選評の概要
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生没年月日【注】 | 明治25年/1892年4月9日~昭和39年/1964年5月6日 | |
在任期間 | 第1回~第46回(通算27年・46回) | |
在任年齢 | 43歳2ヶ月~69歳8ヶ月 | |
経歴 | 和歌山県生まれ。慶應義塾大学予科文学部中退。 中学時代から「明星」「趣味」などに歌を投稿。 大学中退後は油絵で二科会展で入選したこともある。 大正6年/1917年「西班牙犬の家」「病める薔薇」で作家として出発。 小説、詩、評論、随筆と幅広く活躍。小説の代表作に「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」などがある。 また昭和5年/1930年には谷崎潤一郎の妻だった千代と結婚し、谷崎、佐藤、千代の3人連名の声明が話題となった。 師に生田長江がいる。 |
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受賞歴・候補歴 | ||
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個人全集 | 『自選佐藤春夫全集』全10巻(昭和31年/1956年~昭和33年/1958年・河出書房刊) 『佐藤春夫全集』全12巻(昭和41年/1966年~昭和45年/1970年・講談社刊) 『定本佐藤春夫全集』全36巻・別巻2(平成10年/1998年~平成13年/2001年・臨川書店刊) |
下記の選評の概要には、評価として◎か○をつけたもの(見方・注意点を参照)、または受賞作に対するもののみ抜粋しました。さらにくわしい情報は、各回の「この回の全概要」をクリックしてご覧ください。
選考委員 佐藤春夫 43歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
伊藤佐喜雄 | 25歳 |
◎ | 21 | 「花の宴は作者が広汎なる世界を描破せんとする野心的作品としてその意図の壮を喜び候へ共作者年少の故にや、或は作品未完了の為にや少々未完成の感あるを惜しむ。」「面影は完成せる好短篇なるべく、聊少女小説めくとか繊弱にして稍浮華などの非難も聞かれ候もかの病床の主人公にはふさはしき手法と小生は弁護致し度存じ候、」「この一作者に授賞候はん事必ずしも不適当ならざるべく思ひ切つてこの作者に決定せまほしく小生は感じ申し候。」 |
選評出典:『芥川賞全集 第一巻』昭和57年/1982年2月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和11年/1936年4月号) |
選考委員 佐藤春夫 44歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
37歳 |
○ | 33 | 「自分は第一流の作品と認めた。」「「普賢」の逞しくて高い文学精神、「地中海」の本格的でしかも清新な趣のある作風、どちらが当選しても不足はないが、同時にどちらかを捨てるだけの気持にもなれない。」「通俗性は「普賢」では説話の底にかくされているが、やはり潜在していて値のあるものである。」「二篇を同じく当選と決定になった時には自分は何やら安堵の吐息が出るような気持で臨機に最も適当な処置をとってくれた菊池氏に感謝した。」 | |
34歳 |
○ | 33 | 「自分は第一流の作品と認めた。」「「普賢」の逞しくて高い文学精神、「地中海」の本格的でしかも清新な趣のある作風、どちらが当選しても不足はないが、同時にどちらかを捨てるだけの気持にもなれない。」「通俗性も問題になったが、それは小説の本質としてなければならない程度の当然のもので、卑しい通俗性でないと思う。」「二篇を同じく当選と決定になった時には自分は何やら安堵の吐息が出るような気持で臨機に最も適当な処置をとってくれた菊池氏に感謝した。」 | |
伊藤永之介 | 33歳 |
○ | 13 | 「自分は第一流の作品と認めた。」「素朴で色気と滑稽味とが悲しいユーモアを成して、人間愛の精神に溢れた一篇が注目されなかったのは尠からず心残りではある」 |
選評出典:『芥川賞全集 第一巻』昭和57年/1982年2月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和12年/1937年3月号) |
選考委員 佐藤春夫 46歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
田畑修一郎 | 34歳 |
◎ | 21 | 「この三篇(引用者注:「厚物咲」「鴉」「鳥羽家の子供」)から一篇を抜く英断には苦労が入る。」「妙に神経質で人好きがしない、そのくせ一々急所を押えた心理的な筆致が相当くっきりと鳥羽家をまる彫しているのを認めなければなるまい。」「当選作はこの篇に限る。」「ここいらでもう一ふんばりして立ち直って欲しいものである。口はばったいが乃公がついている。三宅島などをほっつき歩く間にもう一作なからざるべからず。」 |
37歳 |
□ | 15 | 「この三篇(引用者注:「厚物咲」「鴉」「鳥羽家の子供」)から一篇を抜く英断には苦労が入る。」「「厚物咲」の味は少々通俗の難がありはしないか。」「その通俗性は難でもあるが考え方によっては人間臭として一つの長所にもなる。肝腎の厚物咲なども果して描けているかどうか怪しいが、これを支持する人が出ても大して無理がないだけの作品には相違ない。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第二巻』昭和57年/1982年3月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和13年/1938年9月号) |
選考委員 佐藤春夫 47歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
32歳 |
◎ | 22 | 「二篇(引用者注:「密猟者」と「光の中に」)をこの順序で推すつもりで委員会に出席した。」「異常な人物事件場面を描き出して殆んど欠点というべきものがない。特に「豹」という人物は立体的に写されていると思う。」「例えば最初の船に乗り込むまでのあたりなどメリメを思い出しながら読んで芥川が見たら喜ぶに決っている作品だと思った。」 | |
金史良 | 25歳 |
○ | 14 | 「二篇(引用者注:「密猟者」と「光の中に」)をこの順序で推すつもりで委員会に出席した。」「私小説のうちに民族の悲痛な運命を存分に織り込んで私小説を一種の社会小説にまでした手柄と稚拙ながらもいい味のある筆致をもなかなかに捨て難いのを感じた。」 |
選評出典:『芥川賞全集 第二巻』昭和57年/1982年3月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号) |
選考委員 佐藤春夫 48歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
並木宋之介 | 43歳 |
○ | 21 | 「はじめ相当に支持者があったという事であったが、これは白行簡の李〈女+圭〉伝の飜訳で、しかも訳文は原文に及ばぬものであるという説が行われて大きく評価を減じたというのであった。」「並木氏がこの話柄に賦与した作の精神は独自のものであり非常に間接に側面的にではあるが一種の文明批評やインテリの自己批判など現代の文学として作者の息づかいを感じさせるものが多いのだから、これを飜訳として捨て去ることは当らないという説を執って自分はこれを選外佳作にしてもらった。」 |
選評出典:『芥川賞全集 第二巻』昭和57年/1982年3月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和15年/1940年9月号) |
選考委員 佐藤春夫 49歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
相野田敏之 | 24歳 |
○ | 23 | 「(引用者注:「長江デルタ」と)出来は同じくらいだと思う。」「古い。概念的に古いのだけれども、実際的にはそう古い感じではないと思う。」「気品という点からは、(引用者中略)欠点があっても推すナ。」「文学としては(引用者注:「長江デルタ」より)「山彦」のほうがいいという僕の考えは変らないのだ。」「ただ気違いを書いているというだけでなく、僕は人生を書いたものとして相当深みがあると思う。」 |
埴原一亟 | 33歳 |
○ | 2 | 「うまいという点では「下職人」が一番だと思う。」 |
28歳 |
△ | 30 | 「(引用者注:「山彦」と)出来は同じくらいだと思う。」「テーマはいいけれども、神経がよく行き届いていない作品だと思う。」「ちょっと神経があらい。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第三巻』昭和57年/1982年4月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和16年/1941年9月号) |
選考委員 佐藤春夫 58歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
田宮虎彦 | 39歳 |
◎ | 10 | 「最初はひとりを選べとの仰せ故田宮虎彦氏を挙げ」「仰せの如く田宮氏は既に流行作家の観あり、芥川賞作家の域を出ている上、当選作品で特にどれという一篇を決めにくい点、編輯部の意見が田宮氏を喜ばなかったのではありますまいか。それも認めます。しかし実のところは、あまり編輯部が強硬に主張されるのは、(もしそういう事実がありとすれば)御遠慮願いたいのですが。」 |
35歳 |
□ | 23 | 「人生に対処する、この作者の態度、あの素材に向っての作者の目の角度にある特色とあの独特なスタイルに出来上っている表現力は珍重すべく当選に値するものでしょう。」「云わば実直な戯作(原文傍点)とでもいう観で、自然主義風の純客観や描写万能から一歩突きぬけた境地(これを邪道とする人もあるかも知れないが、自分は一詩情と思う)この点、多分坂口君あたりの共鳴が多かったろうか。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第四巻』昭和57年/1982年5月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和25年/1950年10月号) |
選考委員 佐藤春夫 59歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
柴田錬三郎 | 34歳 |
◎ | 13 | 「終始一貫して柴田錬三郎の「デスマスク」を自分は念頭に置いていた。」「自分が柴田の志を励まして執筆させ仕上げに関する助言まで与えて三田文學に発表した作品であり、またすべての候補作品を丹念に閲読して後も「デスマスク」を最も力量のある作家のよく纏めた作品だと認めたからである。」 |
27歳 |
□ | 7 | 「(引用者注:「春の草」にくらべて)鴎外訳のロシヤ小説(引用者中略)の模倣ではあろうともその意図と文体の新鮮なだけでもよかろうというと、別に瀧井君なども同意見であったが安部公房は既に別の賞金(戦後文学賞)を貰った人ではあり、彼一人では後塵を拝する観があって面白くないと云う説もあって、石川・安部と二人を組み合した授賞になった。」 | |
37歳 |
● | 8 | 「「春の草」は自然主義文学の亜流で少し手のこんだ世間話を腕達者に書いているという程度にしか自分には受入れられなかった。「春の草」にくらべると前回の「夜の貌」の方が取柄があると自分には思えた。」「或る程度には書ける人には相違あるまい。しかし敢て云う、この作者の何処に芥川賞に相当するものがあるのか。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第四巻』昭和57年/1982年5月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和26年/1951年10月号) |
選考委員 佐藤春夫 61歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
庄野潤三 | 32歳 |
◎ | 36 | 「好みから云って自分は、庄野潤三のエッチングのような手法で描き出された明朗闊達な「流木」を好しとした。あまりに単純にすぎるかのようであるが、そこが作者のねらいなのであろう。」「特にあのなかの若いヘロインがいかにも現代の女性らしいのを好しと思う。尤もその反対に男の性格が少々ぼんやりしているのをこの作の欠点と思う。」 |
「三氏(引用者注:庄野潤三、小島信夫、広池秋子)の三篇のなかから優劣を決して唯一篇を採るのは難儀であった。(引用者中略)どの一篇を採ってみても従来の芥川賞作品の水準には達しているものと自分は思う。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和29年/1954年3月号) |
選考委員 佐藤春夫 63歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
藤枝静男 | 48歳 |
◎ | 17 | 「二篇(引用者注:「痩我慢の説」と「太陽の季節」)の優劣を断じる結論に到って、僕は他の諸君、主として石川、舟橋の両君と対立して「痩我慢の説」を採ろうと云いつづけた。」「単純な風俗小説の域を超えた一個の文明批評を志しているところをおとなの文学(原文傍点)と思った。」「その立体的な描法、重厚な興味は当選作とは雲泥の相違があることは文学を理解するおとな(原文傍点)が虚心に見るなら誰にもわかると思う。僕は今も尚、この落選作を推す。」 |
23歳 |
● | 25 | 「反倫理的なのは必ずも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。」「僕はまたしても小谷剛を世に送るのかとその経過を傍観しながらも、これに感心したとあっては恥しいから僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わないよと念を押し宣言して置いた。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和31年/1956年3月号) |
選考委員 佐藤春夫 66歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
金達寿 | 39歳 |
○ | 12 | 「文章も調子は高くないにしても一とおり以上にこなれている。全部のなかで最もよく書かれているのがこの篇であろう。韓国とその住民とがあざやかに浮彫されているのは十分に買わなければなるまい。」「惜しくも新人の短篇という芥川賞の資格から外れるとか。」 |
「すべて読み了って、実のところ今度ほど困った事はなかった。何のどこが面白いのか更にわからない。果は自分の頭を疑ってみる始末。」「結局今回は無しということになるのが当然らしい。十篇も駄作を読んで我々は終にくたびれ儲けということになる。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第五巻』昭和57年/1982年6月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和34年/1959年3月号) |
選考委員 佐藤春夫 67歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
49歳 |
○ | 20 | 「(引用者注:「谿間にて」「山塔」「ある異邦人の死」のうちから)第一位のものを決定するに困難を感じて、それは衆議によって決してもらうつもりで審査の席に出た。」「とっつきは悪いが、じっくり読むと底光りするものがある。少しく老人性センチメンタリズムのあるのが気になるが。その難を補って余りある独自の世界の創造がある。」 | |
北杜夫 | 32歳 |
○ | 18 | 「(引用者注:「谿間にて」「山塔」「ある異邦人の死」のうちから)第一位のものを決定するに困難を感じて、それは衆議によって決してもらうつもりで審査の席に出た。」「北杜夫君は見るから最も年少らしく文学歴も最も浅いらしいから授賞はもう少し待ってもよいと思う。その文学精神は最も純粋で高いのが好もしいし着眼点もよいが作法的に未熟な点もある。とは云え前の作品より一作一作とよくなって来ているのは頼もしい。」 |
佃実夫 | 33歳 |
○ | 17 | 「(引用者注:「谿間にて」「山塔」「ある異邦人の死」のうちから)第一位のものを決定するに困難を感じて、それは衆議によって決してもらうつもりで審査の席に出た。」「モラエス伝を巧妙に小説化して成功していると思うが、この特異の取材と特異な作風とは看る人によって評価はまちまちになるであろう。やや直木賞的におもしろく書きすぎているような難がないでもないが、作者の力量は十分現われている。」 |
選評出典:『芥川賞全集 第六巻』昭和57年/1982年7月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和34年/1959年9月号) |
選考委員 佐藤春夫 68歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
坂口䙥子 | 46歳 |
◎ | 16 | 「当選圏内に入れる作品」「たどたどしい表現でちと読みづらいがなかなか適切に表現力のあるもので、ひょっとするとこのたどたどしさも意識しての技巧ではないかと思わせるほどで、これは大した達者な文章だと感心した。「忍ぶ川」にくらべてこの方が新しい。」「第一級の作品と見て、(引用者中略)僕は第一を「蕃婦ロポウ」第二を「忍ぶ川」と考えて出席した。」 |
29歳 |
○ | 18 | 「当選圏内に入れる作品」「起承転結のよく調ったなかなか作法を心得た出来栄えで、結末のさびしいハッピーエンドもよく利いているとは思ったがその題に表われているようなふるさ(原文傍点)が少々気にならないでもなかった。」「誰でも好意が持たれそうなところにふるさと甘さがあるようでもある。それにしても九篇のうち第一等ではないにしても第一級の作品であることに疑いない。」「当選に不満はなかった。」 | |
「(引用者注:「夏の終り」以外は)みなそれぞれに取得もありおもしろく読んで候補作品に値すると思った」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第六巻』昭和57年/1982年7月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和36年/1961年3月号) |
選考委員 佐藤春夫 69歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
小牧永典 | (36歳) |
◎ | 10 | 「誰をもすぐ納得させるには少し足らぬ何物かがあるが、この態度とこの文体とにこれこそ文学と思われるものを僕は感じた。」「この詩を解せぬ人は多く、到底賛成票はあるまいと思い、また授賞しても花形作家にはなれない作者と思いながらも、これを支持して他は顧ず、」 |
「今度の予選作七篇はみな粒ぞろいで、ともかくも候補作としての資格を持っていた。」 | ||||
選評出典:『芥川賞全集 第六巻』昭和57年/1982年7月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和36年/1961年9月号) |
選考委員 佐藤春夫 69歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
吉村昭 | 34歳 |
◎ | 14 | 「僕は会場に臨む前から「透明標本」と決めていた。神経の行きとどいた明快な文体とこの特異な取材との必然性を見て、これをホンモノと思い、少々都合のよすぎる筋立てもあるとは思いながらも層々として盛り上り進捗するのもよく、独自の世界を創作し得て一頭地を抜く作とする。」「風変りな取材のため正当な理解を得られなかったのは、作者のためには気の毒、賞のためには残念だが是非もない。」 |
27歳 |
■ | 18 | 「瀧井氏のいうとおり「光りの飢え」にくらべてずっと難のない作品に相違なかった。」「この作者を才能の人とも思う。」「惜しむらくは郷土伝説的には仕上げられず、ただ荒っぽく書かれているだけで、素朴に古拙な趣は見られない。かえって近代的な観念が末尾でとってつけたように露出するのは欠点であろう。」 | |
選評出典:『芥川賞全集 第六巻』昭和57年/1982年7月・文藝春秋刊 再録(初出:『文藝春秋』昭和37年/1962年3月号) |