生没年月日【注】 | 大正10年/1921年10月31日~平成3年/1991年6月23日 | |
受賞年齢 | 44歳2ヵ月 | |
経歴 | 本名=堀川治平。秋田県生まれ。南満州工専通信工学科卒。 | |
受賞歴・候補歴 |
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処女作 | 「蕨根を掘る人々」(『月刊さきがけ』昭和21年/1946年4月号) | |
サイト内リンク | ▼直木賞受賞作全作読破への道Part6 |
「虜愁記」
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分載回数 | 全4回 | ||||
誌名 | 「秋田文学」 | ||||
巻号 | (1)第23号 (2)第24号 (3)第26号 (4)第27号 | ||||
副題等 | (2)目次 「(第二部)」 (3)目次 「承前」 (4)目次 「(承前)」 | ||||
印刷/発行年月日 | (1)発行 昭和39年/1964年8月1日 (2)発行 昭和39年/1964年11月1日 (3)発行 昭和40年/1965年5月1日 (4)発行 昭和40年/1965年11月1日 | ||||
発行者等 | 発行人 小国敬二郎 印刷人 株式会社秋田中央印刷 | ||||
発行所 | 秋田文学社(秋田市) | ||||
総ページ数 | (1)97 (2)71 (3)128 (4)69 | 表記上の枚数 | ― | 基本の文字組 (1ページ当り) |
(1)~(4)29字 ×26行 ×2段 |
本文ページ | (1)52~96 (2)51~70 (3)86~96 (4)49~68 (計96頁) |
測定枚数 | 336枚 |
書誌
昭和41年/1966年3月・文藝春秋刊『虜愁記』
候補者 千葉治平 44歳 | ||||
選考委員 | 評価 | 行数 | 評言 | |
大佛次郎 | 68歳 |
△ | 10 | 「まだ省略をほどこして磨きがかかると信じた。」「やや微温な、ひとりよがり(作中人物)の甘さを感じた。」 |
海音寺潮五郎 | 64歳 |
○ | 27 | 「該当作なしならそれでもよいが、出すならこれだと思ったのだ。」「肩肱張らず、おとなしい書きぶりの中にほのぼのとした詩情のあるのをうれしいと思った。」「ともあれ、想像もここまで行けば大したものだ。」 |
小島政二郎 | 71歳 |
□ | 16 | 「平板過ぎるのが欠点だろう。」「直木賞候補作品の中に文学を感じると、私は推薦したくなる癖がある。(引用者中略)半票を投じた所以である。」 |
源氏鶏太 | 53歳 |
○ | 6 | 「詩情も漂い、それだけに多少緊張感に欠ける感じもしたが、しかし、この授賞に反対する気はなかった。」 |
村上元三 | 55歳 |
△ | 7 | 「宗家の人々が、なぜ「私」をはじめ日本の兵隊をこれほど信頼するのか、そこのところを、もっと突っ込んで書いて欲しかった。」 |
中山義秀 | 65歳 |
◎ | 9 | 「私はこの「虜愁記」と「大佐日記」とを推した。」「読後共感をよぶ感情の快い豊富さがただよっている。」 |
木々高太郎 | 68歳 |
□ | 6 | 「私は本来戦争ものは嫌いである。然し、この戦記はちょっと変っている。それでやっと満足した。」 |
松本清張 | 56歳 |
― | 0 | |
今日出海 | 62歳 |
― | 0 | |
川口松太郎 | 66歳 |
― | 0 | |
選評出典:『オール讀物』昭和41年/1966年4月号 |
文量 | |
長篇 | |
章立て | |
「1」~「30」 | |
時代設定 | 場所設定 |
太平洋戦争戦後 | 中国湖南省 |
登場人物 | |
●私(語り手、森、元軍曹・班長) ●矢崎(元兵長) ●篠田(元一等兵) ●宗玉貴(捕虜を収容する一家の主) ●宗淑蓮(玉貴の娘、戦争未亡人) |