の三人の死に依って、大衆文学の分野には、新人の進出すべき大きな間隙が出来たわけであるが、しかしあまり目ぼしい人もいないのは、淋しいことである。
(昭和10年/1935年8月)
第1回芥川賞・直木賞発表について
 芥川賞直木賞も、別項発表の通、確定した。芥川賞の石川君は、先ず無難だと思っている。この頃の新進作家の題材が、結局自分自身の生活から得たような千篇一律のものであるに反し、一団の無智な移住民を描いてしかもそこに時代の影響を見せ、手法も健実で、相当の力作であると思う。
 直木賞の川口君は、外に人がないので止むを得なかったのである。川口君は少し有名になり過ぎている。去年なれば、丁度よかったので、一年位期を失している。しかし、川口君にやらないとすれば、授賞を取り止める外はなかったのだ。(川口君にやるか、でなかったらよすか)と、なると、第一回だけに、やった方がよいと思ったので、川口君に定めたのである。審査員と懇意すぎることも、一寸難点であったが、これは我々の良心を信じて貰いたい。そこへ行くと、石川君は審査員は、誰も知らない人である。
 芥川賞の選定のため、久しぶりに新進作家の作品を、少し読んで見たが、しかし自分は失望した。末梢的な新しさで、ゴマかしているだけで、実際は十年前に比して、少しも進歩していないと思った。殊に、新奇を装っている表現は、新進作家の作品を、いよいよ(原本では踊り字)仲間的にして、一般の読者階級から離れさせるものではないかと思う。大衆に読まれるということは、大衆文学に取って必要な事である。純文学も、大衆に読まれれば読まれるほど、いゝのである。
 芥川賞の選定に対する評判は、可なりいゝ。我々、審査員も満足である。我々委員は、誰も、事文学に関する限に於ては、皆公平無私であることを信じて頂きたい。
(昭和10年/1935年9月)
芥川賞・直木賞に対する新聞報道について
 芥川賞の石川君は、十二分の好評で、我々としても満足である。そのために、九月号なども売行が増したのではないかなと思う。賞金その他の費用も充分償っているかも知れないから、社としても、結局得をしたかも知れない。直木賞の川口君も、先ず悪口を聴かないから、止むを得ない撰定として、認めてくれたのだと思っている。
 芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した。そのくせ、二科の初入選などは、写真付で発表している。幾つもある展覧会の、幾人もある初入選者とたった一人しかない芥川賞、直木賞とどちらが、社会的に云っても、新聞価値があるか。あまりに、没分暁漢《わからずや》だと思った。そのくせ文芸懇話会賞の場合はちゃんと発表しているのである。
 尤も、新聞社のつもりでは広告関係のある雑誌社の催しなどは、お提灯記事になる怖れがあるというので出さないのであろうか。広告関係があると云う場合は、それだけ親善さがあると云うのではないだろうか。或は亦、広告関係のある雑誌社の記事などは、金にならない活字は、一行も使いたくないと云うのであろうか。
 むろん芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。その事は最初から声明している。しかし、半分は芥川直木と云う相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けようと云う公正な気持からやっているのである。この半分の気持から云っても、新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいゝと思う。
(昭和10年/1935年10月)
直木三十五の肝煎りでできた文芸懇話会について
 文芸懇話会の授賞態度について、是非の論が頗るウルサイ。こう云う時には、直木が生きていて、応酬すべきであったのである。一体、文芸懇話会は直木の肝煎で出来たのであって、最初から色彩があった方がよかったと思う。あまりに、公正を期して、純文学者を会員に入れすぎたのである。とにかく、「国家組織を否定する文学は排斥」と云うスローガンは、最初から標榜して置くべきであったと思う。しかし、松本学氏が、あの会をやっている気持は、あまり偏武の時代に、文化的方面を振興しようと云う位の程度で、他意ないものだと思う。たゞ、官僚だけに左翼的文学は、虫が嫌いなのであろう。尤も、今まで只で金を貰ったことのない文壇は、貰いつけない金を前に、必要以上に、疑心暗鬼を生じているのである。
(昭和10年/1935年10月)
芥川賞・直木賞受賞者の祝賀会を開けなかったことについて
 文芸懇話会賞、芥川賞、直木賞の受賞者を中心に、文壇的な祝賀会を開きたいと思っていたが、僕が旅行その他で忙しかったために、到頭時機を失してしまった。
(昭和10年/1935年12月)
直木三十五ほかの三周忌を控えて
 直木や池谷《いけのや》信三郎の三周忌が近づいた。直木は、相当思う通りの事をしたし、仕事もしたし、人気の中に死んだので、諦めがつくだろうが、池谷の死は夭折であって、しかも池谷が人一倍生活を享受する男であっただけに、三周忌が来ても、思い出すごとに、心残りである。それに、仕事も沢山していないので、もう三、四年もすれば、忘られて了いそうなのは、いかにも気の毒である。故人の名を伝えるには、池谷賞と云ったものを作るべきだったのであるが、これも一寸時期を失したようである。
(昭和11年/1936年1月)
鷲尾雨工「吉野朝太平記」に感心したこと
 春秋社発行鷲尾雨工と云う人の「南北朝太平記」第二巻と云うのを先日読んで感心した。なかなか(原本では踊り字)ガッチリした力作で、楠正儀を中心にし、当時の珍しい史実を使っての歴史小説である。この人は、本名浩と云って、直木三十五の旧友である。従って、作品にも直木の影響がある。尤も直木ほど描写に精彩がないが、しかし構想は直木よりも、しっかりしている。
 直木の影響を受けていると云ったが、僕の想像では、直木は青年時代此の人の歴史趣味の影響を受けて、後年歴史小説を書き、此の人は又直木の歴史小説の影響を受けて、遅ればせながら歴史小説を書き始めたと云う感じである。とにかく、相当うまいし、史実にしっかり足を付けている点で、異色ある作品であると思う。南北朝末期の乱世のありさまが可なり面白くかけている。
(昭和11年/1936年1月)
直木三十五の三周忌について
 二月二十四日は、直木三十五の三周忌である。彼の出鱈目な生活のお蔭で、今でも時々迷惑を受けているが、しかし彼を懐しむ情に変りはない。何かにつけて、生きていればと思うことが多い。
(昭和11年/1936年2月)
第1回芥川賞・直木賞受賞者の評判について、および第2回の選考を控えて
 第一回芥川賞の石川君は、大変な成功で、正月号に載った「深海魚」も先ず好評であったし、同君の文壇的位置は、確立したと云ってもよい。直木賞の川口君は、元来相当有名であったから、受賞の効果も、石川君ほど目には見えないが、しかし先ず成功と云ってもよい。第二回の銓衡を、いよいよ(原本では踊り字)始める事になったが、直木賞の方は、候補者もないではないが、芥川賞の方は、混沌として当がない。が、第一回通、出来るだけ、公平に丁寧に審査するつもりである。
(昭和11年/1936年3月)
第2回芥川賞・直木賞発表について
 別項に発表して置いた通り、芥川賞は授賞を中止するの止むなきに至った。審査員の意見が区々であり、一頭地を抜いた作家が見当らないのである。せめて、過半数の賛成があればいゝのであるが、各人各説で、何うにも出来ないのである。「瀬戸内海の子供たち」はムリをすれば授賞出来ないことはなかったが、戯曲を選ぶことは、本意でないと言うのでよした。候補者達に、百円宛頒けようなどと云う説もあったが、それは却って前途ある人々を侮辱することだと云うので、沙汰止みにした。
 直木賞は、鷲尾雨工氏に贈る事にした。「吉野朝太平記」二巻は、何と云っても力作で、売れる当もないのにあゝした長篇を書き上げた努力は、充分認められてもよいと思う。鷲尾君は、直木の旧友で、後不和になっていた人である。直木が生きていたら、直木賞を川口君にやることも、鷲尾君に贈ることも、反対したかも知れない。
 直木賞の候補者としては、浜本浩海音寺潮五郎君などが、有力であった。
(昭和11年/1936年4月)
芥川賞・直木賞を今後も続けること
 貴司山治君が、どこかの新聞で、芥川賞直木賞も今によすだろうと書いてあったが、僕の生きている間は、決してよさない。僕が死んでも、文藝春秋社が、赤字にならない限は多分よさないだろう。
 しかし、一年二回は、銓衡し難いから賞金を倍額にし、一年一回にしたいと思っている。
(昭和11年/1936年6月)
第3回芥川賞(・直木賞)発表について
 芥川賞は別項の発表の通である。僕は、最初「遣唐船」を読んで、これを第一候補だと思っていたが、その後「コシヤマイン記」を読むと「コシヤマイン記」の方に心がうごいた。委員会でも、自分一人でも極力「コシヤマイン記」を主張するつもりでいたが、佐藤氏なども同意見だったし、久米室生二氏も一位に撰んだし、殆ど満場一致だった。やはり、よきものは誰が見ても同じなのだ。(現代化された英雄伝説)として、広く愛読されてもいゝものである。たとい、鶴田君は 外に何にも書いてなくっても、この一作だけでも、芥川賞に値すると僕は思った。
 現代小説の中では、僕は「城外」が一番好きだった。しかし、北条君の「いのちの初夜」なども、取りたい気持があった。その他の作品にも、いゝものが可なり多かった。
 自分などは、普段は同人雑誌など、てんで振り向いて見ないが、こう云う機会に新進作家の作品に、目を通し得ることは、たいへんいゝ事だ。芥川賞の制定は、そんな意味で、我々にも益するところが多い。
 新進作家の力量は、たしかに進歩して居る。たゞ、相当の力量のある作家が、あまりに数が多すぎて、お互にその進出を阻んでいることは、是非もなき次第である。
 来年から授賞を一回にし、賞金を倍加しようと云う説もあったが、数多い新進作家に、少しでも多くチャンスを与えるために、やっぱり二回にすることにした。
(昭和11年/1936年9月)
第3回芥川賞・直木賞に対する評判について
 芥川賞は、頗る好評であったことは、当選者に取っても、審査委員に取っても、本懐な事であった。お蔭で、九月の「文藝春秋」は随分売れたらしいので、三方目出度いのである。こうして、芥川賞の権威が、一回毎に加って行くことは、嬉しいことである。直木賞についても、特に好評でないまでも、悪評はなかった。我々の授賞態度を諒としてくれたのであろう。
(昭和11年/1936年10月)
芥川賞候補作品は今後単行本で出すこと
「芥川賞」の候補作者の作品を、九月号以来毎月載せていたし、正月号には鶴田、小田二氏の作品が載るし、これではまるで「文藝春秋」の創作欄が、芥川賞中心になり、文壇の諸家をロックアウトするような形になるのは、面白くないので、今度から芥川賞の候補作品は、単行本として別に出すことにしたいと思っている。
(昭和11年/1936年12月)
第4回芥川賞(・直木賞)発表について
 芥川賞、直木賞は別項発表の通である。僕は甚だ申訳ないが、怠慢のために、芥川賞の銓衡には加わらなかった。石川説、富沢説とが、相半し、両方とも相持して下らないので、到頭両方へ授賞することにした。規定とは違っているが、別に差支えないと思ったからである。
(昭和12年/1937年3月)
第5回芥川賞・直木賞発表について
 今度の芥川賞も適当な候補者が少く、結局尾崎一雄氏の「暢気眼鏡」に贈ることにした。僕としては朗かな貧乏小説として、一種の風格のあるのを選んだのである。直木賞の方は結局適任者がなかった。大衆文学は、近来新進作家の輩出なく低滞している容子なので、当分その人を選ぶに苦しまなければならぬ。
(昭和12年/1937年9月)
第6回芥川賞・直木賞発表について
 芥川賞は、別項の通、火野葦平君の「糞尿譚」に決定した。無名の新進作家に贈り得たことは、芥川賞創設の主旨にも適し、我々としても欣快であった。作品も、題は汚ならしいが、手法雄健でしかも割合に味が細く、一脈の哀感を蔵し、整然たる描写と云い、立派なものである。しかも、作者が出征中であるなどは、興行価値百パーセントで、近来やゝ精彩を欠いでいた芥川賞の単調を救い得て充分であった。この作品を、委員会に推薦してくれたやはり芥川賞の鶴田知也君に改めて感謝する。自分は、真の戦争文学乃至戦場文学は、実戦の士でなければ書けないという持論であるが、火野君の如き精力絶倫の新進作家が中支の戦場を馳駆していることは、会心の事で、我々は火野君から、的確に新しい戦争文学を期待してもいゝのではないかと思う。
 直木賞も、井伏君を得て、新生命を開き得たと思う。井伏君を大衆文学だと認めたのではなく、井伏君の文学に、我々は好ましき大衆性を見出したのである。
 文学賞の決定は、あくまで公平無私でなければならない。一度でも公明を欠ぐと、忽ちその賞金の権威が無くなってしまうのである。人間のやることだから、価値判定の誤ちはあってもよいが、情実だけは絶対に排斥しなければならない。芥川賞直木賞の委員は、怠惰で往々ズボラをきめるが、情実や縁故で動く人が一人も居ないことは、甚だ欣ばしいことである。
 本社の営業はいよいよ(原本では踊り字)好調なので、先月号で書いた如く傷病将士の慰問をやる外、芥川賞直木賞以外に、新しい文芸賞金を制定したいと思っている。これは当分「文藝春秋賞」として、僕が死んでから「菊池寛賞」とするつもりであるが、年額壱千円とし、何う云う人にやるか、それはまだハッキリとは定まっていない。僕の考では、五十歳以上の老作家で、その年度に最も活躍した人に贈呈したいと思っている。
(昭和13年/1938年3月)
芥川賞・直木賞授賞のための財団法人を組織すること
 先月の本誌で書いた菊池文芸賞は、本社から資金を寄付し財団法人を組織し、それに依って授賞することにした。本社が潰れても、僕が死んでも永続するわけである。尤も僅かの資金では心細いので、将来もっと寄付をするつもりだ。生前から名前を冠するのは、可笑しいが、こうして置けば、僕が何時死んでも、記念賞金だけは残るわけだ。芥川賞、直木賞も、将来は同じ財団法人に依って、授賞したいと思っている。が、それには資産が十万円以上要するわけだ。
(昭和13年/1938年4月)
第6回芥川賞授賞式、および財団法人の計画について
 芥川賞の授賞式が、杭州の陣中で行われたことは、芥川賞の歴史を飾る出来ごとだった。今度の授賞はいろいろ(原本では踊り字)な意味で、成功であった。火野君は、「東京朝日」のニュースに依れば、軍報道部に編入されたと云うが、まことに適材適所である。
 芥川賞、直木賞、菊池賞を授賞する団体を財団法人にする計画は、着々進行中で、既にその筋に申請中である。第一回の資金として本社から三万円を寄付し、資金が充実する迄毎年五千円を寄付することにした。文藝春秋社から引き離して、法人組織にして置けば、雑誌社の盛衰に拘わらず、永久に授賞が行えるわけである。僕の名前を、賞金に冠するのは、可笑しいと云う人があるかも知れないが、デービスカップや、ノーベル賞金のことを考えれば、少しも可笑しくない。有志の方は十万円もこの法人に寄付して下されば、その方の名前を冠した文学賞金をいつでも設定する。
(昭和13年/1938年6月)
財団法人日本文学振興会の設立認可について
 芥川賞、直木賞、菊池賞を銓衡授賞する日本文学振興会の法人設立許可が認可された。これで、文藝春秋社の存亡に拘わらず、授賞が永久に続けられることになった。本社は、既に三万円を資金として寄付したが、数年の間に十万円位の資金を寄付するつもりだ。こうした仕事が出来るのも、一に読者各位の支持の賜物である。
(昭和13年/1938年8月)
第7回芥川賞・直木賞発表について
 今度の芥川賞、直木賞は、別項発表の通りである。中山君の「厚物咲」は、特異な性格を創造した所が、作者の功績であると思った。君は、「ナリン殿下」が発表された時、今度の直木賞は、この人にやるべきだと自分は思っていたが、先月号の本誌に出た作品が、あまりダラダラ(原本では踊り字)しているので、嫌になっていたが、しかしあのダラダラ(原本では踊り字)した饒舌をも、欣んで読んでいる人が多いので、やはり橘君にやっていゝと思い返したのである。
(昭和13年/1938年9月)
第8回芥川賞・直木賞発表について
 芥川賞直木賞は、別項の通り定まった。候補作品中北原君の「妻」は、なかなか(原本では踊り字)よく書けているが、こう云う体験的情痴の世界は、一番書き易いので、授賞する気になれない。吉川江子さんの「お帳場日誌」は、周囲を描いている手腕に、非凡なところがあり、よっぽど、この人を撰みたいとさえ思ったが、タッタ一作しか発表していないので、もう一つ二つ作品を見てからでも遅くないと思った。中里さんのものは、題材が珍しいのと、少しタドタド(原本では踊り字)しいところもあるが、文章に気品と落着があり、死んで行く外国婦人が、弟子兼女中の菊代と云うあいのこに、自分の生命の後継者を見出すところなどに、作者の明るさも感じられるのである程度の不満もあったが、この人を推薦することにした。
 直木賞の大池君は、手腕は相当だが、題目に鋭いものがなく、自分としては、甚だ不満であったが、最後の銓衡にやっと間に合ったので、今更他の候補者を物色するわけにも行かず、たゞ今年からもっと無名新進の人を採ろうと云う建前に賛成する意味で、不満ながら、黙認したのである。あの程度の人なら「サンデー毎日」や「週刊朝日」の懸賞小説の作家の中にも、いくらもいるのじゃないかと思う。
 直木賞も、今年から、もっと新進無名の作家を物色することにしたので、委員会直属のリーダーを設けて、あらゆる作品に目を通させることにした。
(昭和14年/1939年3月)
財団法人日本文学振興会に対する寄付金について
 なお、芥川賞、直木賞、菊池賞の授賞を行う財団法人日本文学振興会に対し、本年度も、文藝春秋社から、昨年度と同額位の寄付金をする予定である。三、四年の後には、利子だけで充分授賞を行い得ることになると思う。そうなれば、一雑誌社の盛衰と離れて、永久に基礎が確立するわけである。こう云う機関が出来たことも、結局は読者各位の本誌に対する支持の賜物である。
(昭和14年/1939年4月)
財団法人日本文学振興会に対する寄付の報告
 前月号で、寄付すると云った方面は、皆寄付をすました。
(昭和14年/1939年5月)
第9回芥川賞・直木賞発表について
 芥川賞は、別項に発表した通り定まったが、僕は「鶏騒動」に、一番感心した。筆致が少し晦渋で、最初は、とっつきにくいが、読んで行くに従って、だんだん(原本では踊り字)面白くなり、最後の「ドナさんや」と、云うところなどは、読んでいて嬉しくなった。小説の構成に、相当の手腕があり、もう少し洗練されたら、相当な作家になれる人だと思った。
「あさくさの子供」も、文章に滋味があり、描写も達者であるが、小説の構成がボヤけているし、こうした少年物以外の作品が書けるかどうかと云う疑問も感じられた。二篇の当選作以外「稲熱病」は、その堅実な手法に捨てがたいものがあったが、もう少し事件がほしかった。「姫鱒」の作家も、新鮮な手法や感覚を持っている好もしい人だと思った。
 直木賞の候補作品も一通り目を通したが、皆もの足りないものばかりだった。たゞ、大衆文学が、純文学の手法を、ますます(原本では踊り字)取り入れていると云う傾向を感じたが、大衆文学の新人は、この所、容易に出そうにないと云うことを感じた。
(昭和14年/1939年9月)
井伏鱒二氏「多甚古村」を面白く読んだこと
 井伏鱒二君の「多甚古村」と云う本を面白くよんだ。読後二、三日楽しかった。
(昭和14年/1939年9月)
第10回芥川賞(・直木賞)発表について
 芥川賞は、別項の如く定まった。殆ど全委員の一致するところであった。僕も、最初金史良君の作品を読み感心したが、すぐその後で、「密猟者」を読んで、すぐそれに定めてしまった。
 久米が、(コンラッドの名短篇)に比すべしと云ったが、これ位の面白い小説は、外国の短篇小説にも、なかなか(原本では踊り字)ないのである。僕は各国の「一九三八年度傑作集」など云うものは、読んでいるが、いゝ短篇など云うものは容易にはないものである。
 或人は芥川賞創設以来だと云う人もいたが、とにかく相当な作家で、石川、火野系の力量豊富な人だと思う。進出期待すべしである。
(昭和15年/1940年3月)
財団法人日本文学振興会の資金が10万円になったこと
「日本文学振興会」は、今度資金十万円になった。三分の利子としても、芥川賞直木賞菊池賞の賞金だけは、永久に出るわけだ。社の好況が、つゞけば、アト五万円以上、寄付したいと思っている。しかし、こうした計画が出来るのも、社を支持して下さる読者諸君のお蔭である。だから、こうした賞金制度の設定は、結局読者各位の力に依ったものである。
(昭和15年/1940年4月)
第11回芥川賞(・直木賞)発表について
 芥川賞は、別項に発表した通り、受賞者に擬せられた高木卓氏が受賞を辞退したので、中止することにした。
 今度は、授賞中止説が多かったが、自分は高木卓氏の前作「遣唐船」が授賞に値したものであったと思うので、今度は作品は不充分であるが、歴史小説として「遣唐船」と共に上古日本の世界に取材してある点を買って、授賞を主張したものである。審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負うべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人に委すべきで、賞められて困るようなら、初めから発表しない方がいいと思う。
 殊に芥川賞などは、授賞が内定した以上その受くる名誉は同じで、アトは賞金だけの問題である。辞退して謙譲の徳を発揮したつもりでも、受くるものはちゃんと受けているのである。夏目さんが、文学博士を辞退したつもりでも、世間的には辞退したのでさらに効果的になったのと同じである。
 こんなものは素直に受けてくれないと、審査をするものは迷惑である。受賞者の辞退に依って、審査員が鼎の軽重などを問われてはやり切れない。
(昭和15年/1940年9月)
第13回芥川賞(・直木賞)発表について
 今次の芥川賞に就て、自分は樺太旅行のため、精読出来なかったが、「長江デルタ」も「山彦」も、両方とも、あまり感心しなかった。「長江デルタ」は、題目は面白いが、中国人の姉妹が、充分によく描けているとは思えなかった。「山彦」のような題材は、やはり一つの時代錯誤だ。時代の影響を受けてしかも文芸の本質を失わないと云うことが大切なのである。時代の影響を少しも受けないと云うことは、文芸としても一つの欠点である。
(昭和16年/1941年9月)
第14回芥川賞・直木賞発表について
 今次の芥川賞、直木賞は別項発表の如く決定した。芥川賞に就ては別に意見がない。直木賞については、小島君は長谷川幸延氏に授与せよと、主張された。が、その候補作品である「幼年画報」と「模型飛行機」を読んだだけでは、どうしても賛成することは、出来なかった。こうした回想小説は、大衆文学としては、邪道であると思ったからである。これは、純文学で、昔から扱われた世界であるからだ。大衆文学には、もっと趣向やプロットがなければならない。が、審査決定後、同君の「冠婚葬祭」や「末広」などの旧作品を読んだが(これは、昨年候補に上ったのだが自分は樺太旅行のためよまなかったのだ)、これらは大衆文学として相当な作品である。自分が、これらの作品を読んでいたら、小島君の主張に賛成したかも分らないと思うので、同君には少し気の毒に思っている。
(昭和17年/1942年3月)
摂津茂和「三代目」に感心したこと
 これも、今次の直木賞審査後に読んだのであるが、摂津茂和と云う人の「三代目」と云う創作集に、感心した。題目の「三代目」と云う作品はつまらないが、他に愛すべき作品が数篇ある。この作家は、大衆文学の芥川竜之介と云ってもよいほど、物識りで才筆である。この人が、今迄直木賞の候補に上らなかった事は、我々委員会の手落であるとさえ思った。
(昭和17年/1942年3月)
第16回芥川賞・直木賞発表について
 芥川賞直木賞は、別項発表の通り決定した。芥川賞は、全委員殆ど一致した。が僕は「新作家」と云う同人雑誌に出ている稲葉真吾と云う人の「炎と倶に」と云う作品を支持した。これは帝都の消防隊の世人に知られない苦労を書いたもので、描写も明朗で建設的で、広く読まれていゝものだと思ったが、賛成者がなかった。直木賞の田岡典夫は、好学の努力家だから将来必ず大成するだろう。神崎武雄は、可なり難しい大衆文芸の現代物の創作に努力している点を認めたのである。
(昭和18年/1943年3月)
芥川賞・直木賞委員の更新について
 芥川賞、直木賞委員の顔触を更新することにした。自分も、両方から隠退することにした。旧委員の文学観、鑑賞力が、古くなったとも、衰えたとも夢にも思わないが、しかし文学芸術の世界では、同一の人間がいつまでも、銓衡に当っていることは、無意識のうちに、新機運の発展に邪魔になっている場合も生ずるから、この際思い切って更新することにしたのである。今後は、芥川賞・直木賞とも、芥川賞・直木賞受賞者の中から、適当な人に銓衡委員になって貰うつもりである。
(昭和18年/1943年9月)
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