直木賞のすべて

将棋・オダサク・直木賞
~吉井栄治
メモリアル

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Last Update[H19]2007/7/8

吉井栄治 候補作家の群像

『文藝年鑑』、OPAC。

『文藝年鑑 昭和二十五年版』
日本文芸家協会編
昭和25年/1950年6月・
新潮社刊
 文献調べではいつもいつもお世話になっている頼みの綱『文藝年鑑』だが、吉井栄治の「微笑」「北風」を探す旅においては、いつもの霊験あらたかな効力も、まったく当てにできない。昭和二十五年度版(昭和25年/1950年6月・新潮社刊)、昭和二十六年度版(昭和26年/1951年4月・新潮社刊)と見ても、いずれの雑誌掲載小説目録にも、吉井栄治の名前など影も形もないからだ。

 国立国会図書館などいくつかの主要な図書館のOPACといえども、吉井栄治と来られては、どうやらお困りの様子である。たしかに作者名・吉井栄治で探せば、何冊かはひっかかる。しかし、そのいずれにも昭和25年/1950年に発表された小説が載っていないのは明らかだ。

 以上。ワタクシの調査のよりどころなんて、たかだかこんな範疇だ。シロウト文学研究家には、この次に繰り出す策が、早くも思いつかない。ああ、浅はかなるかな、直木賞オタクよ。

 ただ、ヒントはいくつか提示されている。織田作之助、藤沢桓夫、『海風』、将棋、大阪。……ここらあたりを少しずつつぶしていくしかなさそうだ。
将棋観戦記2冊を読む。

『思い出の観戦記1 名人戦名局集』
吉井栄治
昭和47年/1972年頃・
弘文社刊


『名棋士名局集 付・盤側棋談』
吉井栄治
昭和48年/1973年頃・
弘文社刊
 われらが吉井栄治は、まったく著作物をもたない人ではない。簡単に調べるだけでも少なくとも2冊の存在が確認できる。『思い出の観戦記1 名人戦名局集』(昭和47年/1972年頃・弘文社刊 刊行年月日の表記なし)と『名棋士名局集 付・盤側棋談』(昭和48年/1973年頃・弘文社刊 刊行年月日の表記なし)である。最初はここからアタックしてみることにしよう。

 まず『名人戦名局集』だ。序文を、かの藤沢桓夫が書いている。こんな具合に。
 ここに忘れずに書いて置きたいのは、もともと吉井君は作家志望の人であり、彼と私との三十年以上にわたる交遊も文学を通じたものであることだ。東大生時代の吉井君は、織田作之助君らとともに同人雑誌「海風」に拠って手堅い作品を発表した。また朝日新聞に入社した後に彼が書いた作品は、それはたしか関西の棋士を主人公にした中篇小説だったと記憶するが、直木賞の候補になった。
(「序」より)
 この一文のすばらしさは、作之助君らとともに『海風』同人だった吉井栄治と、朝日の将棋観戦記者の吉井栄治と、直木賞候補の吉井栄治とが、同一人物であることをバシッと明確化してくれていることだと思う。この藤沢の証言がなければ、それぞれの「吉井栄治」が同姓同名の別人である可能性を残したまま、旅をつづけなければならなかったところだ。いやあ、助かりました、藤沢さん。

 さらにどんなヒントが隠されているかわからないので、観戦記の全文を読んでみる。この世に生をうけてン十年、ワタクシははじめて将棋観戦記なるものを読んだ。当たり前だが、われらが吉井栄治はそのどこにも自分の小説のことを書いていない。将棋、将棋、将棋のことばかりである。
 次に『名棋士名局集』を読んでみる。前半は観戦記だが、後半にエッセイ「盤側棋談」がおさめられている。これもまた言わずもがな、将棋に関するエッセイなのだが、その端ばしで自分の生い立ちやこれまでの歩みを語っている。
 筋がわるいのだ。勝負事でも、碁、将棋、マージャン、玉突き、競馬、競輪、株、なんでもやるのだが、何をやらせてもみんな下手だ。理解は割合はやくて、何でもすぐにおぼえるのだが、入門の段階をすぎると、すぐに熱がさめてしまって、あとはちっとも進歩しない。人生もその通りであった。きょろきょろとよそみばかりしているうちに、やがて六十年の歳月が流れ過ぎようとしている。けれども、それが幸いしていることもある。私がもしものごとに熱中するたちであったら、将棋は強くなっていたかもしれないけれど、競馬、競輪、株などに夢中になって、妻子を路頭に迷わせていたかもしれない。
(「将棋と私」より)
 謙遜家たるわれらが吉井栄治は、直木賞候補のことは一切語っていない。
藤沢桓夫の昔語り。

『大阪自叙伝』
藤沢桓夫
昭和56年/1981年3月・
中央公論社/中公文庫
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『回想の大阪文学 明治・大正・昭和の大阪文学を語る』
藤沢桓夫
昭和58年/1983年8月・
ブレーンセンター/なにわ塾叢書
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 藤沢桓夫はかつての流行作家だから、戦前から厖大な量の著作を遺していて、中には大阪の作家などに触れた回想の本もいくつかある。これに手を伸ばしてみたい。

 『大阪自叙伝』(昭和49年/1974年9月・朝日新聞社刊->昭和56年/1981年3月・中央公論社/中公文庫)は、おそらく大阪文壇の一側面を知ろうとする者にとって基本的文献のひとつに挙げられる名著だろう。師というのはありがたいものです、藤沢はこの書において、作之助君のことを語る段で、われらが吉井栄治のことにも少々触れてくれている。
 吉井栄治は、直木賞候補に推されたこともある堅実な構成の作品を書いていたが、結局作家の道を進まず、新聞記者に終始した。現在、「朝日新聞」の将棋名人戦の観戦記を(栄)の署名で書いているのは彼である。
(「織田作之助登場」より)
 吉井栄治は、織田とは高津中学以来の親友だが、織田の買った馬が勝った瞬間、ふとあたりを見廻すと、今まで私たちと一緒にいた吉井の姿がどこへ行ったのか影も見えなくなっている。そういうことが再三あった。
 次のレースになり、姿を現した吉井に、
「どこへ行ってたんや?」
 ときくと、頑固でつむじ曲りなところのある吉井は、それが癖で少し吃りながら、
「織田が派手に躍り上って喜ぶ姿を見るのが阿呆くさいので、逃げてましてん。またオーバーに自慢しやがるにきまってますしね」
 ごもっともと、私たちは大笑いした。
(「おもろい男」より)
 もう一冊『回想の大阪文学 明治・大正・昭和の大阪文学を語る』(昭和58年/1983年8月・ブレーンセンター/なにわ塾叢書)という本がある。これは当時、市民講座「なにわ塾」において、帝塚山学院短期大学教授の詩人・杉山平一さんが聞き役となり、藤沢翁が語った講義をまとめたものだ。これはこれで、やはり貴重な生き証人によるエピソード満載なんだけど、われらが吉井栄治のことは出てこなかった。

 無論、このほかにも藤沢桓夫のエッセイは数多くあるわけだから、一つ一つ読み込んでいかなきゃならないのだけど、なんとなく、この路線は吉井栄治の「微笑」「北風」に行き当たる気がしない。ちょっと方向を転換してみよう。
夢にまでみた、ってアレ、ほんとにあるんだな。

『表彰の果て』
大谷晃一
昭和60年/1985年7月・
編集工房ノア刊
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 ここら頃から、ワタクシのからだに異変が生じてきた。“からだ”ではなく“精神”というべきか。「夢にまでみた」と、やや誇張ぎみに事柄を修飾する定型句を、ワタクシもよく使うことがあるが、ほんとうに吉井栄治が夜みる夢に出てくるようになった。いや、出てきたのは吉井さん本人ではない。「微笑」「北風」なのだ。
 何度もみた。ひどいときには月の半分はこんな夢ばかりみていた。

 いくら調べてもまったく在りかがわからず困っているワタクシの前で、知人のひとり(日ごろ小説なんて読んでいなさそうな人)が、“ふうん、そんなに探し出すのって難しいのかい”ってな顔をしながら、インターネットでちょちょいと検索して、いとも簡単にその掲載誌を探し当ててしまい、いたたまれない気分になるワタクシ……で目が覚めたり、たまたま入った図書館でたまたま見ていた雑誌に思いがけず「微笑」「北風」の情報を発見して、うわ、これだ、やったあ!と喜ぶワタクシ……で目が覚めたり、もうドップリと病気である。直木賞オタクの本望といえば本望だろうが、いずれにしても目覚めた後のむなしさは、どうにもやりきれない。

 探索の矛先は、作之助君に移った。前にご紹介した大谷晃一の『織田作之助 生き愛し書いた』だ。「微笑」「北風」のことは出てこないけれども、その渾身の取材ぶりに感動してしまい、同じ著者の『表彰の果て』(昭和60年/1985年7月・編集工房ノア刊)にも当たった。『海風』同人で昭和19年/1944年に夭折した白崎礼三の人生に、「白鳥の死」として一篇が割かれている。ここにも吉井栄治は出てくる。しかしハナシは当然、昭和19年/1944年で終わっている。われらが吉井栄治が直木賞候補になる6年も前のことだ。
いよいよ本丸、吉井のホームグラウンド『文学雑誌』。

『文学雑誌』
第48号 吉田定一追悼号
昭和45年/1970年7月・
文学雑誌発行所刊
 戦後、大阪で藤沢桓夫が中心となり、そのもとに作之助君などが集まって『文学雑誌』なる同人誌が創刊されていたことを知った。われらが吉井栄治も参加している。吉井は『名棋士名局集』の観戦記のなかで、ふと将棋以外のことを書くことがあり、「早指し東西両横綱の対戦 八段 灘蓮照×八段 花村元司 第24期A級順位戦」では昭和44年/1969年に46歳で急逝した吉田定一なる作家のことに触れている。吉田定一とは、長きにわたって『文学雑誌』の編集に携わっていた人だ。

 調べてみた。ワタクシなぞがほじくり返すまでもなく、『文学雑誌』についてはきっと、関西あたりの大学の先生などが詳細に研究されていると思う。で、この雑誌こそ、われらが吉井栄治が戦後、おのれの文学修業の場としてその編集・発刊に力を入れていた同人誌であることがわかった。

 昭和22年/1947年1月、創刊。発行元は三島書房、これが第10号(昭和24年1月)から大丸出版部に移る。と思ったら、すぐにしばらく休刊となって、復刊後は帝塚山学院短期大学出版部から2冊が出たのち、発行の引き受け先がなくなってしまったのか、第19号(昭和27年6月)から第22号(昭和30年1月)までの4冊にわたり発行所が「芦屋市打出、吉井方 文学雑誌発行所」となる。おそらく吉井の自宅だ。

 彼はどんな作品を『文学雑誌』に発表していたか。第52号(昭和49年/1974年9月)にある「総目次」や、実物などを確認した結果、ざっと挙げてみると、次のようなものがある。

2号 - 1巻2号(昭和22年/1947年2月)小説「強盗容疑者」
3号 - 1巻3号(昭和22年/1947年5月)小説「調室」、織田作之助追悼記「中学時代の思い出」
12号 - 3巻3号(昭和24年/1949年3月)編集後記
13号 - 3巻4号(昭和24年/1949年4月)小説「陽炎」
18号 - 復刊2号(昭和26年/1951年1月)小説「暗い旅」
19号(昭和27年/1952年6月)編集後記
23号(昭和32年/1957年5月)随筆「異邦の友」、編集後記
30号(昭和36年/1961年11月)小説「その町」
48号(昭和45年/1970年7月)吉田定一追悼記「文友・棋友・酒友」
55号(昭和52年/1977年4月)長沖一追悼記「長沖先生の微笑」

 いやあ、どう考えても昭和25年/1950年にわれらが吉井栄治が小説を発表するとしたら、この『文学雑誌』ぐらいしかなさそうなんだよな。だけど、そんなワタクシの虫のいい期待は、もろくも壊される。大丸出版部から出ていた同誌は、3巻7号(通巻16号 - 昭和24年/1949年7・8月合併号)をもって、どうやら大丸側の事情で発行元を失い、休刊に追い込まれてしまう。その後、鮮やかに復活するのは昭和25年/1950年10月。……むむむ。ちょうど昭和25年/1950年の上半期、ぽっかりと『文学雑誌』は刊行されていなかったわけだ。くそお。

 復刊号(昭和25年/1950年10月)の『文学雑誌』には、藤沢桓夫親分が巻末に「『文学雑誌』の再出発」なる一文を寄せている。「それが突然休刊を余儀なくされたのは、大丸出版部が経営を放り出したからである。このことについては、文句をつけたいことがいろいろあるが、今は言わない。」とか、妙に意味深なことも書いているんだけど、注目すべきはこの箇所だ。
 一人一人名前は挙げないが、わが「文学雑誌」から、すでに幾人の新人が中央の一流誌に迎えられたかを、読者は想起して頂きたい。彼らの或る者が「芥川賞」の候補に推され、或る者が「横光賞」の候補に推され、或る者が「直木賞」の候補に推されたことはすでに読者の知られる通りである。
(「『文学雑誌』の再出発」より)
 それまでの『文学雑誌』同人で、芥川賞候補に推されたのは澤野久雄(第22回候補「挽歌」 - 『文学雑誌』昭和24年/1949年5月号)だろう。横光賞候補に推されたのは石浜恒夫(第2回候補「ぎゃんぐ・ぽうえっと」 - 『人間』昭和24年/1949年8月号)だろう。そして直木賞候補に推されたのは、もちろん吉井栄治しか思い浮かばない。しかし、その候補作がどこに発表されたものなのかが相変わらず書かれていない。もう藤沢さんったら。勿体ぶっちゃってえ。
候補作の掲載誌まで併記する『日本読書新聞』、きみは偉いぞ。

『オール讀物』
昭和25年/1950年11月号・
文藝春秋新社刊
 どうも近くまでは行けるのだが、核心が遠いんだよなあ。

 次に狙いを定めたのが、当時の新聞だ。今みたいに、直木賞候補作が“作者名・作品名・掲載誌”の3点セットで紹介されているわけもないが、学芸欄の文芸時評とか、小ネタのコラムとか、なんらかのかたちで吉井栄治の作品に触れた記事が埋もれてないかなと、期待したのだ。

 小研究の「谷座をさがして地獄まで」のところでも書いたが、『朝日』『毎日』『東京』では見つからず、『日本読書新聞』でようやくバットに当たった。昭和25年/1950年9月13日号、ここになんと、第23回直木賞の候補作が、例の3点セットで明確に紹介されているではないか。おお、でかしたぞ。旅もようやく終わったか。ふと胸を撫で下ろしその記事を見ると、一転、脳天にガツンと鈍器を叩き込まれた。

 受賞作は、今日出海「天皇の帽子」と小山いと子「執行猶予」。候補作は、源氏鶏太「随行さん」、小泉譲「南支那海」、梅崎春生「黒い花」、檀一雄「熊山の女妖」、玉川一郎「川田二等少尉」。以上。

 なぬ? ぬあんだって? そんなことがあるか。『オール讀物』昭和25年/1950年11月号には、候補作としてしっかりと吉井栄治「微笑」「北風」と明記されているではないか。木々高太郎だって選評で、この作者について13行にもわたって触れているじゃないか。こんなふうに。
 もう一言し度いことがある。これは候補作品に入っていたが、五人のうちには入らなかった吉井栄治(北風、微笑)のことで、僕はこの人(どんな人か全然知らない。)は書けると思う。もう一歩と言うところだが、本人が私小説が文学の一層いゝものだと考えるのをやめると、大衆文学の書ける人であるが、仲々これはやめまいと言う感じだ。とに角、僕は注目していることを特に附言して置き度い。
(選評「遠慮のない委員会」より)
 なのに、なぜ、われらが吉井栄治を外すのだ、日本読書新聞よ。

 行ったあ、決勝ホームランかあ、と思った瞬間、観客のためいきとともにボールは闇夜に消えていき、ポール際ぎりぎり場外への大ファールだった。ワタクシもひとり図書館の一室で、ひとしれずためいきをついた。
芋たこなんきんの原案に、興奮する。

『文学交友録』
庄野潤三
平成11年/1999年10月・
新潮社/新潮文庫
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『夕刊流星号 ある新聞の生涯』
足立巻一
昭和56年/1981年11月・
新潮社刊
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『楽天少女通ります 私の履歴書』
田辺聖子
平成13年/2001年5月・
角川春樹事務所/ハルキ文庫
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 どこを探していいのか、ますますわからなくなってきた。ワタクシの生きている間に「微笑」「北風」の全貌を解明できるのか。はなはだ不安になってきた。
 コツコツと、昭和25年/1950年上半期の大阪ら辺の文学状況を書いていそうな文献に、当たっていくしかあるまい。

 庄野潤三『文学交友録』(平成7年/1995年3月・新潮社刊->平成11年/1999年10月・新潮社/新潮文庫)。庄野は『文学雑誌』創刊ごろの同人のひとり。彼の回想録で比較的手に入りやすいものがこれだ。戦後まもなく、若手に文学修業の場を与えてやりたいと『文学雑誌』を切り盛りした藤沢桓夫やその盟友、長沖一のことはかなりくわしく書いてある。しかし吉井栄治は登場しない。

 足立巻一『夕刊流星号 ある新聞の生涯』(昭和56年/1981年11月・新潮社刊)。直木賞マニアには檀一雄「真説石川五右衛門」の初出紙としておなじみ、戦後の大阪で創刊された『夕刊新大阪』新聞に、かつて所属した詩人・作家の足立巻一の書だ。なにかヒントになるようなことは出てこないかと読んでみた。しかし吉井栄治は登場しない。

 久坂葉子『久坂葉子の手紙』(昭和54年/1979年9月・六興出版刊)、『神戸残照 久坂葉子』(平成18年/2006年3月・勉誠出版刊)と、富士正晴『贋・久坂葉子伝』(昭和31年/1956年3月・筑摩書房刊->平成7年/1995年2月・筑摩書房/ちくま文庫)。久坂は昭和25年/1950年当時、神戸の同人誌『VIKING』に所属し、10代の若さで芥川賞候補にも挙げられ、そして弱冠21歳で自殺したとされる、まさに「芥川賞のすべて」向きの作家だ。神戸と大阪は地理的にも近いし、庄野潤三などは『文学雑誌』の後で『VIKING』の同人にもなっているし、『文学雑誌』の3巻7号(昭和24年/1949年7・8月合併号)には『VIKING』の中心メンバー富士正晴が小説「絶望」を寄せているし、なんらかのつながりがあってもよさそうだと想像し、3冊ばかり読んでみた。久坂が斎田昭吉の紹介で『文学雑誌』の吉田定一に原稿を預けたものの、なかなか掲載されないので、早く原稿を返してほしいと斎田宛ての手紙に書いていたことなど知れたが、やはり吉井栄治は登場しない。

 『BOOKISH』第9号(平成17年/2005年9月)。『文学雑誌』編集の実質的なとりまとめ役、小説家・放送作家の長沖一について小特集が載っているというので、取り寄せてみた。しかし吉井栄治は登場しない。

 田辺聖子『楽天少女通ります 私の履歴書』(平成10年/1998年4月・日本経済新聞社刊->平成13年/2001年5月・角川春樹事務所/ハルキ文庫)。NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」の原案となったエッセイだそうだ。お聖さんの半生には、なにしろ川野彰子という直木賞史を語るうえで重要な人物がからみ合っているのだから、それも含めてこれは重要な書と言いたい。しかし吉井栄治は登場しない……わけではない! 出てくる。意外なかたちで登場する!
 「吉」「井」「栄」「治」の四つの活字がたった一回印刷されているだけでココまで興奮するワタクシも、なんだかアブナい奴なのだが、お聖さんは昭和39年/1964年に「感傷旅行」で芥川賞を受賞する前、大阪文学学校に通ったり、懸賞小説に応募したりしていた。『文学雑誌』総目次の解説を書いている杉山平一によれば、同誌第24号(昭和32年/1957年6月 総目次では第25号となっている)に「木下桃子」の筆名で「大阪無宿」という作品を寄せているのも、実は田辺聖子なのだそうだ。
 で、当時大阪では市の外郭団体の大阪都市協会がPR誌『大阪人』を出していて、年刊の『文芸大阪』という雑誌も出し始めた。これは藤沢桓夫や長沖一が協会側に、若い作家たちを育てるために懸賞募集をやったらどうか、自分たちも選者となって支援する、と持ちかけてつくられた雑誌らしい。お聖さんは昭和32年/1957年、この雑誌に「虹」を応募し一席に入選した。
 「文芸大阪」の編集者たちは大阪の新聞記者や放送関係者たちだったが、みなそれぞれが作家でもあられた。朝日新聞学芸部の吉井栄治氏、毎日小学生新聞の瀬川健一郎氏、ABC放送制作部の鬼内仙次氏、やはりABCの阪田寛夫氏。司馬遼太郎氏はまだ『梟の城』を世に出されない前だった。焼け跡からやっと立ち直った大阪の町も若いが、編集委員も若く、雑誌にはいきいきした、猥雑なほどのエネルギーがあった。
(「第三章 大阪弁でサガンを」より)
 昭和30年代前半。朝日新聞の記者でありながら、われらが吉井栄治、文学への情熱はまだまだ盛んだった模様である。
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