直木賞のすべて

将棋・オダサク・直木賞
~吉井栄治
メモリアル

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Last Update[H19]2007/7/10

平成19年/2007年7月8月現在、当サイトには
受賞作家・候補作家のページが496人分あります。
よく知られた名前やら、はじめてお目にかかる名前やら、
どの作家にしても1ページで紹介できる量など多寡が知れていて、
もっともっと詳しく作家の記録を残しておきたいのですが、
管理人が怠惰なために、なかなか思い通りにいきません。

それでも有名作家や今人気の作家は、うちのサイトじゃなくても
他に熱心な方々が心をこめたサイトを開かれているので、よいのです。
胸が痛むのは、直木賞受賞作家・候補作家でありながら、
誰もとりあげないような人たちのことを、
あまりご紹介できていないこと。
原因は、ほぼ管理人の勉強不足にあります。

穴だらけの知識を少しでも埋めるべく、
一歩一歩すすむ道のりの中で、出くわしたのがこの人、吉井栄治。
第23回(昭和25年/1950年・上半期)の候補作家です。

吉井栄治 候補作家の群像

なぜかマクラは織田作之助。
 ハナシは織田作之助から始まる。

 はてさて、戦前・戦後に生きた大阪の作家、織田作之助――通称オダサクは、もちろん有名な人ではあるが、直木賞とは直接の関係はない。
 どちらかというと芥川賞なら関係がある。第10回(昭和14年/1939年・下半期)で「俗臭」が候補作に挙げられている。普通にいけば「直木賞のすべて」なる、こんな偏屈サイトにお出でいただくことのない人だ。できれば「芥川賞のすべて」サイトにでもお任せしておきたい。恥を忍んで申せば、ワタクシは彼の小説をほとんど読んだことがない。彼に関する研究書、論文、回想談、伝記、そういった文献は、気が遠くなるくらい大量にあるはずだが、そのうちオダサクと直木賞との関連を取り上げたものは、まずない(と勝手に思っている)。

 じゃあなぜ、わざわざご登場願ったのか。彼にまつわる友人・知人のなかに直木賞と深いかかわりのある作家が何人かいるからなのだ。

 さて、こういう流れになれば、その筆頭に挙げなければならないのは、誰を差し置いてもまず、アオコーだろう。アオコーなんて呼び名はないか。オダサクの旧制高校時代からの大親友、青山光二のことだ。
 作之助君は昭和6年/1931年から5年間、京都の旧制三高に籍をおいていた。2年上級には西口克己第35回 昭和31年/1956年・上半期に『廓』で候補)とか、1級下には富士正晴第52回 昭和39年/1964年・下半期に『帝国軍隊に於ける学習・序』で候補)とか、戦後の直木賞史にちょいと顔を出す面々がいたりするんだけれど、仲がよかったのは同級生の白崎礼三、瀬川健一郎、青山光二だった。
オダサクといえば、青山光二。

『純血無頼派の生きた時代 織田作之助・太宰治を中心に』
青山光二
平成13年/2001年9月・
双葉社刊
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『文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち』
大川渉
平成17年/2005年12月・
筑摩書房刊
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 光二君は無事に高校を卒業して東京大学に進学したのに、作之助君は3度の留年の末、高校を退学処分となる。それでも仲間の多くが東京に出ていたので、作之助君たまらず上京する。そこで光二君らとはじめた同人誌が、かの有名な『海風』だった。

 同人誌を人に説明するときには、どんな同人が参加していたか、代表的な人の名を挙げるのが自然の定め。『海風』の場合、まず絶対に作之助、光二の両名は外せまい。それから杉山平一、白崎礼三、瀬川健一郎、中谷栄一、吉井栄治、柴野方彦、深谷宏、太田道夫、池田進、市川俊彦、小川正巳、田中儀一、品川力などがいる。

 まあ、冷静に振り返ってみて、いちばんの出世頭は作之助君だろうなあ。なんたって彼が第6号に発表した「俗臭」は芥川賞候補となったし、今も彼の代表作の一つに挙げられる「夫婦善哉」だって『海風』第7号に掲載されたものだ。『海風』なくして作之助君の中央文壇デビューはありえなかった。と同時に作之助君なくして6年弱にわたる『海風』の歴史もなかった。

 ただ、無念なるかな、作之助君の命は短かった。昭和22年/1947年33歳のとき、肺結核の出血によって窒息し、この世を去ってしまう。

 いっぽう光二君は彼との友情を胸にして、その後もたくましく生き抜いた。90歳にして「吾妹子哀し」で史上最高齢の川端康成賞受賞作家となったニュースの駆けめぐったのは、まだほんの4年前だ。彼には、作之助君に関するエッセイや小説などが数多くあって、どれを読んでも高校時代からの緊密な友情がよくよく汲み取れる。

 たとえば『純血無頼派の生きた時代 織田作之助・太宰治を中心に』(平成13年/2001年9月・双葉社刊)とか、『文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち』(大川渉著、平成17年/2005年12月・筑摩書房刊)だ。この両書では作之助君のこともさることながら、光二君が「法の外へ」(第35回 昭和31年/1956年・上半期)、『修羅の人』(第54回 昭和40年/1965年・下半期)、「竹生島心中」(第77回 昭和52年/1977年・上半期)と、21年の長期スパンで3度、直木賞候補になったときの裏話も惜しみなく書かれていて、選考委員の木々高太郎とのバトルなんかは、むちゃくちゃ面白いハナシなんだけども、紹介しだすと際限がなくなりそうなので次に進む。
そしてオダサクを知るなら、大谷晃一。

『織田作之助 生き愛し書いた』
大谷晃一
平成10年/1998年7月・
沖積舎/作家論叢書
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 大谷晃一『織田作之助 生き愛し書いた』(昭和48年/1973年10月・講談社刊『生き愛し書いた 織田作之助伝』->改訂版 平成10年/1998年7月・沖積舎/作家論叢書)は、作之助君の33年の生涯を追った伝記だ。大谷さんは、いしいひさいちの表紙でおなじみ“大阪学”シリーズの著者だけども、この方の、大阪の作家に対する思い入れは、いやあ、心底すさまじい。研究熱心なんて枠を大きく飛び越えて、ただもう頭が下がるばかりだ。

 この伝記もまた、オダサク研究者なら、まず避けて通ることのできない、微に入り細にうがつ力作中の力作で、作之助君がいつどこで何をしたかを事細かに調べ上げたその労力たるや、人間の心を持つ者ならば、かならずや敬服の念を抱かずにはいられないだろう。

 直木賞にハナシを引き戻すと、この書の登場人物のなかには、直木賞候補者が幾人か含まれている。同じ大阪人、“ほぼ受賞作家”長谷川幸延も出てくる。のちにオダサク四部作を書く藤本義一も出てくる。青山光二君は言わずもがな。そしてもう一人、忘れちゃならない人がいる。おわかりですね? われらが吉井栄治だ。作之助君とは旧制高津中学で同級となって以来の、終生の親友である。高校は違う先に進んだが、東大の文学部に入り、卒業後に『海風』の同人になった。もちろん作之助君がいたからである。

 ヨシイエイジ? そんな作家いたっけ? と首をかしげたあなた。オーケー、オーケー、その反応は100%正しい。偉そうに知ったかぶって書いているけど、ワタクシもつい最近までそうでした。すみません。よっぽど『海風』とか、その後継誌の『大阪文学』とか、戦後に作之助君が参加した『文学雑誌』とか、そこら辺に興味を持っていないかぎり、まあ知らないと言っても何を恥じるところがあるもんか。お互い自信をもっていこうぜ。
 あら、でも、奥さん、吉井栄治はれっきとした直木賞候補作家なのですってよ。あら、そおう。そうと聞いて、半身を乗り出してこないと筋金入りの直木賞オタクとは言えませんわよねえ。ですわよねえ。
将棋観戦記者(栄)。
 あ、吉井栄治ってひょっとして朝日の(栄)さんのこと? と即座に問い返したあなた。さすがだなあ。渋いところをお突きになる。

 そうなんだ。昭和20年代から昭和40年代までの往年の将棋ファンにはきっとお馴染み、朝日新聞大阪本社学芸部に所属し、同紙に(栄)の署名で将棋観戦記を書いていた吉井栄治記者とは、まさしく作之助君と同級生の、われらが吉井栄治なのだ。

 直木賞受賞・候補作家のなかには、候補になった後に、小説以外の道を究めた専門家スジの方がいろいろといて、たとえばゴルフ研究の摂津茂和、宮沢賢治研究の森荘已池、経営コンサル“お金の神様”邱永漢、カナモジ運動の松坂忠則、ヨーガ研究の広池秋子、占星術の斎藤鈴子(訪星珠)、などなど多士済々なんだけど、将棋といえばやはり将棋記者の吉井栄治を真っ先に挙げたいところだ。
残された大きな問題。

『わが文壇的自叙伝』
源氏鶏太
昭和50年/1975年11月・
集英社刊
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 試しにインターネットで「吉井栄治」と検索してみる。Googleだと53件ひっかかる(平成19年/2007年7月8日現在。似たページを除外した値)。ここらをざっと押さえれば、おおむねこれまで書いてきたようなことは、すぐに知れる。

 中でも、大阪府立中之島図書館のサイト内にある、貴重な貴重なページ「愛棋家そして文壇将棋界の強豪だった作家・藤沢桓夫-藤沢文庫の将棋本など-」を読み落とすわけにはいかない。簡単ではあるが吉井栄治のことに触れられている。われらが吉井栄治が、文学の師、人生の師と仰いだのが、大阪の重鎮作家、藤沢桓夫だったと書いてある。

 藤沢桓夫っていえば、ちょっとお兄さんなので候補になったことこそないけれど、菊池寛とも交遊があったし、文藝春秋の雑誌に数多く作品を書いていたりして同社との結びつきも深く、日本文学振興会が直木賞の候補選びの参考にと推薦カードを配っていた文壇関係者の一人だから、けっこう直木賞とは関わりがあるんだよなあ。大阪でサラリーマンをしながら作家人生を歩み出した源氏鶏太も、エッセイ集『わが文壇的自叙伝』(昭和50年/1975年11月・集英社刊)でこんなこと書いているし。
 その頃(引用者注:昭和23年/1948年頃)、大阪から文壇に出るには、藤沢桓夫氏の息がかかっていないとダメだとの風評があった。勿論、そのことは後で全くの誤りであることがわかったのだが、そうと知らなかった私は、すでに東京の雑誌に小説を発表しているといううぬ惚れもあって、いってみれば反藤沢氏的な意味で結成された「在阪作家倶楽部」に加入した。同人に、長谷川幸延氏、宇井無愁氏、茂木草介氏、京都伸夫氏等がいた。
(「わが文壇的自叙伝」より)
 そうか、そんな藤沢桓夫のもとに集った若手のひとりだったんだ。そうかそうか、吉井栄治ってそういう人だったんだ。うん、それじゃあまた。
 と立ち去ろうとする人を、あえてワタクシは止めはしない。しかし直木賞研究にとっては、おっとどっこい根本的かつ重大な問題が残されている。吉井栄治が直木賞候補になったのは第23回。候補作は「微笑」「北風」。ここまでははっきりしている。……でも、それって、何ていう雑誌に載った小説なの? もしくは、どの出版社から刊行された小説なの? ……そんな直木賞マニアの純真無垢なる可愛らしい疑問に、答えてくれる親切なおじさんおばさんが、どこにもいないのだ。せちがらいよのう。

 困ったな。でも、しかたない。慣れない道だけど、重たい腰をあげて、いざ探索の旅路に足を踏み出すことにしよう。めざす先は、われらが吉井栄治の候補作「微笑」「北風」である。
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