選評の概要
55.56. 57. 58. 59. 60.
61. 62. 63. 64. 65.
66. 67. 68. 69. 70.
71. 72. 73. 74. 75.
76. 77. 78. 79. 80.
81. 82. 83. 84. 85.
86. 87. 88. 89. 90.
91. 92. 93.
このページの情報は「芥川賞のすべて・のようなもの」内の「選考委員の群像 水上勉」と同じものです。 | ||
生没年月日【注】 | 大正8年/1919年3月8日~平成16年/2004年9月8日 | |
在任期間 | 第55回~第93回(通算19.5年・39回) | |
在任年齢 | 47歳3ヶ月~66歳3ヶ月 | |
経歴 | 福井県生まれ。立命館大学国文科中退。 | |
受賞歴・候補歴 |
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サブサイトリンク | ||
処女作 | 「フライパンの歌」(昭和23年/1948年) | |
個人全集 | 『水上勉全集』全26巻(昭和51年/1976年6月~昭和53年/1978年11月・中央公論社刊) 『新編 水上勉全集』全16巻(平成7年/1995年10月~平成9年/1997年1月・中央公論社刊) |
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直木賞候補歴 | 第42回候補 『霧と影』(昭和34年/1959年8月・河出書房新社刊) 第43回候補 『海の牙』(昭和35年/1960年4月・河出書房新社刊) 第43回候補 『耳』(昭和35年/1960年5月・光文社/カッパノベルス) 第45回受賞 「雁の寺」(『別冊文藝春秋』75号[昭和36年/1961年3月]) |
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サイト内リンク | ▼小研究-ミステリーと直木賞 ▼直木賞受賞作全作読破への道Part3 |
下記の選評の概要には、評価として◎か○をつけたもの(見方・注意点を参照)、または受賞作に対するもののみ抜粋しました。さらにくわしい情報は、各回の「この回の全概要」をクリックしてご覧ください。
選考委員 水上勉 49歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
佐木隆三 | 31歳 |
◎ | 15 | 「どちらかといえば芥川賞に廻した方がいいと思えたが、とにかく、おもしろく読めた。」「“大将”の出ないのもおもしろいし、“わたし”の立場もよくわかる。この作に固執したのは私ともう一人の委員だけなので早くに落ちた。」 |
梶野豊三 | 48歳 |
○ | 11 | 「いいと思った。ちょっと変っていて、奇妙な人間関係がおもしろい。しかし、直木賞としてはどうだろうか、といわれると、押しが弱まった。」 |
「八作ともいちおうの出来とはいうものの、とくに秀でた個性味のある傑作にめぐりあわなかったのが今回である。」 | ||||
選評出典:『オール讀物』昭和43年/1968年10月号 |
選考委員 水上勉 49歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
阪田寛夫 | 43歳 |
◎ | 27 | 「もし二人授賞というようなことがあれば、私は(引用者注:陳舜臣と)阪田さんの「わが町」だと思った。」「いい小説だと思う。わかりやすい、清潔な文章だし、これは正しく作者の心田の処産である。」「私はとにかく感心した。」 |
44歳 |
○ | 14 | 「この人の全力量の出たものといえないが、これはこれで好短篇である。」「この人には「阿片戦争」という大作がある。」「それに何回も候補になっていて、ほんのわずかな差で授賞を逸してきた。今回の授賞には、まったく異存はない。」 | |
43歳 |
■ | 7 | 「読むのに苦労した。長篇のせいではない。」「文章にひっかかるところがあった。よく調べて書かれる重厚な作風に好感をもったが、ちょっと首をひねった。」 | |
選評出典:『オール讀物』昭和44年/1969年4月号 |
選考委員 水上勉 51歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
43歳 |
◎ | 15 | 「全体を読了すれば、おのずから氏の文底に秘めたこころが感じられた。」「軍隊物の常道を踏まず、自己の土俵にもち来たって、重い記録を完了している。結城氏の諸作の中でも、第一等の作品と私は思う。」 | |
36歳 |
◎ | 24 | 「今回の作品は「訪れ」「霰」の密度はない。しかし、カルテの置き順によって、人生が書き換えられてゆくという思いつきは卓抜だし、よく二軍人の人生を追跡し、文章も簡略なのがまた効を奏しているようにも思われた。」 | |
林青梧 | 40歳 |
○ | 13 | 「正成一族のことを知らなかったので興味ぶかく読んだ」「私は小説として読み、その力量を感じていた。だが、積極的に推せなかった。授賞二作に比べたせいである。」 |
選評出典:『オール讀物』昭和45年/1970年10月号 |
選考委員 水上勉 53歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
37歳 |
◎ | 15 | 「「自分のことば」をもっている。」「軽妙にしてずっしりと重い。おそらく日本文壇は、何年ぶりかで、個性ゆたかな作家を得たといえる。」 | |
47歳 |
○ | 10 | 「めぐりあった題材を丹念にしあげて、その重厚さは候補作中で群をぬいたが、たとえば、素伝の心理の書き込みに不足している点が私に不満であった、だが、これとて堂々と受賞していい面目である。」 | |
桂英澄 | 54歳 |
○ | 10 | 「抑制のきいた文体で、歴史の隅に生きた人間に静かな光りをあたえ、その作家的態度に魅かれた。」「私には、忘れがたい作品の一つとなった。」 |
「今回は久しぶりに佳作群にめぐりあった感がふかい。」 | ||||
選評出典:『オール讀物』昭和47年/1972年10月号 |
選考委員 水上勉 58歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
高橋昌男 | 42歳 |
○ | 19 | 「私も敗戦前後、新宿かいわいで暮してもいたから、よくその雰囲気が出ていると思った。また女性がよく描けていると思った。」「やや小粒な感じもしないではない。」 |
小関智弘 | 44歳 |
○ | 19 | 「そこで暮した人のつよみがあり、町工場の内部の人間模様がよくわかるように書かれてある。主人公の心理も、時々光る一行で確かに表現されているところがあって、全候補の中で、もっとも小説らしい、人間を描くことに集中している視線を感じた。」「やや小粒な感じもしないではない。」 |
「今回はどの作品もいちおうは書けているがずばぬけてという作ではなかった。」 | ||||
選評出典:『オール讀物』昭和53年/1978年4月号 |
選考委員 水上勉 60歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
54歳 |
◎ | 38 | 「最も光っていた」「私はどちらも好きだったが、「ミミのこと」の方につよくひかれた。」「語り手の、さらりとして温かく、飄々として、鋭い独特の視線は、不思議な文芸世界を創りあげている。(引用者中略)一字一字が田中さんの心田からにじみ出てくる。そこに心を打たれた。」「直木賞が、しつこく田中さんをつかんで、今日に至ったことは文学史上の快挙である。」 | |
中山千夏 | 31歳 |
○ | 13 | 「したたかな眼と文体が心にのこり、私は出かける時は、田中さんと中山さんか、と思って会場に入ったのだった。」「文体の要所で光るこのひと独自の表現力である。前半のわずらわしさが少し削られていたら、文句のない好短篇となったろう。」 |
44歳 |
□ | 16 | 「エスプリに富んだ技巧派の文芸といえる。なかには思いつきめいた材料をご自分だけでおもしろがっておられるようにも思える作品もあるが、人生の闇の断面がたくみに切りとらえられて、心を打つ作品に出あうと、やはり、これも阿刀田さんの力だと思い脱帽したのである。」「受賞に異存はない。」 | |
選評出典:『オール讀物』昭和54年/1979年10月号 |
選考委員 水上勉 63歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
高橋治 | 53歳 |
◎ | 25 | 「いちばん魅かれた。」「説明が多くて、描写が少ない、という欠点もあった。「伝」を語ることのむずかしさだ。これが小説か、といわれれば、作者も、考えこまざるを得ないだろうが、私は推すつもりでいた。作者の小津さんへの畏敬のふかさに魅かれたからだ。不運にも、賛成委員が少なかった。」 |
赤瀬川隼 | 51歳 |
○ | 13 | 「仕上りの心地よさがつたわる好短篇だった。」「野球をあまり知らない私も、ひっぱられた。こんな一日の連帯を作者はその心奥で創ってみせたのである。ここには人生があった。」 |
「授賞なしは、この他の候補作品の低調も語って、今回はしかたがない。」 | ||||
選評出典:『オール讀物』昭和58年/1983年4月号 |
選考委員 水上勉 64歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
58歳 |
◎ | 41 | 「他委員の票数も多く、満足したが、多少気にかかった文章の粗さが云々された。」「頁を追うほど興味がつのった。凡手でない。荒語りといっていい。正しくこれは兵卒が地べたから見た俘虜記である。」「ああ、戦争はいやだな、とつくづく思わせるのである。そういう感想は、過去の胡桃沢さんの候補作からは得られなかった。」「長い精進の日日も思われて、授賞に賛成する側にまわった。」 | |
森瑤子 | 42歳 |
○ | 12 | 「達者である。子づれの勝気な女が、亭主と、べつの男とのあいだを揺れてくらす心象とは、こういうものかと納得させられたが、芥川賞の方にまわっていい素質である。房事の前後をじつにうまく描く人だ。」 |
選評出典:『オール讀物』昭和58年/1983年10月号 |