選評の概要
21. 22. 23. 24. 25.26. 27. 28. 29. 30.
31. 32. 33. 34. 35.
36. 37. 38. 39. 40.
41. 42. 43. 44. 45.
46. 47. 48. 49. 50.
51. 52. 53. 54. 55.
56. 57. 58. 59. 60.
61. 62. 63. 64. 65.
66. 67. 68. 69. 70.
71. 72. 73.
生没年月日【注】 | 明治37年/1904年12月25日~昭和51年/1976年1月13日 | |
在任期間 | 第21回~第73回(通算26.5年・53回) | |
在任年齢 | 44歳6ヶ月~70歳6ヶ月 | |
経歴 | 東京市本所区生まれ。東京帝国大学文学部国文科卒。在学中より劇団「心座」を結成するなど、演劇・戯曲から出発し、大正15年/1926年に戯曲「白い腕」を『新潮』に発表。その後、小説創作に活動の場を広げ、昭和8年/1933年には『行動』に「ダイヴィング」を発表。『文學界』同人となる。 戦後はいわゆる風俗小説の第一人者となり、丹羽文雄と並んで中間小説の双璧となる。また「伽羅(キアラ)の会」を結成し、雑誌『風景』を創刊した。 |
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受賞歴・候補歴 | ||
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個人全集 | 『舟橋聖一選集』全13巻(昭和43年/1968年6月~昭和44年/1969年6月・新潮社刊) |
下記の選評の概要には、評価として◎か○をつけたもの(見方・注意点を参照)、または受賞作に対するもののみ抜粋しました。さらにくわしい情報は、各回の「この回の全概要」をクリックしてご覧ください。
選考委員 舟橋聖一 44歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
藤枝静男 | 41歳 |
◎ | 11 | 「三点(引用者中略)として投票した。」「作者の批評精神が、もっと痛烈に、出ていれば、もっと強力に推したかった」「私としては、「イペリット眼」の作者のもつ思想性に対して期待し、それがもっと、強く鍛えられるように、激励したい。」 |
24歳 |
○ | 40 | 「二点(引用者中略)として投票した。」「狙いが低く、文章にも、丹羽文雄や北條誠を、模倣している様なところがあるので、それが気になっていた。」「瀧井さんや川端さんが、小谷をきらいなのは、よくわかる。それは、悪達者で、はったりが多く、興味のもち方が低い点で、カンベンがならぬのであろう。そう思ったので、私は、却て、小谷を推してやりたくなった。」「ドンドン書いている中に、狙いが高くなって行くかもしれない。或は、注文が殺到するうちに、堕落の淵に沈むかもしれない。つまり、海のものとも、山のものとも、定まらない。」「だからといって、いつも、落選していては、小谷のような人の、浮かび出る道はないわけだ。」 | |
48歳 |
△ | 16 | 「可もなく不可もないという作風」「この人に、十六点という高点が集り、当選確実となった。」「私は、まだ、由起しげ子の取り澄ましたような気品は、信用していない。且つ、この婦人が、高名な画伯の夫人だと聞いて、よけい、賞をやりたくなくなった。」「ふしぎにも、全委員一致の声として、この夫人一人の受賞には、不賛成が唱えられた。」 | |
「以前から芥川賞委員である先輩委員は、手堅い作風と、高邁な作家気風のようなものに、高い評価をしていることが、判明した。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第四巻』昭和57年/1982年5月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和24年/1949年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 45歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
森田幸之 | 36歳 |
○ | 6 | 「私は、(引用者注:辻亮一よりも)「断橋」の作者の方に、将来性が多いように思い、「断橋」を推した」 |
35歳 |
△ | 14 | 「坂口安吾が、口を極めて、「異邦人」を推すので、あいまい(原文傍点)な気持の私は、坂口の熱っぽさに捲きこまれ、坂口があんなに言うのでは、坂口を信用したいような気分になった。」「結論として、私は坂口のムキになった顔にのみ興味があり、「異邦人」イットセルフには、やっぱり興味がなかった。」 | |
「終戦後三回のうち、選者としての私はこんどが一番、歯切れが悪く、渋滞し、そして、あと味もサッパリしない。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第四巻』昭和57年/1982年5月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和25年/1950年10月号) |
選考委員 舟橋聖一 47歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
吉行淳之介 | 27歳 |
◎ | 36 | 「吉行の「原色の街」を推そうと思って、私は出掛けて行った。」「私は、(引用者注:これを推すのは)私一人のみと予想していたので、その予想は外れたが、川端佐藤両氏の同感を得たのは、吉行のために、喜びに堪えなかった。」「エイスケのもっていた図々しいニヒリズムには、まだ程遠いが、描写力は、親父以上のところもあって、私は、末たのもしいとおもうのである。」 |
33歳 |
△ | 14 | 「「広場の孤独」は、去年のベストスリーにあげる人さえあった程で、今更、芥川賞でもあるまいから、こんどは、吉行、澤野、阿川など、まだ名前の出ていない人の所へ授賞したいと思ったのである。」「今回の授賞は、事勿れに傾いたわけで、堀田の世評が定まっている以上、委員の心理には、何ンといっても、そこへお尻のもって行き場所があることを、大体、狙うともなく、狙っているのは争えないだろう。」 | |
「こんどの委員会はあまり活気のない会議として、終始した。芥川賞は、やはり定評のない新人を、委員各自の自由な視覚から、ムキになって推挙し合うところで、はじめて活況を呈することになるのだろう。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第四巻』昭和57年/1982年5月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和27年/1952年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 48歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
豊田三郎 | 46歳 |
○ | 12 | 「戦後、「仮面天使」を書いただけで、長く沈滞していた人だから「好きな絵」のような佳作を書いてカムバックを示したときは、芥川賞をやって、激励するのもいいと思う。」「豊田ばかりでなく、戦前派の中で、いい素質のある人が、機会をつかみ損っている場合は、やはり話題に上すべきだろう。」 |
33歳 |
△ | 15 | 「「悪い仲間」という作品は、一応、面白く読んだ。」「無銭飲食の場面も、手に入っている。」「これに反して「陰気な愉しみ」のほうは、未熟なもので、安岡の欠点ばかりのようなものだ。前者を授賞作品にすることは、前々から度々候補になった彼の経歴によって、納得出来るが、後者まで一緒に採用したのは、安岡にのみ、点が甘いようで、公平とは云えない。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和28年/1953年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 49歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
野口冨士男 | 43歳 |
◎ | 14 | 「野口と江口を推した。」「野口は、一時スランプだった。病気ばかりしているし、書くものにも精気がなかったが「耳の中の風の声」から、スランプを脱し、立直りを示した。ここらで元気をつけてやれば、更にいいものを書き、中堅作家として、地味であるが、真面目な仕事をやりそうな気がする。」 |
江口榛一 | 40歳 |
◎ | 11 | 「野口と江口を推した。」「江口は文章上手である。よく読ませる。そして、有情滑稽がある。泡鳴も文壇人にきらわれたが、文壇人の江口に対する評価には、誤解が少くないのではないか。もっとも彼は、度々、禁酒を宣言するが、すぐ破ってしまう。酒癖がいいとは云えない。」「面白く読んだ。」 |
30歳 |
△ | 10 | 「僅かな差で、吉行が小沼を競りおとした。」「前に、小生が「原色の街」を推したときは、反対が多かったのに「驟雨」は、「原色の街」ほどいいものではないが、認められたのは、一寸皮肉な気がする。」「故吉行エイスケとは、新興芸術派時代「近代生活」の同人であった。その子淳之介は病体である。これで元気になって、快方に向いて貰わなければならない。」 | |
「今度の銓衡は、稀れに見る白熱戦だった。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和29年/1954年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 50歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
川上宗薫 | 30歳 |
○ | 5 | 「面白かった。「文學界」(三十年二月号)へ「企み」を書いて、それが次期の有力作だから、今回は見合そうという委員たちのはからいがあったそうだから、私も発言をさし控えたが、それがなければ、私はこれを推したかった位である。」 |
39歳 |
□ | 8 | 「「神」から読み出したが、どうも感心できなかったので、「アメリカン・スクール」はあと廻しにした。」「(引用者注:銓衡会の意見は)庄野、小沼の二本立と、庄野、小島の二本立とに、分裂した。」「瀧井氏の云い出した庄野・小島二本立説に同調した。」 | |
33歳 |
□ | 10 | 「(引用者注:銓衡会の意見は)庄野、小沼の二本立と、庄野、小島の二本立とに、分裂した。」「瀧井氏の云い出した庄野・小島二本立説に同調した。」「前の「流木」や「黒い牧師」に見られた熱情には欠けるが、その代り玄人好みになっている。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和30年/1955年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 52歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
32歳 |
◎ | 30 | 「菊村到の受賞は、妥当だ。この人の作品の素材となっている知識は、雑ぱくのようでいて、あいまいではない。」「うるささがなく、適度に整理されているから、推理小説とはちがった知的な印象をあたえるのだろう。」「菊村の二作のうち、「硫黄島」が多数決で入賞したが、私は格別甲乙を附し難かった。」「私は翌日の新聞ではじめて菊村の素性を知ったような次第である。従って、文壇血統が物を云った縁故入賞ではない。」 | |
小池多米司 | (31歳) |
○ | 7 | 「支持したのは、私一人だったが、素材が甘いので、銓衡委員のお気に召さなかったのではないか。然し、描き方や扱い方には、抒情主義より深い心理的なものがあって、読者としては、一番素直に、安心して読めた。」「近い将来、中間小説を達者に書ける人になりそうだ。」 |
「今回の六篇は通俗性が濃密である。若し、中間小説には、思想がないという文壇通念に従うとすれば、(この通念には、私は異議があるが――)みな、中間小説的である。」「こうした新人達の傾向は、やはり、マス・コミが中間小説の需要をますます増大しつつある現代性に根ざしているのだろう。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和32年/1957年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 53歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
大江健三郎 | 22歳 |
◎ | 36 | 「「死者の奢り」は、頭抜けている」「大江には、いい意味のデカダンスがあり、それが人生派の抵抗になったろうが、この程度のデカダンスなしには、新しいエネルギッシュな小説のスタイルは、進歩しない。」「三島由紀夫の云う「頽廃とエネルギーの結合」は大江にも当てはまり、そしてこの程度の病的感覚をもつエネルギーこそ、やや飽和状態にある近代文学の頂点を、更にもう一つ知的な頂点へ前進させるための推進力となることを、私はこの際、述べておきたい。」 |
27歳 |
● | 8 | 「私には何ンの感興も呼ばなかった。」「中村光夫の云うほど、島木に似ているとも思わなかった。受賞した開高は、その「感想」で、アランの散文論を引いて、小説の美辞麗句をやっつけていたが、そういうところが、人生派委員のお気に召したにしても、特に珍しい説ではない。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和33年/1958年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 54歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
佃実夫 | 33歳 |
◎ | 9 | 「私は(引用者中略)推したが、こういう伝記を元にした小説の、史実と虚構の間をよく確めることは、実際には難かしい。批評する側も、多少モラエスについて調べないと、カンだけでは判定を下しにくいのではないか。永井龍男氏のように、厳しく云えば、この作は、たしかに小説以前かも知れない。然し私は、作者の冒険に同情して、永井氏が減点しただけ、増点しておいた。」 |
49歳 |
△ | 17 | 「彼、柴田四郎の長く鬱屈したものが、曾て一度も外側へ溢れ出ず、内向また内向して、手工芸風に凝結した一例である。」「古風であるかと思えば、新しい。それが渾然としていると云っては、賞めすぎだ。むしろ、畸形である。」「当夜の会では、井上(靖)氏が「山塔」にあまり力コブを入れるので、(引用者中略)その分だけ減点したくなったのは事実だ。」 | |
「今回は、概して粒が揃った。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第六巻』昭和57年/1982年7月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和34年/1959年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 55歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
倉橋由美子 | 24歳 |
◎ | 38 | 「北一人推す組が五人。北・倉橋二人推す組が五人で、票決がつかず、佐佐木茂索氏の意見を聞いて、決定したのが真相」「大江・開高の例もあり、僅少の差で競り合った場合は、やはり両者に授賞すべきであったと思う。」「「パルタイ」以後、乱作だから減点するというのもおかしい。」「文体は、大江などとも違う才質で、ユニイクなものである。特に感覚的に新しいとは思わないが、女の体臭が凝結しているような緊密感は、中間小説で荒らされていた一、二年前の候補作にはないものだ。」 |
33歳 |
○ | 8 | 「すぐれた卒論を読むようなソツのなさを感じたが、同時に退屈もした。慶応の付属病院という安定した職場に坐って、二つのハンドルを持つことが、今日のようなはげしい分業時代にあって、氏自身が、どこまで自分に寛容となれるかは疑問である。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第六巻』昭和57年/1982年7月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和35年/1960年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 56歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
大森光章 | 38歳 |
◎ | 23 | 「意外にも丹羽文雄氏が強く推し出したので、内心おどろいた。それに力を得て、筆者もしきりに「名門」を支持した。」「よく調べてあるが、それがオーバーにならずに作品に定着している。もっと通俗的にしようとすればいくらでも通俗的になる可能性があるのを、よく防いで、真面目にまとめている。」「今まで「競馬」を扱った小説や戯曲の中では、群をぬいている。成功作である。」 |
選評出典:『芥川賞全集 第六巻』昭和57年/1982年7月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和36年/1961年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 60歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
森万紀子 | 30歳 |
◎ | 20 | 「面白く読んだ。」「虚無という程大袈裟でなく、デカダンの味が匂う。私はそこに惹かれたが、こういう作品は万人向きとは云えないので、多分授賞にはなるまいと思った。」「果して銓衡の結果、森を推しているのは私一人であった。」「森はもっと、ストレートな書き方をすべきだと思う。」「私も森の将来は保証できないが、これから先が楽しみではある。」 |
37歳 |
○ | 8 | 「私の心の中の次点(引用者中略)だった。」「前回の「さい果て」につづく佳作だ。一年の間につづけて問題になるものを書くのは、力量があるからである。で、津村を推した。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第七巻』昭和57年/1982年8月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和40年/1965年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 61歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
萩原葉子 | 45歳 |
○ | 27 | 「私は授賞作にしたかった。ある詩人の愛慾図絵は、とにかく迫力をもってよく書けている。表現力だけについて云っても、他の候補作にくらべて抜群だ。」「「慶子の手記」は、三好との見苦しい喧嘩三昧だけを綴って一方的であるが、彼女と雖も、三好の溺愛にこたえ、或る時は三好を国宝的詩人として尊敬したり、また或る日は、(引用者中略)情痴に狂ったこともあったろうと想像するが、それには、ほとんど触れていない点に、やはり疑問が残った。」 |
「第五十五回芥川賞は、新入りの委員大岡・三島の両氏を加えて、俄然活況を呈した。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第七巻』昭和57年/1982年8月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和41年/1966年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 63歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
丸谷才一 | 42歳 |
○ | 31 | 「推す気で出かけた。」「昭和二十年に兵役に服していた作者が、敗北のさなかの軍隊生活を書き、その中で徴兵忌避の心理を空想するリアリティを書いたものであったなら、私はこの作をもっと強く推す気になったろう。惜しむらくは、あまりにお伽話になっているので、推しきれなかった。」 |
34歳 |
■ | 24 | 「ごく平凡な職業軍人のステロタイプを描いたもので、反戦もなければ軍閥批判もない。その栄達心、功名心もありふれた世俗的なものだ。」「私の読後感をもむなしくするのみであった。」「過去半世紀にのさばった旧軍人の伝記を、無条件肯定の観点から書かれては困ると思うのである。」「たしかに大飛球の力作だが、塀を越して外野スタンドに入ったとは、私には思えない。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第七巻』昭和57年/1982年8月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和43年/1968年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 64歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
山田智彦 | 32歳 |
○ | 10 | 「最後まで残ったとは云い条、二票では票数が足りなかった。」「父が(引用者中略)息子夫婦に対しても遠慮っぽいところが面白く書けている。」「が、若い細君が主人公の留守中に、酒に酔った弟の友だちに犯されかけるのはわざとらしい、と云う批評があったが、私も同感だ。しかし、前作「予言者」にも、ちょっと惹かれていたので、私は○をつけた。」 |
「候補作九篇のうちで、ずばぬけて秀れた作品はなかった。そのかわり、はじめっから問題にならないような駄作もない。」「今回は部分的に大へんうまい個所があるものの、スケールが、いかにも小さい点に、難色があった。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第八巻』昭和57年/1982年9月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和44年/1969年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 66歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
森万紀子 | 36歳 |
○ | 23 | 「水準に達していた。」「ニヒリズムと反社会性がある。従って、景気のいい建設的な作品ではない。全体に憂鬱で、退屈でもある。」「とにかく問題意識や、過剰な性描写のないところがこの小説の身上である。」「最後に留置場の窓から、自分と同じ黄色い娼婦の幻覚を見るシーンも、私には美しく思われた。」「大岡、瀧井、丹羽委員らと私との四票を得たが、過半数を得られないので授賞の機会を逸した。」 |
「今回は芳しい作品が乏しく、長短は別としても、読むのに抵抗があった。」「銓衡委員が若い作家に無理解だという攻撃が、匿名欄あたりに出そうな気もするがそんなことはない。戦後二十年以上、芥川賞は有力な作家を輩出せしめていることを忘れないで欲しい。時にはミステイクもないことはなかったが、大過なきを得ていると思う。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第八巻』昭和57年/1982年9月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和46年/1971年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 67歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
富岡多恵子 | 36歳 |
○ | 8 | 「私はおもしろく読んだが、意外に支持者が少なかった。まず語り口がうまい。小説の評価で、語り口の出来、不出来は大きい筈。」「構成に無理があり、書かないほうがいい部分もあるが、天分のある人のようである。将来に待ちたい。」 |
33歳 |
□ | 16 | 「好感の持てる佳篇であった。」「終末の無人島行きが取って付けたようで苦しいが、これは沖縄から日本への脱出としたほうが現実感(ルビ:リアリティ)がもっと出たのではないか。」「沖縄の風土の住みよさと住みにくさが、もう一つ書けていたら、この作を推しきれなかった委員たちの票数を加えることができたかもしれない。素直で新鮮で、しかもなかなか小味がきいている。」 | |
36歳 |
△ | 19 | 「好感の持てる佳篇であった。」「前回までの諸作と較べて、この作が頭抜けているとは思わないし、また特に悪いとも思わない。」「私はこの作の授賞に反対しなかった。」「これがこの作家の掘り当てた鉱脈だとは言えないが、ここまで手を変え品を変えて書いてきて、やっとこの人の憎めない人柄に直面したような気がする。」 | |
「毎年の例に較べて、楽に読めた。そのかわり読後感は淡く、魅力にも迫力にも乏しかった。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第九巻』昭和57年/1982年10月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和47年/1972年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 69歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
61歳 |
○ | 5 | 「力作だが、この一作だけで授賞に踏み切れなかったところに、今度の銓衡の難しさがあった。僕は寡聞にして、この作者の存在を知らなかった。この山容に立向う雄渾な感覚は創造的であって、やはり横光さんのネオ・ロマンティクの残響が感じられた。」 | |
日野啓三 | 44歳 |
○ | 8 | 「僕は多分日野啓三に落着くだろうと思って、会場に臨んだ。果して最初の投票は日野が最多数であった。が、話合ううちに順序が逆転した。異国人を妻にしている男の悩みのようなものが、だいたい書けていると僕は思う。」 |
36歳 |
● | 6 | 「前回の「鳥たちの河口」のほうを僕は評価したい。」「「鳥たちの河口」には、新しい人の持つ特有の鋭さがあった。今度はそれが消えている。」 | |
「銓衡が終った後、中村光夫君が半星二つを丸印一つに数えることの疑問を発言された。」「ついでに言えば、候補何回ということが、評点の基準になるのはある程度はいいとしても、それが決定的となると、批評精神の衰弱ではあるまいか。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第十巻』昭和57年/1982年11月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和49年/1974年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 69歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
日野啓三 | 45歳 |
○ | 6 | 「最も力量があった。私は前回作に劣らない出来栄えと思ったが、平林たい子賞とダブるのに異議のある向きもあって、授賞に到らなかった。」「(引用者注:「夏の亀裂」と共に)何かを書こうとする主題が感じられて、書き足りないところはあっても、読む者に訴えてくる誠実さと迫力がある。」 |
金鶴泳 | 35歳 |
○ | 9 | 「平板なところもあるが、真剣味にあふれている。終りの部分で、ナルシシズムとも違う自己尊敬という新しい語彙が出てくるのは、注目していい。」「(引用者注:「浮ぶ部屋」と共に)何かを書こうとする主題が感じられて、書き足りないところはあっても、読む者に訴えてくる誠実さと迫力がある。」 |
福沢英敏 | 31歳 |
○ | 13 | 「たしかに糞便を失禁する汚い小説である。」「今までの小説美学とは次元を異にするとみえて、委員の中には「大落し」と大喝した人もあった。にもかかわらず、私が丸印をつけたのは(△印の委員も一人あった)、サドまたはマゾの思想の影響或いは悪影響があると思ったからだ。」「この汚らしさを滑稽とだけ受止めていいかどうかは問題である。この作者は生来病的なのかと思ったら、長野県伊那の健康な農民だそうである。」 |
選評出典:『芥川賞全集 第十巻』昭和57年/1982年11月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和49年/1974年9月号) |
選考委員 舟橋聖一 70歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
中上健次 | 28歳 |
○ | 5 | 「思ったより、席上買われなかったが、私には面白かった。この作で授賞といかないまでも、将来性はある人と思う。戦後生れだというから、まだ先が長い。」 |
45歳 |
□ | 6 | 「身辺的なこの作だけでは、評価しきれないものがある。芥川賞にそういう銓衡規定はないのであるが、前回及び前々回との三連作を通してみて、誰れもがこれを捨て切れなかった。」 | |
49歳 |
△ | 11 | 「きめこまかく丹念に書きこまれていて量感もある。」「ガンによる臨終は概ね長い。作者の作意ではなく、ありのままの写実である。ただ齢に不足のない老母の死は、所詮随筆的であって、ほんとうにロマネスクなのは、愛人との生と死の葛藤であろう。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第十巻』昭和57年/1982年11月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和50年/1975年3月号) |
選考委員 舟橋聖一 70歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
44歳 |
◎ | 16 | 「圧倒的な重みがあった。」「芥川賞にははじめての原爆もので、九委員のうち、七・五票を得たのも当然だ。」「「夏の花」(原民喜)以来、原爆ものは殆んど読んでいるが、林さんの強みはその犠牲に三十年の歳月を費しながら、なおこの一篇をまとめるのに耐えたところにあった。少々の瑕瑾、例えば伯父さんからの聞書などに誇張があっても、全体がそれを乗り越えている。」 | |
小沢冬雄 | 43歳 |
○ | 5 | 「感動して読んだ。妻君をポカポカ殴りながら、なおかつ可愛がっている主人公の気持がよく伝わってくる。」 |
選評出典:『芥川賞全集 第十巻』昭和57年/1982年11月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和50年/1975年9月号) |