選評の概要
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36. 37. 38. 39. 40.
41. 42. 43. 44. 45.
46. 47.
生没年月日【注】 | 明治25年/1892年8月11日~昭和37年/1962年9月7日 | |
在任期間 | 第1回~第20回、第27回~第47回(通算20.5年・41回) | |
在任年齢 | 42歳10ヶ月~52歳4ヶ月、59歳10ヶ月~69歳10ヶ月 | |
経歴 | 本名=吉川英次。 神奈川県生まれ。太田尋常高小中退。 船員工など職を転々とし、大正3年/1914年に「講談倶楽部」の懸賞小説に「江の島物語」が一等当選。 大正10年/1921年~12年、東京毎夕新聞社勤務後、専業作家となる。 「鳴門秘帖」「親鸞」「宮本武蔵」「新・平家物語」「私本太平記」など数多くの作品を遺した。 |
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受賞歴・候補歴 | ||
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個人全集 | 『吉川英治全集』全53巻・補5巻(講談社) |
下記の選評の概要には、評価として◎か○をつけたもの(見方・注意点を参照)、または受賞作に対するもののみ抜粋しました。さらにくわしい情報は、各回の「この回の全概要」をクリックしてご覧ください。
選考委員 吉川英治 48歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
44歳 |
◎ | 33 | 「この作家に嘱目する所以は、すでに一度大衆文学の素材域としては古くもなり荒されもして顧みられなくなった所から新しい伝奇小説が単なる伝奇にとどまらず時潮的意義を併せ持って、しかも読者のロマンチシズムの欲求をも充してゆけるであろうという期待にある。」 | |
長谷川幸延 | 37歳 |
○ | 17 | 「いつも淡味なユーモアと、あかぬけのした素材をばっちりと描く。」「いつでも推薦されるに足るだけの素養はもう十分できている人と観る。」 |
選評出典:『オール讀物』平成14年/2002年12月号再録(初出:『文藝春秋』昭和16年/1941年9月号) |
選考委員 吉川英治 61歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
長谷川幸延 | 50歳 |
◎ | 14 | 「「裏道」などは長谷川氏自体のわびしさを作中の人物に託して書いてあるとも思われ、ほかとは技巧のうまさでかけ離れているので今度推した」 |
広池秋子 | 34歳 |
○ | 4 | 「一に長谷川幸延氏、二に広池秋子氏、三に南條範夫氏という順に推薦しておいた。」 |
36歳 |
△ | 21 | 「手ちがいで、ぼくの所へ廻された候補作品のうちに有馬氏の作品がなかった」「思いきって簡潔であり的確な敍事をすすめてゆく筆触は毎回の候補作品をふり返っても近来の異色であるとおもい、」 | |
選評出典:『オール讀物』平成15年/2003年3月号再録(初出:『オール讀物』昭和29年/1954年10月号) |
選考委員 吉川英治 64歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
58歳 |
○ | 41 | 「三十年近くも文壇外にいて、活字に見なかった人である。私はむしろその事に意味があるとおもった。」「たしかにこの人は何十年も物は書かないでも何かを蓄積していたことが分るのである。」 | |
村松喬 | 39歳 |
○ | 6 | 「私の意にあった候補だった。」「よく整った作品で惜しまれたが、いろんな意味で次期の作品をもういちど見てからということになった。」 |
44歳 |
△ | 14 | 「厳密にいって、この二作(引用者注:「勝烏」と「恩田木工」)は優劣もつけかねるものだが、投票によって「勝烏」ときまった。」 | |
選評出典:『オール讀物』昭和32年/1957年4月号 |
選考委員 吉川英治 64歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
35歳 |
○ | 25 | 「敗戦行という人間を失った人間群を描きながら、どの人間にも、あいまいさがない。」「何しろ、筆者は非凡である。作中随所の、ほんとなら、かすんでしまっている箇所なども、あざやかな描破を逸していない。」 | |
池波正太郎 | 34歳 |
○ | 10 | 「こんどの「眼」なども私は大いにその苦心のあとをかったが、しかし前の恩田木工の方がよいとする委員の方が多かった。私とは逆なのである。」 |
有吉佐和子 | 26歳 |
○ | 8 | 「その小説的巧者なのにおどろいた。直木賞の委員なら、反対する理由が何もないほどである。」 |
村松喬 | 40歳 |
○ | 7 | 「以上三篇(引用者注:「白い扇」「眼」「ONLY・YOU」)は、こんどの候補中ですぐれた作品だったことを今も思っている。」 |
選評出典:『オール讀物』昭和32年/1957年10月号 |
選考委員 吉川英治 65歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
北川荘平 | 27歳 |
○ | 7 | 「見送られたのは私にしても心残りだった。」「私たちに印象づけたこの人の才筆はさらに今日の惜みを想起させる二作にきっと接しうる気がしている。」 |
33歳 |
△ | 12 | 「だいたい、うごかない或る位置をもっている。」「前作「のれん」を誰も読んでおり、それに比べての進歩がたいへん信頼をつよめていたのである。」 | |
45歳 |
△ | 8 | 「これを跳躍台に、氏が従来の惜まれ惜まれて来たものを一ばい腰をすえて打出してもらえるなら大きな意味をなすものという期待が委員の誰からも言われていた。」 | |
選評出典:『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 |
選考委員 吉川英治 66歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
野口冨士男 | 47歳 |
◎ | 10 | 「おもしろさと確かさにおいて、(引用者中略)群を抜いたものといっていい。これが受賞に入らなかったのは入賞三篇は採れないという理由のほかはない。」 |
31歳 |
○ | 24 | 「私はこの作家がその幼稚な無謀さをもって、特異な社会題材を、文学領域にまで持ちこんだ野心と勇とをみとめないでいられない。」 | |
深田祐介 | 27歳 |
○ | 4 | 「深田祐介氏には未来があろう。」「ついに今回はもれたが、その才筆は光っている。」 |
39歳 |
■ | 13 | 「私にはいささか作為のあとにこの種の物としてはこっくりのみ込みきれないものがあった。」「ソツのない構成やタッチの巧さは、この人の仕事ぶりと将来性を保証して余りあるものだが、(引用者中略)もう一つ何か推理の醍醐味らしい陰影と肌理が欲しい。」 | |
選評出典:『オール讀物』昭和34年/1959年4月号 |
選考委員 吉川英治 67歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
葉山修平 | 30歳 |
◎ | 13 | 「文章が上手である。構成もいい。」「私はこんどの全作品中の首位に推してもいいほどにこれは高く評価していた。」「作品の可否とはべつに直木賞として挙げ難い危惧があった。」 |
水上勉 | 41歳 |
○ | 14 | 「水上氏の挑んでいる社会小説的な作家眼とそのいやみのない筆のタッチに心をひかれる。」 |
37歳 |
△ | 24 | 「このまとめ方の中に無理があり上手過ぎるきらいがありいくらでも短所をあげればあげられる。自重していただきたい。」「せっかくな才を余り才走らず周囲の重宝にばかりならず大切につかってもらいたい。」 | |
「有力な候補線上に推理小説のどれも若々しい意欲をもった作家たちが肩をならべていたことがこんどの選考ではいちばん目だった特徴であった。」 | ||||
選評出典:『オール讀物』昭和35年/1960年10月号 |
選考委員 吉川英治 68歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
39歳 |
◎ | 26 | 「この戯画風な一テーマはなかなか捨て難い現代宗教への皮肉やら社会本能の課題をもふくんでいて、やはりこんどの候補数篇のうちでは嶄然と独自な境地を持っているものといってはばかるまい。」「私はこれを第一に推した。」 | |
36歳 |
○ | 18 | 「文学的な意欲と、その野心への勇気をかけて見せている」「難をいえば推理小説でなくてはならない理由がなく、いっそ純然たるどろんこ生態の心理を描きやぶるメスであった方がこの小説を光らせていたのではないかしらとも思われる。」 | |
夏目千代 | (46歳) |
○ | 3 | 「かなりの点を私は入れたが衆評に従った。」 |
選評出典:『オール讀物』昭和36年/1961年4月号 |
選考委員 吉川英治 68歳 | ||||
候補 | 評価 | 行数 | 評言 | |
42歳 |
◎ | 8 | 「推薦理由を、それ(引用者注:欠席のため提出した文書)には極力といっていいほどかなり述べつくした。なにかここでまた書くのはひとつことを二度もくりかえすようで気がのらない。他氏の推薦の辞におまかせしておく。」 | |
杜山悠 | 44歳 |
○ | 13 | 「もし次席をということでもあるなれば、私は躊躇なく(引用者中略)推す。克明で深味のある佳い作品ではあるが、「村」が「人」が描きつくせたとはいわれない。」「一資料によらずほかの資料もよくこな(原文傍点)しえてこれくらいに書ける人であったらゆくゆく至嘱に値しよう。」 |
「欠席したので、私は自分の寸見を、当夜の委員会へは文書にしてとどけた。」 | ||||
選評出典:『オール讀物』昭和36年/1961年10月号 |